四季・めぐりめぐりて

近隣の城館跡・古墳などの史跡めぐりなどをぼちぼちながらやっています

熊谷市・大塚古墳

2024年07月05日 | 古墳

7月1日、雨が降ったりやんだりという天候の下、熊谷市大塚地内にある『大塚古墳』を訪ねてきました。
同古墳は、熊谷スポーツ文化公園の北東角の向かい側にあり、現在、墳丘には熊野神社が鎮座しています。
『大塚古墳』は福川右岸の自然堤防上に造営された中条古墳群の大塚支群に属する古墳です。中条古墳群
は、かつては前方後円墳、円墳、方墳など39基を数えたそうですが、その多くは開墾などにより破壊され、
半壊した墳丘を留めるものが2基という状況のようで、そのうちの1基が大塚古墳です。
上の写真は、古墳の西側から撮ったものです。


名 称:大塚古墳(おおつかこふん)
別 称:中条大塚古墳(ちゅうじょうおおつかこふん)
墳 形:円墳 
規 模:直径約59m、高さ1.2mの基壇上に、直径35m、高さ4m以上の円形の塚がのった形
    石室は横穴式石室 全長9.6m、最大幅3.4m、現在、玄室は奥室だけ残る
築 造:古墳時代後期(7世紀前半)
出土品:鉄鏃・鞘尻金具・須恵器の大甕など
指 定:熊谷市指定史跡(名称:大塚古墳 昭和34年〔1959〕11月3日指定)
所在地:埼玉県熊谷市大字大塚365



熊野神社参道  参道は大塚古墳(熊野神社社殿)の南側に設けられています


参道脇に大塚古墳の石室の天井部に使用されたものと思われる大きない一枚石
石室は埋め戻されたようで見当たりませんでした



『大塚古墳』説明板
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熊谷市指定文化財史跡
   大塚古墳    
                       指定年月日  昭和34年11月3日
                        所 在 地  熊谷市大字大塚
 大塚古墳は、古墳時代後期(7世紀前半)につくられた円墳で当地を支配していた豪族の墓であろうと
推定されています。
 墳丘は、直径約59m、高さ1.2mの基壇上に直径約35m高さ4m以上の円丘がのった形です。全体
で、5.2m以上の高さになると考えられます。
 現存する墳丘は、北西部分のみ残存していて、墳丘全体の約四分の一が残っている状態です。
 二度にわたる発掘調査により、埋葬施設は、奥室・前室をもつ複室構造の胴張型横穴式石室であること
が確認されています。
 石室内から、鉄製小札・鉄鏃・金銅製鞘尻金具・勾玉のほか、金箔装漆塗木棺の破片が出土し、西側の
基壇上からは、須恵器の甕が列をなして出土しました。
                        平成16年7月  熊谷市教育委員会

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南南西側から墳丘を


墳頂(熊野神社)への登り口


西方に向かっている石段を登り登り朱色の屋根の末社のところで北方に向きを変えて


墳頂に鎮座している熊野神社の社殿


社殿裏側(北側)の状況


葺石と思われる大き目の石が何個か露出しています(写真ほぼ中央)


墳丘下北側の状況

散策日:令和6年(2024)7月1日(月)

国指定史跡保渡田古墳群 保渡田薬師塚古墳

2024年06月29日 | 古墳

群馬県高崎市保渡田町・井出町に所在し、三基の古墳で構成する国指定史跡保渡田古墳群の中で最も北に
位置し、築造年代が一番新しいのが薬師塚古墳です。
元々は大型の前方後円墳でしたが、保存・整備が行き届かなかったようですし、、後円部東側は墓地にな
っていたり、前方部南側には西光寺が建っており、かなり変形しています。

上の写真は古墳北側の模様で、左側が後円部、右側が前方部ですが、この道路自体が墳丘の一部で
あった場所です。

名 称:薬師塚古墳(やくしづかこふん)
別 称:保渡田薬師塚古墳・上郊村1号古墳
墳 形:前方後円墳 墳丘部が三段築成
規 模:墳丘長約105m、後円部径約66m、高さ6m・前方部幅72m、高さ7m。
    二重周溝、河原石による葺石が施されている
築 造:5世紀後半
出土品:小型の国産鏡・装身具の各種玉類・馬具類など
指 定:国指定史跡(名称:保渡田古墳群・薬師塚古墳 昭和60年〔1985〕9月3日指定)
所在地:群馬県高崎市井出町字薬師前1872(旧・群馬郡群馬町)



