四季・めぐりめぐりて

近隣の城館跡・古墳などの史跡めぐりなどをぼちぼちながらやっています

山田城跡(埼玉県滑川町)

2010年02月21日 | 100名城以外の城館跡












 本日は、比企郡滑川町にある『山田城跡』に登城してきました。この城、松山城の出城ではないか等の伝承がある以外は素性のはっきりしない
城であるようです(この城に関する文献等がないため)。今までいくつかの城攻めをしてきましたが、登城料がかかったのはここが初めてです。
 つまり、駐車料金と入園料合計で1010円も徴収されました。 仕方ないですね。国営武蔵丘陵森林公園の中にある城跡ですから、まずは
公園に入園しなければなりませんので。 この城跡は、公園南口を入ってすぐのところにあります。標識が出ていますので、標識方向に進むと、
丸太で出来た階段がありますのでここを上がります。ここが本郭の跡のようです。 郭周囲は、土塁と空堀で囲まれております。
 城跡は決して広くはありませんが、遺構の状態がよいので素人目にもよく分かりました。 でも、城跡研究家や余程の物好きは別として、
素人には入園料等を払ってまで攻めるだけの城跡ではないかもしれませんね。他の用事と併せてなら話は別ですが・・・
 公園内にはもうひとつ「山崎城跡」があったのに攻め損なった(無念)

 なお、「山田城跡」は、「埼玉県選定重要遺跡」となっています。

散策日:2010年(平成22年)2月21日(日)        

越生梅林(埼玉県越生町)

2010年02月20日 | 花・鳥・風景




連日雪が降ったりと、寒い日が続きましたので、ちょっと早いかとは思ったのですが、入間郡越生町の『越生梅林』に行ってきました。
来週28日の日曜日ならモデル撮影会もあるし(私には無縁のイベントですが)、梅花も見ごろになるでしょうが、28日は用事があり
ますので、天気のよかった本日行ってみた次第です。














やはりちょっと早かったようです。でも、好天に恵まれて梅見客は沢山来ておりました。茶会をやってました。一服200円也。
昔、私も家で抹茶を・・・茶道具は今何処。また、県内の某女子高筝曲部の皆さんの筝曲演奏もありました。








福寿草園もありますが、まだいくらも咲いてはいなかったですね。梅林内には線路が敷かれています。SLが、ミニSLが走るためです。
本日のSL運行を終了して片づけをしているところをお願いして、SLの勇姿を撮らせていただきました。SL後方の線路を見てください。
左方向にカーブした線路がありますが、これは車庫に通ずる線路です。 このミニSLは、かつてJR八高線を走っていた9600型という
SLの10分の1の模型だそうです。また明日も沢山のちびっ子が乗車することでしょう。

散策日:2010年(平成22年)2月20日(土)          

麻場城跡(群馬県甘楽町)

2010年02月16日 | 100名城以外の城館跡






指 定 平成元年8月24日   町指定史跡
所在地 甘楽町大字白倉918番地ほか

 麻場城は、甘楽町の東北丘陵地帯の舌状(ゼツジョウ)台地上の先端部に立地した丘城である。当城は、この地の豪族白倉氏(シラクラシ)の居城であり、
約500m東方にある仁井屋城(ニイヤジョウ)と合わせて白倉城(シラクラジョウ)と呼ばれ、別城一郭(ベツジョウイッカク)(双子城とも言って、
二つの城が一人の城主のもとに相助けて戦う構造)の形態といわれている。城址公園整備に伴い、平成元~3年(1989~1991)に調査が実施され、
本丸(城の中心となる曲輪(クルワ)で、東西の南側約60m、同北側約42m、南北約54mの台形状)内には、土塁(土を盛り、たたいて固める)が
まわっていたと推考でき、周囲には空堀(カラボリ)(上幅約15m、下幅約3.5m、深さ約6mの逆台形)がめぐり、東側の堀と北側の堀のほぼ中央
付近には橋を架けたと思われる穴が見つかっている。虎口(コグチ)(出入口)は、本丸の南側中央にあり、幅約2m弱の土橋構造で、二の丸(本丸を
保護する曲輪)へと続いている。白倉氏は、小幡氏(オバタシ)と並んで関東管領(カントウカンレイ)上杉氏の重鎮(ジュウチン)であったが、
天正(テンショウ)18年(1590)国峯(クニミネ)城と同時に落城し、小幡氏とともに滅んだ。平成4年(1992)4月、麻場(アサバ)城址公園となった。
                                                 (以上は甘楽町ホームページから引用)

