四季・めぐりめぐりて

近隣の城館跡・古墳などの史跡めぐりなどをぼちぼちながらやっています

シンポジウム『武蔵武士とその本拠』

2018年01月28日 | 講演会・講座


開催日:平成30年1月27日(土)・28日(日)の2日間
国立女性教育会館 講堂を会場として開催された 
  シンポジウム『武蔵武士とその本拠』
を聴講してきました。

【1日目】
基調講演
「中世前期の東国武士とその本拠」
  高橋一樹 氏 (武蔵大学)
報告1
 「北武蔵の武士本拠と湧水開発」
   渡邊浩貴 氏 (神奈川県立歴史博物館)
【2日目】
報告2
 「北条氏の伊豆国の本拠について」
   池谷初恵 氏 (伊豆の国市教育委員会)
報告3
 「考古学から見た武蔵国府と周辺武士」
  深澤靖幸 氏 (府中郷土の森博物館)
討論
 パネリスト
  高橋一樹 氏・渡邊浩貴 氏・池谷初恵 氏・深澤靖幸 氏
 コーディネーター
  落合義明 氏 (山形大学)
  水口由紀子 氏 (埼玉県立歴史と民族の博物館)

会場内には、これらの方とは別に何人もの専門家(博物館等)がお見えになっていて、それぞれの意見を述べられていました。

例年、埼玉県立嵐山史跡の博物館の主催で開催されるシンポジウムですが、今回は、平成29年度文化庁 地域の核となる美術館・
歴史博物館支援事業で、「躍動する武蔵武士」を今に活かす地域連帯プロジェクト」の一環として、武蔵の中世文化財活用プロジェ
クト実行委員会により開催されたもので、2日間にわたるのは私の知る限りでは初めてです。

週初めに降った雪がまだまだ残る女性教育会館です。




会場の国立女性教育会館 講堂




シンポジウム『武蔵武士とその本拠』資料集 と 日程表(チラシ裏面から抜粋)
例年ですと、資料代を徴収されますが、今回は上記のとおり文化庁の支援事業と言うことで無料でした。

今年も歴史関係の書物を扱う出版社数社がロビー販売をしていました。
ほしい本が何冊もありましたが、歴史関係の書物はお高いんでなかなか手が出ませんが、安価なものを2冊ほど購入してきました。
また、埼玉県立史跡の博物館の刊行物(図録等)も販売されておりましたが、前日、博物館に行って何部か購入したばかりでした。




女性教育会館内の庭園の池は凍っていましたし、残雪も・・・

聴講日:平成30年1月27日(土)・28日(日)

虎ヶ岡城(埼玉県美里町)

2018年01月11日 | 100名城以外の城館跡


城 名:虎ヶ岡城(とらがおかじょう)
別 名:円良田城(つぶらたじょう)
形 態:山城 標高337m・比高200m
時 期:室町時代か?
遺 構:郭・土塁・堀切
指 定:―
所在地:埼玉県児玉郡美里町円良田・秩父郡長瀞町矢那瀬

虎ヶ岡城は、室町期に藤田氏によって花園城の支城として築かれたとも、戦国時代に北條氏邦の鉢形城の支城として猪俣小平太
範綱によって築かれたものとも言われるようですが、その実体は不詳のようです。戦国時代には鉢形城の兵糧庫としての役割を
担っていたようです。豊臣秀吉による天正18年(1590)の小田原攻めによる鉢形城攻撃の際に、この虎ヶ岡城にも真田昌幸の大
軍の攻撃を受けて落城したとのことです。
また、一時期、虎ヶ岡城と円良田城は別の城との見方がされたようですが、今では同一の城であるとの見解に落ち着いているよ
うです。

そんな虎ヶ岡城跡を今年(2018年)最初の城攻めとしましたが・・・

攻城(登城)ルートは複数あるようでしたが、いろいろな方の攻城記を参考にして、陣見山林道の途中にある東屋の少し下にあ
る登山口からの攻城をまず選んでみました。
この林道はあることから何度も何度も通ったことがあり、東屋についてもよく知るところでしたが、最後にこの林道を利用して
から10年以上は過ぎていました。