西側の模様  ここも前方部の一部が消滅しています


西光寺本堂 この裏手に前方部が展開しているようです


『保渡田薬師塚古墳』説明板と『上野国保渡田薬師塚古墳出土品』標柱


『保渡田薬師塚古墳』説明板
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国指定史跡
 保渡田薬師塚古墳
          指定年月日 昭和60年9月3日
国指定重要文化財
 上野国保渡田薬師塚古墳出土品
          指定年月日 昭和14年9月8日
 この古墳は前方後円墳でかなり変形を受けているが、発掘調査の結果では三段に築かれ、斜面には石垣
をふき平坦部には円筒埴輪を巡らすことが判明した。全長 165 m、高さ 6 mで、周囲は二重に堀を巡らし、
堀を含めた全長は 165 mを測る。 保渡田古墳群の中で最後に造られ、5 世紀末~6 世紀初頭の年代が推定
される。後円部頂上には凝灰岩をくりぬいた舟形石棺があり、出土品は江戸時代にこの中から発見された
伝承がある。出土品には小型の国産鏡・装身具の各種玉類・儀式の際に馬を飾る馬具類があり、中でも馬
具は二例を除き鋳造品で、国内に類例のない特殊なものといえる。
  平成15年3月30日
                              群馬町教育委員会

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薬師堂・舟形石棺がある後円部への石段を上がって


薬師堂 薬師堂の右前に舟形石棺を保管(保護)している覆屋があります


舟形石棺 前か後ろかは不明です 中央あたりに縄掛突起があります


側面  やはり側面にも縄掛突起が二カ所あります


薬師堂の左方の草むらが前方部のようですが、削り取られたりでだいぶ変形しているようです。
今回はここを見て終わりとしました。


散策日:令和6年(2024)6月24日(月)

国指定史跡保渡田古墳群 井出二子山古墳

2024年06月27日 | 古墳

群馬県高崎市保渡田町・井出町(旧・群馬郡群馬町)に所在する国指定史跡保渡田古墳群を訪ねてきま
した。
保渡田古墳群は、二子山古墳・八幡塚古墳・薬師塚古墳の3基からなります。このうちの一つである
  二子山古墳(別称:井出二子山古墳)
は、5世紀後半に築造された大きな前方後円墳で、これら3基の中で一番古いものです。
なお、この古墳群一帯は「上毛野はにわの里公園」となっており、園内には「かみつけの里博物館」が
あり、この日も一般客のほかにも小学生が観光バスで訪れていました。


名 称:二子山古墳(ふたごやまこふん)
別 称:井出二子山古墳・愛宕塚古墳
墳 形:前方後円墳 墳丘部が三段築成
規 模:墳丘長108m、後円部径74m、高さ10m・前方部幅71m、高さ7m。
    周溝は馬蹄形で二重に造られ中島を4基配置。墳丘・中島・中低部とも河原石で葺石としている
    円筒埴輪列を巡らしている。埋葬施設:小竪穴式石室
築 造:5世紀第3四半期
出土品:円筒埴輪や象形埴輪
指 定:国指定史跡(名称:保渡田古墳群・二子山古墳 昭和60年〔1985〕9月3日指定)
所在地:群馬県高崎市井出町1403(旧・群馬郡群馬町)



二子山古墳を北東から後円部を


「二子山古墳」碑の裏側 外堤上に設置されている「史跡保渡田古墳群 二子山古墳」説明板


二子山古墳の模型(ジオラマ)


外堤北東から二子山古墳の後円部を


まずは後円部に上ります


後円部  石室・石棺の状況が陶板の書割で表現されています


『豪族の館ー舟形石棺』札明板


『石棺尾姿』説明板


『棺の中には何があったか?』説明板


実物大の石室・石棺陶板の書割り  この1m地中に実物の石棺が保存されている


後円部上から登ってきた道を振り返って


『中島』


後円部から前方部を


前方部


前方部から後円部を


くびれ部分にある階段を矢印のように降りてきました。
墳丘中段の平坦部◎印のあたりに、『埴輪列と埴輪の立て直し』説明板と倒れて壊れた埴輪のレプリカが
あったようですが、見ての通りの草ぼうぼうのうえ、膝をかばって階段を下りるのに精一杯であったため
見落としました。