と言うことで、群馬県甘楽町の『麻場城跡』に登城してきました。あとは余計なことは書かずに写真説明だけで・・・




笹曲輪手前の空堀 




帯曲輪




展望台 前に立っている柱に、「この展望台は城の櫓を復元したものではありません」とあります。あくまで展望台のようです。




展望台から見た空堀  木橋(木を模したコンクリート製だが)  本 丸




空 堀




空 堀




本丸跡 




本丸から見た土塁




本丸と二の丸を繋ぐ土橋




二の丸の土塁




土塁の上から見た本丸跡



二の丸跡

以上、写真で見たとおり綺麗に整備されており、素人が見ても分かりやすい遺構です。ただ、空堀の掘り方や土塁の盛り方がいかにも土木機械でやったと
いわんばかりの感じがしますし、土塁がある位置に疑問を呈する方もおりますが、城址公園のことですから許容範囲でしょう。

なお、双子城のもう一方の城である「仁井屋城」は遺構がほとんど見られないとのことから登城はしませんでした。

攻城日:2010年(平成22年)2月14日(日)          

長根城跡(群馬県高崎市)

2010年02月15日 | 100名城以外の城館跡




群馬県高崎市(旧吉井町)に、吉井町指定史跡である『長根城跡』があるとのことであった。
高崎市に合併後、高崎市指定史跡に移行されたかは不明であるが、町で指定した史跡であるならそれなりの遺構なりがあるだろうから、ここも攻めておこうと向かうことにした。

目的地に着いたもののそれらしきものはないし、案内板等もない。付近を行ったり来たりし、通りがかりの地元の人と思しき女性に訊くも「分からない」とのこと。
また付近を徘徊し、今度は男性に尋ねてみた。「そこの道を真直ぐ行くと公民館に突き当たるから、公民館に車を置いて入っていけばいい」とのことであった。
1キロ以上は走ったであろうか、「上の湯公民館」に突き当たった。公民館内では、地元の人たちが飲み会をやっていた。そんな中の一人に声を掛けて、
駐車することの了解を取った。公民館のすぐ横後ろが墓地になっており、その前に「長根城本丸跡」の石標が建っていた。場所を探すに手こずったものの、
「着いたぞ。さあ」と勢い込んで墓地の先を入っていった。畑である。城跡の遺構らしきものはない。(実はこの畑は郭の跡だったと後で知ったが)場所が違う
のかもしれないと、付近を歩いてみた。長根神社というのがあり、この神社も城跡の一部に建てられたとの説明があった。しかし、遺構らしきものを
見つけれないまま元の場所に戻ってしまった。 これ以上探しても仕方ないし、期待を裏切られた思いでここを離れることにした。

帰宅後、色々調べてみたら、まず城攻めをするに際し調べた長根城跡の所在地の番地が間違っているものを参考にしてしまっていた。
そのためになかなか辿り着けなかったわけであった。 また、実際、遺構らしき遺構は残っていないということも判明した。
遺構があるにはあるのだが、誰もが見落とすようなものであるとのことであった。

結局、長根城跡で撮った写真は、ここに載せたものだけでした。長根城というのがどんな城であったかは、ここで説明するより、写真の案内板で見てください。

散策日:2010年(平成22年)2月14日(日)            