冒頭の写真は、林道を東屋まで向かう途中の開けた場所から見える虎ヶ岡城跡で、写真中央に見える東屋のある所が本郭跡のよ
うです。




東屋のある場所に着きました。すでに1台駐車車両がありましたが、城攻めの方ではなく、車内で休んでいるだけでした。




東屋のある場所に愛車を駐車して上ってきた道を200mほど下って、多分ここで間違いないとここから山に入りました。




これは歩いてきた道を振り向いて撮ったものですが、ここより更に上(奥)へと登って行ったのですが、城跡方向への分岐点が
見つからず、あまり深入りして迷い込んでしまってはとここからの攻城は諦めて東屋の所まで引き返しました。
東屋の更に上の方にも登城口があるとのことでしたので、更に林道を上りそれらしきところを見つけたのですが、今一つ自信が
ありませんでしたので、峠を下って戻り、別の登城口を目指しました。




虎ヶ岡城址(東側) 730m(22分) と表示のある登城口です。
陣見山林道を上がる前に下見はしてありました。ここからではかなり厳しいようでしたので攻城口の2番候補でしたが、第1の候
補が失敗に終わりましたので、改めてここからの攻城に挑戦となりました。ここに至るまでだいぶ時間を浪費してしまいました。




何を祀った祠かまでは確認しませんでしたが、それぞれ別の場所に祀られていたものをここ1か所に集めたのでしょう。




写真で見るよりは急な道です。




階段状の坂道を過ぎると若干緩やかな山道となりましたが、すぐに・・・




足元が埋まってしまうほどの落葉の坂道です。自前のステッキを持って行ったのは正解でした。




ひたすら尾根を歩きますが、堀切らしきものは見当たりません。まだ城域ではないようです。




再び落葉道です。まあ、落葉のない所は僅かですが。




かなりの急坂です(振り返っての写真です) こんな急坂か所々にあります。




僅かに視界が開けたところから。円良田の集落でしょう。




所々に瘤のような高い場所がある山道をひたすら歩き続けます。一見、平坦なのようですがさに非ず。




歩き始めてかなりの時間が経ちましたが、本郭跡らしき場所に遭遇しません。もう少し歩けばもう少し歩けばと・・・




ここが限界です。上に向うには急斜面です。少し上がってみましたがとても登りきれたものではありません。かといって回り込
めそうな場所も見つかりません(落葉が覆ってたので見つけられなかったのかもしれませんが)
これより先に進める道を探せたとしても、帰路のころには陽が落ちてしまう可能性がありましたので、無理は禁物とこのルート
での攻城も諦めて来た道を戻ることに・・・
上がってくる時も落葉で大変でしたが、帰りの下りは更に大変でした。片手ににステッキを持ち、もう片手で木や枝に掴まりな
がら一歩一歩慎重に下りてきましたので登った時以上の時間を費やしてどうにか麓までたどり着きましたが、足はパンパンにな
っていましたし、痛めている膝がさらに痛くなってしまっていました。

※後日、コースを間違ったのでないかと調べてみましたら、間違ってはいなかったようで、引き返した場所の斜面の右側を更に
進むと本郭跡(東屋)の方に向かって行けたようです。しかし、あの時点では戻って正解だったかもしれません。




来るとき前を通ってきたときは開いていた円良田特産センターはすでに閉まっていました。




虎ヶ岡城跡ハイキングコース 約1.3㎞ 徒歩35分

いったい私は何分歩いたと言うのだ!!  それでも城跡にたどり着けなかったという不甲斐無さ
決して無計画で来たわけではなく、久しぶりの山城であったからそれなりに情報を集めて挑んだのに・・・
機会を見つけて別ルートで再攻城したいものです。

ということで、本年最初の城攻めは見事に失敗でした。

攻城日:平成30年(2018)1月9日(火)

岡部陣屋(埼玉県深谷市)

2018年01月05日 | 100名城以外の城館跡


埼玉県深谷市岡部(旧大里郡岡部町岡部)にある岡部陣屋跡を訪ねてみました。

元今川家家臣で後に徳川家康に仕えた安部信勝が5200石を領し、その子信盛の代に加増をうけ、慶安2年(1649)に1万石を加増
され諸侯に列した。信之の代に2万200石、信友の代に2万2,200石となった。陣屋は信友の子信峯により築かれた。陣屋は土塁と
空堀を巡らせていたと言われるが、今は跡形もない。
幕末には砲術家の高島秋帆の身柄を預かっている。現在は陣屋址敷地に石碑がある。その後、明治維新まで安倍氏の居館として
用いられたが、慶応4年(1868)、藩主信発が明治新政府側に自ら願い出て三河国半原藩(愛知県新城市)へ移転したため、岡部
陣屋は廃止された。                                 (Wikipipediaより引用)