『三段に築かれた墳丘』説明板


『中島』説明板


北西から墳丘を  左:後円部  右:前方部  中央左寄りに『中島』


外堤西方から墳丘を  左:後円部  右:前方部


南西から前方部を


南東から墳丘を  左:前方部  右:後円部 


南方から後円部を
季節柄墳丘も内堀・外堀も草が繁茂していて、三段の墳丘もその境目がはっきりしませんでした。内堀・
外堀はコスモス畑になっていて秋にはたくさんのコスモスが咲くようです。



『二子山古墳西側の墓域と極小石槨墓』説明板

散策日:令和6年(2024)6月24日(月)

国指定史跡保渡田古墳群 保渡田八幡塚古墳

2024年06月25日 | 古墳

群馬県高崎市保渡田町・井出町(旧・群馬郡群馬町)に所在する国指定史跡保渡田古墳群を訪ねてきまし
た。
保渡田古墳群は、二子山古墳・八幡塚古墳・薬師塚古墳の3基の古墳からなります。このうちの一つである
  八幡塚古墳(別称:保渡田八幡塚古墳・上郊村2号古墳  所在地:保渡田町2000-1)
は、5世紀後半に築造された大きな前方後円墳で、これら3基の中では2番目に古いものです。
発掘調査の結果に基づいて、造営された当時の形に復元されたものですが、墳丘全体を覆う葺石と6000基
におよぶ埴輪の列は圧巻です。
詳細は下記の『史跡史跡保渡田古墳群 八幡塚古』説明版を参考にして下さい。
なお、この古墳群一帯は「上毛野はにわの里公園」となっており、園内には「かみつけの里博物館」があ
り、この日も一般客のほかにも小学生が観光バスで訪れていました。



南東から八幡塚古墳墳丘を


『史跡史跡保渡田古墳群 八幡塚古墳』説明板
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  史跡保渡田古墳群 八幡塚古墳  

 八幡塚古墳は、国指定史跡保渡田古墳群(二子山古墳・八幡塚古墳・薬師塚古墳)の一つで、1500年前
(5世紀後半)に築かれた前方後円墳である。墳丘は全長96mで、周囲には二重の堀(内掘・外堀)と墓
域の境を示す溝(外周溝)が巡り、墓域の長さは約190mに及ぶ。
 内提の2ヶ所(A区・B区)からは、かつて、大量の人物・動物埴輪が発見され、埴輪研究史上よく知
られた古墳である。墳頂部には、豪族の遺体を収めた舟形石棺が存在する。
 当時、群馬県地域(上野毛)は国内でも有力な地域であった。榛名山東南麓一帯を治めたこの古墳の被
葬者は、5世紀後半頃上毛野各地に勢力を持った豪族達の中でも、代表的な人物であったと考えられる。
 本古墳は、史跡公園計画のもと5カ年にわたる発掘調査を行い、その成果を基に大きく破壊された古墳上
に保存用の土を厚く盛って、造られた時の姿に復元された。
 なお、この古墳に関する情報・遺物は南側300mにある「かみつけの里博物館」に展示されている。

昭和60年9月3日指定                       文部省
平成12年2月27日設置                      群馬県教育委員会
                                群馬町教育委員会

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※図のように八幡塚古墳は後円部は北北西を向いていますが、便宜上、後円部を北側、前方部を南側とし
て説明させていただきます。



南東から墳丘全体を


外周溝(南側)


外周溝と外堤(東側)


外堤と盾持ち人埴輪


内堤の上の『人物・動物埴輪群像』


上掲『人物・動物埴輪群像』(A区形象埴輪配列区) 説明板


内堀(南側)


『墳丘と葺石』説明板


前方部(東側)