雉岡城跡(埼玉県本庄市)

2010年02月14日 | 100名城以外の城館跡


朝起きるとあたり一面真っ白であったが、気温が上がったためか昼前には大方溶けてしまっていた。家で燻っていては勿体ないと出かけることにした。
しかし、遠方には行けないし、高所は雪も溶けていないだろうし凍結していそうだから避けなければならなかった。また城攻めでもするしかないと、
埼玉県本庄市児玉町八幡山(旧児玉町)の『雉岡城跡』を目指した。この雉岡城は別名「八幡山城」と呼ばれているようだ。
何ゆえに今回はこの城にしたか? 先週攻めた群馬県藤岡市の「平井城」の城主であった関東管領山内上杉家は、平井城に移る前、ここ「雉岡城」を
居城にしていたとのこと。それなら是非見ておこうというわけで・・・山内上杉氏のあとは後北條氏が使用したらしいし。










案内板にもあるよう城跡として残っているのは一部であるが、想像していたよりは規模も大きく、土塁や郭跡がよくわかる。












空堀はかなり深い。写真ではなかなかその深さが分からないのが残念であるが。
この深堀の中に、「夜なき石」なるものがある。これの説明版も写真に撮ったのだが、省略させてもらう。V字の空堀の先に見える建物は、児玉高校である。






この城跡の特徴として、「水堀」があることです。そういえば今まで登城した城跡で水堀が遺っていたところはなかったような。
鴨が泳いでいたほか、鷺(?)も。これ以上近づいたら飛び去ってしまいましたが。




城跡内には、埼玉の三偉人のひとり・江戸時代の盲目の国学者塙保己一の記念館が建っている。折角だから入館してみようかと思ったものの時間の都合でパス。




また、同館の脇のほうには「金比羅神社」が祀られていいます。




さらに、土塁の一番端のほうに、子供武者の石造が建っている。誰をモデルにしたのか? 建立の理由は? 等と思い何か説明板でもあるかと探したものの結局は不明。

この「雉岡城跡」も例に漏れず、城址公園として整備されているもので、郭のあちこちらに遊具や東屋がありました。
なお、ここ「雉岡城跡」は、埼玉県指定史跡となってます。

散策日:2010年(平成22年)2月14日(日)       

平井金山城跡(群馬県藤岡市)

2010年02月09日 | 100名城以外の城館跡


「平井城」を攻めておきながら、平井城の詰城と言われる『平井金山城』を攻めずに引き返しては、「平井城」を攻めた意味がないのではないかと。
そこで、『平井金山城』も攻め落とすべく向かったものの、模擬城に騙されて城入口に辿り着くまでに、時間と兵糧を無駄使いしてしまいました。

登山口に設置されている標柱です。後方の山が金山。この前が駐車場となっており20台以上の駐車が可能のようですで。
先に1台駐車車両があったので、「もしや」と思ったが城攻めの方ではなかったようです。
 



簡易トイレも設置されており、その脇には、「金山城址公園案内図」が設置されています。
図板下にある郵便受けにはパンフレットが入っていました。平井城でも同様でしたがパンフレットは同じもので、平井金山城と共通のものでした。
既に気付かれているでしょうが、この城は色々な呼び方がされています。入口看板には「平井詰(金山)城」とあり、案内板では「金山城(址公園)」
となっています。また他にも「平井詰城」とか「金山西城」等とも。しかし、金山城ですと同じ県内太田市にある金山城と混同する等のことから、
皆さん便宜上、「平井金山城」と表記しているようです。

実は、ここ登城口に辿り着いたものの、城攻めを敢行するか否か迷いました。何故なら時刻は午後2時半頃であったし、平城ならともかく
(標高330m、登山口標高150m、比高180m)の山城です。駐車場から物見台まで約45分とあり、更にその先もあるわけですから、
攻めて帰ってくるまでに陽が落ちてしまうのではと言う危惧がありました。それに体力も心配の種でした。