前方部三段築成(東側)2段目の埴輪列


内堀(東側)にある『中島』 後円部を囲むようにある4つの中島の内のひとつ


後円部


前方部から後円部


後円部から前方部


後円部墳頂
八幡塚古墳石棺展示室見学用の階段があります 左が入り口 右が出口



階段を下りて石棺展示室へ


舟形石棺


東側から後円部を


『中島』説明板
この古墳の内堀の中には4カ所の中島が造られた。内堀を掘った時に島の部分だけを残し、若干の盛土をして2段に整え
られた。回りには円筒埴輪が巡らされ、埦などの土器が多数出土した。
中島の性格は、①古墳における祭祀の場
       ②近親者や従者の埋葬施設(陪塚)
などが考えられるが、いまだ明らかになっていない。



後円部北側から


円筒埴輪列と中島


内堀西側の中島


北西から墳丘全体を 手前:後円部  奥:前方部


『人物・動物埴輪群像』(B区形象埴輪配列区)  墳丘の西側にあたります


南西から


南西から見た墳丘と南側内堤の円筒埴輪列

取りあえず猛暑のもとで八幡塚古墳を一周しましたが、まだ帰れません・・・


散策日:令和6年(2024)6月24日(月)


三ヶ尻古墳群・やねや塚古墳

2024年06月24日 | 古墳

熊谷市三ヶ尻にあるの観音山の南西に移築復元されている「やねや塚古墳」を見学してきました。
三ヶ尻古墳群は、三ヶ尻地区の櫛挽台地上に所在する古墳時代後期の古墳群で、古墳は、観音山の北側の
台地内側を中心に分布し、前方後円墳の2基以外は全て円墳です。かつては100基以上の古墳が所在したと
考えられようですが、削平を受けた古墳や、消滅してしまった古墳も多く現在は50数基が残るのみのよう
です。
「やねや塚古墳」という名称は、三ヶ尻林遺跡4号墳の別称とのことですが、この「やねや塚」の由来は
不明です。
やねや塚古墳は、直径23m、高さ3m、全長5.85mの横穴式石室をもつ円墳ですが、上越新幹線建設工事
に先立つて発掘調査し、その後。現在の場所に移築復元されたものです。



河原石で囲まれた円墳の裾部分
墳丘周囲をコンクリート柱と鎖で囲っていますが、だいぶ倒れかけています。
元の墳丘の高さは3mあったようですが、移築復元では石室の高さくらいまでしか復元されておりません。



南側から


北側から墳丘と石室を


石室上に板石が1枚だけ置かれていますが、石室の天井板を想定したものでしょう


南方の国道14号(彩甲斐街道)バイパスの歩道からやねや塚古墳(移築)を見る。
中央の窪んだ部分に移築されている。右側が三ヶ尻観音山。
ガードレール内側の右端に山積みになっている河原石は移築に使われなかった葺石の残りか?


散策日:令和6年(2024)6月23日(日)

神川町・白岩銚子塚古墳

2024年05月28日 | 古墳

埼玉県神川町新里の白岩丘陵(通称:くじら山)の頂上に所在する『白岩銚子塚古墳』は、神川町内では
一番大きな前方後円墳と言われます。そんな白岩銚子塚古墳を訪ねてきました。
墳丘の周囲は雑木林であるため離れた場所から全体の形を撮ることができないうえに、季節柄、草が繁茂
し、更に日差しの関係で、墳丘の形がはっきりしない写真ばかりですが何枚か載せてみました。
名 称:白岩銚子塚古墳(しろいわちょうしづかこふん)
別 称:ー
墳 形:前方後円墳
規 模:全長46m、後円部径約28m 高さ6.5m、前方部幅約29 m 高さ 4.2m、
    埋葬施設:横穴式石室(推定)
築 造:6世紀中頃
出土品:円筒埴輪片、馬・器材などの形象埴輪片、須恵器甕片
指 定:神川町指定史跡(名称:白岩銚子塚古墳 平成3年〔1991〕12月16日指定)
所在地:埼玉県児玉郡神川町大字新里2094


白岩銚子塚古墳は他3基の円墳ともに白岩古墳群を構成しており、埼玉県選定重要遺跡に選定されて
います。昭和51年(1976)10月1日選定


白岩銚子塚古墳古墳入口に『町指定史跡 白岩銚子塚古墳』の標柱が立っていますが、電柱のすぐ脇なの
で見落としてしまいます(実際に見落として古墳の場所がわからずに諦めた経験が・・・恥)



白岩銚子塚古墳古墳入口


標柱『町指定史跡 白岩銚子塚古墳』


入り口を入って進むと


『白岩銚子塚古墳』の説明版が設置されていました。 説明板のすぐ後方が古墳の後円部のようです


説明板
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    岩銚子塚古墳古墳
                           平成 3 年 12 月 16 日 町指定史跡
白岩銚子塚古墳は、一部墳丘が削られているものの、比較的遺存状態の良好な前方後円墳である。
墳丘の規模は、現状で全長約 46 メートル、後円部径約 28 メートル、高さ約 6.5 メートル、前方部幅約 29
メートル、高さ約 4.2 メートルである。確認調査の結果から、周溝を含めた全長 57 メートル、後円部径約
28 メートルに復元できる。周溝の幅は、後円部で 2.7メートル、前方部で 8.2メートルである。墳丘裾部と
周溝との間には、約 2.5メートルルの平坦部が設けられていた。
埋葬部主体部は後円部に位置し、南方向に開口する横穴式石室であったと推定される。周溝からは円筒埴輪
片、馬・器材などの形象埴輪片。須恵器甕片が出土した。
この古墳は、墳形・出土遺物等から、6 世紀代(約 1400 年前頃)に築造されたこの地域の首長の墓と推定
される。
平成 4 年 3 月

                           神川町教育委員会
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前方部を西側から


墳丘の北東側  後円部を 右手前は前方部 


墳丘の北東側  法円部から後円部方向に  手前が前方部  左が後円部


前方部西端から墳丘の南西側をみる  右側の道路は周溝跡のようです


前方部から後円部をみる


後円部墳頂


後円部南西側 大きくえぐられている部分に石室が存在か?


後円部の南東方から前方部方向に


後円部を東方から


墳丘の北東側  後円部から前方部方向に  左が後円部


白岩銚子塚古墳がある白岩丘陵(通称:くじら山)を北方の道路から
トラクターの左上に見えるのが白岩神社の鳥居



白岩神社鳥居


奥の石段の先に社殿がありますが、だいぶ傷んでいましたので写真は載せません。
白岩銚子塚古墳は社殿の更に後方(南方)にあります。


散策日:令和6年(2024)5月18日(土)

神川町・大塚稲荷古墳

2024年05月24日 | 古墳

埼玉県神川町の青柳古墳群南塚原支群の中で一番大きな古墳である
  『大塚稲荷古墳』(おおつかいなりこふん)
を訪ねてきました


名 称:大塚稲荷古墳(おおつかいなりこふん)
別 称:南塚原1号墳
墳 形:円墳 段丘3段 上・中段に葺石
規 模:径40m、高さ6.5m 埋葬施設:両袖式と思われる横穴式石室 全長が11.2m
築 造:6世紀から7世紀
出土品:円筒埴輪や人物・馬などの埴輪
指 定:神川町指定史跡(名称:大塚稲荷古墳 平成14年〔2002〕5月31日指定)
所在地:埼玉県児玉郡神川町大字新里283


なお青柳古墳群は 昭和44年(1969)10月1日 埼玉県選定重要遺跡 に選定されています。


北側の墳丘裾に設置の 「青柳古墳群南塚原司支群」説明版 と 標柱「町指定史跡 大塚稲荷古墳」


説明板
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   青柳古墳群南塚原支群
南塚原支群では 73 基の古墳が確認されている。これらの古墳は、今から 1400 年程前の 6 世紀から7世紀
中頃にかけて、次々に造られたものであり、結果として小規模な古墳が多数密集する群集墳を形成した。
昭和 44 年の北部用水工事および昭和 62 年からの土地改良事業などに伴って 38 基の古墳が調査された。
調査の結果、ほとんどの古墳が径 15~20 メートルの円墳で、埋葬施設は横穴式石室である。石室を補強
するため、石室を取り囲むように控積みを設けるものが多い。
副葬品には、直刀・鉄鏃などの武具、馬具、勾玉、耳環などの装身具、須恵器がある。10号墳は、ほぼ未
盗掘の状態で、多くの副葬品が出土した。墳丘いは、河原石を積み上げた葺石がめぐり、円筒埴輪や人物
・馬などの埴輪が並べられた。
支群中で最大規模を誇る大塚稲荷古墳は(1号墳)は、径 40メートル、高さ約 6.5メートルの円墳である。
また、9 号墳は唯一の前方後円墳で、全長約 24.5 メートル、高さ約 2.5 メートルである。
古墳を造った人々が居住した所としては、中道遺跡が想定できる
 平成7年3月(平成26年11月改修)