折角来たのだから行けるところまで行ってみようと意を決し、いざ登山道へ。登山道手前に、登山杖保管箱」があり、杖が用意されていましたが、
私は過日買ったばかりの伸縮式の登山杖を携行して行ったので初めてこれを使うことにしました。 




いよいよ登城開始。写真のような石段道ほんの僅かで、あとは自然の任すままの山道。




少しすると石積みに出会う。平井金山城の遺構か? 遺構であるなら何らかの案内板等があるはずだが、それらしきものはない。
城とは関係ない石積みなのか。パンフレットでも何も触れていない。




登山道は、写真でも分るように勾配がきついうえ、落ち葉が敷き詰められています。登山杖がなければとても登れません。
息は「ハーハー」どころか「ゼーぜー」状態。正確な文言は覚えていませんが、敵に簡単に攻められないよう急な道になっているから
物見台辺りで休みながら・・・と言った内容の看板がありました。引き返して出直そうかと思いながら、杖を突き突きどうにか物見台まで到達。
これから先は、写真の説明程度にしておきましょう。




ここが「物見台」です。前述の通り登山口から物見台まで約45分とパンフレットにはありましたが、私は何分かかったか分かりませんでした。時間を気にする余裕などなかったのです。






物見台に上がって眺望を・・・木の枝ではっきりしないかと思いますが。
物見台から「主郭(本丸)跡」を目指しました。




途中で出会った遺構です。「虎口」




「清水刻印岩」




「帯郭」




いよいよ「主郭(本丸)跡」まで来ました。主郭の手前には【案内板】が。
実は、ここに書かれた「櫓門・表城門跡」は見ておく価値があるらしかったのですが、時間が時間でしたし、見てのとおり残雪があり、もしもを考え諦めました。




金山城跡の石標には「藤岡市指定史跡」とありますが、1999年4月30日に平井城と共に県指定史跡になっております。




「金山城跡」説明板








「主郭(本丸)跡」です。




主郭跡から井戸郭へ向かう途中にある遺構「土橋」




「堀切」




「土塁」








「井戸郭」と「井戸」。 この井戸は、平井金山城を、「関東管領金山城址公園」として城跡の一部を復元・整備した際に復元した遺構のようです。

以上、見て歩いた「平井金山城跡」でしたが、時間の制約を受けながらでしたのでゆっくりと見ることもできませんでしたし、
また多くの見落としもありました。帰りは来た道を戻って下山しましたが、どうにか日が落ちないうちに駐車場まで・・・                                      
山城跡は、ここを含め何ヶ所か攻めたが厳しさは1番か2番くらいの厳しさでした。長々と綴った駄文に最後までお付き合い有難うございました。

攻城日:2010年(平成22年)2月7日(日)         

平井城跡(群馬県藤岡市)

2010年02月08日 | 100名城以外の城館跡






 群馬県藤岡市にある『平井城跡』を訪ねてきました。城跡と言っても、住宅や畑になってしまい遺構はほとんど残っておらず、主郭跡を復元整備し、
「関東管領平井城址公園」となっています。道路沿いに「関東管領平井城」と染め抜かれた幟旗が何本も立った土塁があるのですぐに分かります。
 この土塁は、復元(模擬)したものですが、写真で見たより実際には小さなものでした。