                                  神川町教育委員会
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北側道路から


北東方向から


東方から


南方から


南方から更に近づき


墳丘にある『稲荷社』


北西方向から

神川町・中新里諏訪山古墳

2024年05月23日 | 古墳

埼玉県神川町の青柳古墳群は、旧青柳村を中心に展開する大規模な群集墳で、11支群から成ります。
群内には総数293基の古墳が確認されたようですが、墳丘が残存する古墳は現在80数基ほどとのことです。
支群のひとつである北塚原支群で現在墳丘が唯一墳丘が確認できる
 『中新里諏訪山古墳』(なかにいざとすわやまこふん) 所在地: 神川町大字中新里99-1ほか
を訪ねてきました。


名 称:中新里諏訪山古墳(おおつかいなりこふん)
別 称:ー
墳 形:前方後円墳
規 模:全長41m、後円部径約22m 高さ36.5m、前方部幅約20 m 高さ約 2.5 m、
    埋葬施設:両袖無型横穴式石室 
築 造:6世紀中頃
出土品:埴輪馬具・直刀・勾玉など
指 定:神川町指定史跡(名称:中新里諏訪山古墳 昭和62年〔1987〕3月10日指定)
所在地:埼玉県児玉郡神川町大字中新里99-1ほか


なお青柳古墳群は 昭和44年(1969)10月1日 埼玉県選定重要遺跡 に選定されています。


後円部から前方部にかけての西側


説明板
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    中新里諏訪山古墳
                           昭和 62 年 3 月 10 日 町指定史跡
中新里諏訪山古墳は、一部墳丘が削られているものの、比較的遺存状態の良好な前方後円墳である。
墳丘の規模は、現状で全長約 41 メートル、後円部径約 22 メートル、高さ約 3.5 メートル、前方部幅約
20 メートル、高さ約 2.5 メートルである。周溝の確認調査の結果から、全長 42 メートル、後円部径約
26 メートル、前方部幅約 27 メートルに復元できる。周溝の形態は盾型で、周溝を含めた全長や約 52 メ
ートル、幅は約 36 メートルである。周溝からは、土器や埴輪が出土している。主体部は、後円部に位置
し、南西方向に開口する横穴式石室である。馬具、直刀、勾玉、切子玉、須恵器等が出土したと伝えられ
ている。
この古墳は、6 世紀中頃(約 1450 年前)に築造されたこの地域の首長の墓と推定される。
昭和 63 年 3 月 10 日(令和 3 年 8 月改修)

                           神川町教育委員会
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南西から  手前が前方部 奥が後円部


墳丘の東側は墓地があります


前方部から後円部に向けて


前方部に露出している石  草が繁茂して全体の形がわかりませんが石室の石材か?


後円部墳頂の諏訪社?


後円部から前方部に向けて


北側から後円部を

散策日:令和6年(2024)5月9日(木)

ぐんま古墳カード 第3弾  取り合えず1枚ゲット‼

2023年10月30日 | 古墳


群馬県は東日本最大の古墳大国と言われます。そんな群馬県では「ぐんま古墳カード」を配布しています。
「百舌鳥・古市古墳群」(大阪府堺市、羽曳野市、藤井寺市)が世界遺産に登録されたのを記念し、古墳
大国の群馬県をPRするために始まったものであり、現在まで第3弾計36か所の古墳が古墳カードの対象
となっています。
ルールは対象になっている古墳に行って古墳とのコラボ写真を撮って、当該古墳カード配布先の博物館・
資料館等に赴き写真を見せてカードを頂くというものです。カードのデザインは百舌鳥・古市古墳群で配
布されている「もず・ふるカード」と同じデザイン及びぐんまオリジナルデザインの2種類ありますが、
もらえるのはどちらか1枚です。

今回、藤岡歴史館での企画展を観覧してきましたが、近くに古墳が沢山あることからついでに古墳カード
をゲットしようと考え、三脚を持って出かけました。
第3弾の古墳カードの対象で藤岡歴史館の目の前にある「平井地区1号古墳」に行き、オートタイマーを
セットしたのですが、陽の加減で液晶画面がよく見えずとんでもない設定なってしまいました。それでも
一応は証拠写真にはなったようです。今年4月に訪ねたときは草もこれほどひどくはありませんでした。



藤岡歴史館の受付で写真を見せて「「平井地区1号古墳」の古墳カード・ぐんまオリジナルデザインのも
のをいただきました。
他に行けそうな古墳もあったのですが、すでに配布終了のところばかりでした。
取り合えず1枚ゲットしたからよしとしましょう・・・2枚目、3枚目までは今のところ考えていません。



「平井地区1号古墳」の古墳カード(表)


「平井地区1号古墳」の古墳カード(裏)

ぐんま古墳カードの対象古墳を下に列挙しておきます。古墳名と所在地市町村名のみとし、配布先施設や
開館時間、休館日などは省かせていただきます。
藤岡市の場合はどの古墳も藤岡歴史館が配布先になっていますが、他市では同じ市内の古墳でも古墳によ
って配布先が異なるところがあります。
また、36か所72種の古墳カードとなりますが、すでに配布終了のものが多くありますので、これから全部
を集めることは無理でしょう。太字は訪問済みの古墳・・・ただし古墳カードは入手していません

ぐんま古墳カード 第1弾  令和元年(2019)8月3日~
 1 簗瀬二子塚古墳 (安中市)
 2 保渡田古墳群・八幡塚古墳 (高崎市)
 3 観音塚古墳 (高崎市)
 4 山上古墳 (高崎市)
 5 綿貫観音山古墳 (高崎市
 6 伊勢塚古墳 (藤岡市)
 7 七輿山古墳 (藤岡市)
 8 三津屋古墳 (北群馬郡吉岡町)
 9 総社古墳群・蛇穴山古墳 (前橋市)
 10 大室古墳群・前二子古墳 (前橋市)
 11 太田天神山古墳 (太田市)
 12 塚廻り古墳群第4号古墳 (太田市)

ぐんま古墳カード 第2弾  令和2年(2020)8月1日~
 1 前橋天神山古墳(前橋市)
 2 宝塔山古墳(前橋市)
 3 中二子古墳(前橋市)
 4 お富士山古墳(伊勢崎市)
 5 南下E号古墳(渋川市)
 6 軍配山古墳(佐波郡玉村町)
 7 井出二子山古墳(高崎市)
 8 元島名将軍塚古墳(高崎市)
 9 白石稲荷山古墳(藤岡市)
 10 諏訪古墳 (藤岡市)
 11 女体山古墳 (太田市)
 12 円福寺茶臼山古墳(太田市)

ぐんま古墳カード 第3弾  令和3(2021)10月9日~
 1 前橋八幡山古墳(前橋市)
 2 山王金冠塚古墳(前橋市)
 3 後二子古墳(前橋市)
 4 薬師塚古墳(高崎市)
 5 関長者塚古墳 (みどり市)
 6 赤堀茶臼山古墳(伊勢崎市)
 7 奈良古墳群(沼田市)
 8 中ノ峯古墳(渋川市)
 9 平井地区1号古墳(藤岡市)
 10 高塚古墳(北群馬郡榛東村)
 11 笹森古墳(甘楽郡甘楽町)
 12 古海原前1号古墳 (邑楽郡大泉町)


平井地区1号古墳の古墳カード入手日:令和5年(2023)10月25日(水)

将軍塚古墳(埼玉県東松山市)

2023年10月29日 | 古墳


東松山市下野本に所在する大型の前方後円墳である(野本)将軍塚古墳は、古墳時代前期の古墳と
しては埼玉県第1位の規模を誇ります。そんな(野本)将軍塚古墳を久しぶりに散策してきました。
上の写真は将軍塚古墳を南方から見たもので、左側が後円部、右側が前方部です。

名 称:将軍塚古墳(しょうぐんづかこふん)
通 称:野本将軍塚古墳
墳 形:前方後円墳
規 模:全長115m 高さ:後円部13m、前方部8m
築 造:古墳時代前期・4世紀後半
出土品:土器
指 定:埼玉県指定史跡(名称:将軍塚古墳 昭和35年〔1960〕3月1日指定)
所在地:埼玉県東松山市下野本612