土塁の上から見たもの
ここには写っていませんが、左手に駐車場がありトイレも設けられています。




「土塁跡」、「堀跡」と刻まれた石標が建っていますが、肝心の土塁や堀跡は何処にという感じでした。




更に右手は墓所であり、墓所の周りには関東管領山内上杉家や平井城に関する碑や案内板が幾つも建てられています。その中から数点を写真にしてみました。




復元(模擬)された「橋と堀」




これまた復元(模擬)された「竪堀




この平井城は、鮎川の絶壁の上に建てられたということで、確かに裏手は写真のように絶壁です。

平井城は、先にも書いたよう関東管領山内上杉代々の居城でしたが、ここもやはり小田原北條氏との間で争いがありました。

正直、確かに城があったところかも知れませんが、遺構もほとんどなく、非難を覚悟で偏屈爺的に言えば「城跡ごっこ」としか見えない城址公園であったと
いう感は拭えません。しかし、ここは、群馬県指定史跡となっており、歴史的には重要な城跡です。この前に攻城してきた「後閑城跡」は市指定史跡ですが、
ちょっと逆なんじゃないと言いたくなるような・・・決して、身分の高い方の居城だったからということではなく、あくまでも歴史的、学術的観点からということでしょうか?

攻城日:2010年(平成22年)2月7日(日)         

後閑城跡(群馬県安中市)

2010年02月07日 | 100名城以外の城館跡


 本日の城攻めは、群馬県安中市にある『後閑城跡』にしました。幹線道路を走っている限りは残雪はなかったのですが、城跡に近づき幹線道路から
逸れた途端、日陰は白くなっています。更に、城址公園入口の看板を見つけて入っていくと、そこは細い坂道でやはり残雪が。どうにか東駐車場まで
辿り着いたが帰りが心配でした(何せ車が車だけに)。結果論ですが、もうひとつのなら西駐車場ならその心配はなかったのでしょうが、
先に見つけた入口だったもので・・・前置きはこの辺にして本題に入りましょう。






まずは駐車場に設置された「後閑城址案内図」を見て、地形を頭に入れたつもりで、「城址公園東入口」から登城開始。
早速、雪道である。が、丸太で整備された登山道であったから助かった。




階段状の坂道を上り詰めると、「二の丸」方向と「東郭群」方向との二手に分かれるので、右方向の東郭群を目指す。
「東郭群」です。複数の郭が段々畑のように連なっています。ここから次に「北郭」へと進んでみました。




下から見た「北郭」




郭です。ここには東屋「時雨亭」が建っています。これを設けたというのも、城址公園として整備したことからの一環でしょう。




北郭下から「本丸」を見た状況です。本丸への坂道は綺麗に整備された石段になっていますが、往時は全然違っていた筈です。まあ、公園ですから。




本丸北側下にある「北第一堀切」です。ここがこの後閑城跡の最大の見所であると評する方もおるようです。




本丸虎口ですが、冠木門がいいですね。この程度の質素なものがいいですよ。
あるところの冠木門は、鉄板とコンクリートで出来た大きなものでしたが、これには興ざめしてしまいましたので。






本丸跡の状況です。郭内には沢山の庚申塔があり「百庚申」の説明板がありました




ここにも東屋があり、その名は「花雲亭」。また、城跡の立体模型がありましたが、踏み台がなかったため、上から撮れず残念でした。




本丸から見た「西第一郭」、「西第二郭」、そして「西第三郭」ですが、ここに限らず全体的によく整備されていて遺構の状態がよく分かります。
「西第三郭」は駐車場になっており、雪隠も設けられております。冒頭にも書いたように、この駐車場に止めればよかったと・・・




「西第一郭」




「西第三郭」(西駐車場)から見た本丸です。




「南郭」です。ここにも東屋が立っておりその名は「夏月亭」




二の丸辺りにある「物見櫓」ですが、この場所に櫓跡を確認したことから復元したようです。




中に入り階段を上がって上に行くと、こんなものがありました。
私には何というものか分かりませんが、敵の来襲の際は、これを敲いて味方に知らせたのでしょう。




二の丸の状況です。




二の丸について書かれた説明板ですが、これを読むとよく分かりますね。




二の丸にある東屋。名前は、写真から分かると思いますので。


以上、また必要のない写真説明をしてしまいましたが、何度も書くようですがよく整備されている城跡です。
歴史については、いつものよう素人なので書けません。城主は、後閑氏でしたが、ここもやはり小田原・北條氏直の臣下にあったようです。