野本将軍塚は都幾川が形成した広い沖積地に張り出す松山台地の先端部に築造された古墳です。
現在まで発掘調査は行われておらず築造年代は諸説あったが、2017年に東松山市教育委員会と早稲
田大学考古学研究室との共同で三次元墳丘測量と地中レーダー探査を中心とする調査を行った結果、
古墳時代前期(4世紀後半)に築造されたものと認められました。これに関しては2018年にシンポ
ジウム「野本将軍塚古墳緒時代」が開催されました。


前方部南側の東端あたりに建立されている石碑で「昭和三十五年三月一日指定 埼玉県指定史跡 
将軍塚古墳」と刻まれています。
以前はこの石碑の左側に木製の「将軍塚古墳」説明板が建っていたのですが、ほとんど読めない状
態になっていたためかここ2,3年の間に撤去されたようです。
この道は無量寿寺の参道となっています。標柱に「利仁山」とありますが、無量寿寺の山号です。
無論、反対側には「無量寿寺」と刻まれた標柱が建っています。

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後円部の西側です。この将軍塚古墳の道を挟んだ南側に野本市民活動センターがあり、10月28日
(土)、29日(日)は野本地区文化祭が開催され、29日は駐車場で野本商工祭が同時開催されて
いました。


鳥居のある場所が将軍塚古墳の「くびれ部」にあたり、「利仁神社」の参道入口になります。


鳥居手前の右側に「埼玉県指定史跡 将軍塚古墳」の新しい説明板が設置されています。
以前のものは、後円部の北側の柵に取り付けてありましたが撤去して、こちらに新しいものを設置
したようです。
実は今回の将軍塚古墳の散策の目的はこの新しい説明板でした。


新しい説明板です。
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   埼玉県指定史跡 将軍塚古墳
 都幾川を望む東松山台地の南縁に所在しています。現存する墳丘の長さは最も長い所で115mあり、埼玉県内で
も有数の規模を誇る前方後円墳として、昭和35年(1960)3月1日に埼玉県指定史跡に指定されました。
 平成29年(2017)、綿密な墳丘測量と地中レーダー探査を中心とする非破壊調査を実施し、前方部二段、後円部
三段の立体構造を持つ、精緻な前方後円墳であること、後円部のほぼ中央に遺体を安置するための施設が今も残さ
れていることがわかりました。この成果から、将軍塚古墳が古墳時代前期に築造された、当時埼玉県内最大規模の
前方後円墳であったことがわかってきました。
 近年周辺で発見された集落跡や古墳、出土した遺物などを考え合わせると、当時ヤマト政権が関わって行われた
大規模な低地開発の結果、活発な地域間の交流が生まれ、それらをまとめ、治めた首長のために将軍塚古墳が築造
された背景が見えてきます。
 令和4年(2022)1月 東松山市教育委員会

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くびれ部から前方部を 前方部には戦没者慰霊日などが建立されていますが今回はスルーしました。


後円部に向かいます。 まず最初の階段を


二つめの階段です。


階段を登りきると正面に「利仁神社」(としひとじんじゃ)が。
利仁神社は延長元年(923年)の創建


この「利仁神社」の鎮座するところが後円部です。
利仁神社の「利仁」とは、平安時代の武将であり貴族である藤原利仁(ふじわらのとしひと)を指し
利仁を祀った神社です。
藤原利仁は鎮守府将軍であったことから。この利仁を祀る神社があることから、この古墳を将軍塚
古墳と呼ぶようになったようです。
なお、この古墳の北側にある無量寿寺は武蔵守在任中の陣屋跡と伝えられている。
 

扁額


駐車場では「野本かかし祭コンテスト」が行われていましたが、文化祭、商工祭の方たちでいっぱ
いのため全部は取れませんし目的外でしたので2枚ほど・・・


かかし祭り大賞は It's show time


野本商工祭
文化祭は活動センターの建物内で・・・

まさか文化祭、商工祭をやっているとは思いもせずに行ったものですから駐車場はどこも満車。
遠く離れた畑の中の路肩にとめてきました。

散策日:令和5年(2023)10月29日(日)