この「後閑城址公園」は、安中市指定史跡となっています。

実はこの城攻めの途中、本丸跡で「後閑城址」の標柱の脇に立ち、記念写真をとセルフタイマーにして三脚にデジカメをセットしたのはいいのですが、
風が・・・・バターン。見事にデジカメが壊れてしまいました。ここで泣いて帰るわけにも行かず、予備のデジカメで城攻めを続行。
帰宅後、このことを話したら、「こんな風の日に三脚を立てたら当たり前だろう」。ごもっとも。(なお、この記事の大部分は、2月8日に追記しました)

攻城日:2010年(平成22年)2月7日(日)            

岡城跡(埼玉県朝霞市)

2010年02月05日 | 100名城以外の城館跡


朝霞市岡という所にあるのが「岡城跡」(「岡の城」と表記するところもある)である。この城跡も公園化されている。しかし、
城址公園ではなく都市公園にである。この写真が岡城のあった城山であるが、道路(城山通り)部分もかつては城山の一部であったらしい。




公園登り口に設けられた案内図であるが、城山公園とあるものの「岡城」あるいは「岡の城」と言った表記は何処にもない。図の中に「郭」と
いう言葉が使われているものの、城跡に全く興味をもたない者であったら、ここに岡城という戦国時代の城があったとは気付かないかもしれない。
え! 「城山公園」ってあるから分かるって。 ここでも歴史等の難しい話は専門家にお任せするとして、何枚かの写真を。




三の郭跡




二の郭跡




二の郭と一の郭(主郭)の間の空堀に架けられた橋




一の郭跡




一の郭にあった物見櫓のことを記した説明板




一の郭から見た下界(?)城山通り方向

と、まあ説明する必要もない写真説明でした。 郭の周囲は遊歩道が設けられていますが、「犬走り」の跡ではないかと
解説している方がいます(詳しく勉強研究しているお城ファン)が、私はこれを見たとき、確かに一部はそうであったかもしれないが、
公園として整備するに当たって新たに設けたものではないかと勝手に解釈したので写真に収めませんでした(これだから素人は・・・)
また、行って見た時は気に留めることもなかったのですが、そういえば「土塁」がありませんでした。
これは、公園化するに当たり削ってしまい平らにしてしまったのではないか。と、やはりその筋の方の解説が。
この岡城跡は、埼玉県選定重要遺跡 とのこと。指定史跡との違いを勉強しなくては。
2日に渡り3県5城跡を巡ってみましたが、明日はまた休み。でも、攻める城を探すのも大変だし、早々城攻めは出来ませんし・・・

散策日:2010年(平成22年)1月31日(日)         

滝の城跡(埼玉県所沢市)

2010年02月04日 | 100名城以外の城館跡


県内所沢市に『滝の城』の城跡があることを知った。この滝の城も、北條氏と関係ある城である。詳しい経緯は専門家のリポートに譲るとして、
八王子城の城主であった北條氏照の持城であった。この滝の城は、平山城であることから、愛馬で直接乗りつけて二の丸跡に繋いでおいた。
社務所前に、滝乃城跡保存会の皆さんがパンフレット配布用の案内板を設置しており、郵便受け様のケースに、
滝の城の歴史や周辺略図を印刷したものを入れておいてくれたので、これを頂き、見ながらの城攻めとなった。
空堀等よく整備されているうえ、要所要所に説明版が設けられており理解しやすいように配慮されていた。
























本丸跡には城山神社が建てられている。本丸跡に神社が建立されている城跡は多く、ここも例外ではなかったようだ。 
本丸跡からの眺めはよく、眼下にJR武蔵野線が走っていた。また、城の下は、「滝の城址公園」となっており、野球場やテニスコート等が設けられている。
よく見て来たつもりでも、やはり見落とが幾つもあった。また機会をみて再登城しよう。

この「滝の城跡」は、埼玉県指定史跡となっています。

攻城日:2010年(平成22年)1月31日(日)