「安倍」=「あんべ」と読むようです。
岡部陣屋跡は、岡部藩陣屋跡の名称で、埼玉県指定旧跡(昭和13年(1938)3月31日指定)となっています。
指定概要は、幕末の兵学者でわが国近代砲術の祖、高島 秋帆が讒訴され、一時幽閉されたところ。
ということで、陣屋跡そのもの価値でなく、高島秋帆が一時幽閉されたところに価値を見出しているようです。何もない陣屋跡
では仕方ない話ですが・・・




国道17号線(中山道)を群馬方向に進んだ場合、岡部(北)交差点の左一角に「史跡 高島秋帆幽閉地入口」の標柱ががあります。
一瞬、団地入口なんて読んでしまいそうですが、ここを左折(写真を撮る角度を失敗しました)




左側にある岡部郵便局を通り越して少し行った右側に「高島秋帆史蹟」の標柱がありますので路地を右折(やはり写真失敗)




少し進むと左進行方向側に石碑と説明板があります。このあたり一帯が陣屋跡のようですが、遺構はありません。




石碑は、残念ながら岡部陣屋跡碑ではありません。高島秋帆の事が細々と書かれた碑です。




この説明板も岡部陣屋跡についてのものでなく「高島秋帆幽閉の地」の説明板です。
高島秋帆の存在がなかったら、ここには何も建てられず、ただの畑か住宅になっていたでしょう。




やはり岡部地内にある岡部藩主安部氏の菩提寺である源勝院




門前にある岡部藩の説明板 安部氏についての説明がなされています




本堂




院号「源勝院」の扁額




安部大蔵元真の碑




2代から13代の墓




同上 反対方向から




陣屋跡地を訪ねたにも関わらず陣屋の痕跡を見ることなく散策を終えるのは寂しいものですから、市内岡3313にある金昌寺に
移築されている岡部陣屋の長屋門を見に・・・大分改修されていますが大きな長屋門です。




狭い道路からでは、長屋門全体を撮るのは難しいので・・・




3方向から撮った3方向目の写真です。




これは境内から。




そしてこれは市内某所の民家に移築されている岡部陣屋の通用門。
一般の民家ですので失礼にならないよう外から1枚だけで・・・

散策日:平成29年(2017)12月14日(木)・19日(火)

上杉館(埼玉県熊谷市)

2018年01月03日 | 100名城以外の城館跡
深谷上杉氏 ⑩
深谷上杉氏に関連する史跡等を数回にかけて紹介してきましたが、一旦、この「上杉館」で終了とします。



埼玉県熊谷市千代(旧大里郡江南町)にある上杉館跡を訪ねてみました。
上杉氏と言ってもいくつもの系統がありますが深谷上杉氏です。深谷上杉氏の興りから述べると長くなりますので省きますが、
天正18年(1590)豊臣秀吉の小田原征伐の時、後北条氏の傘下にあった深谷城主・上杉氏憲(深谷上杉家8代当主)は小田原城
に詰めていました。深谷城は、重臣の秋元長朝、杉田因幡が守備していましたが、前田利家らの深谷城攻めに際し、城下を戦火
から守るため、秋元長朝、杉田因幡は前田利家らに城を明け渡しました。
所領没収となった氏憲は嫡男とともに信濃に移りましたが、その後上杉氏は、ここに来て居を構え上杉館を築いて小久保氏を名
乗ったということです。                       (この写真は西側雑木林の道から撮影)




北側の道路から館があったと思われる場所を。近年、樹木や竹が伐採されたようです。




やはり北側の道路から同所を西方向に。雑木林の更に西側に上杉家の墓所があります。




北側道路から見た館跡東側の土塁(写真中央あたり)




館跡西側の雑木林に通ずる道。写真右側が館跡で土塁も残っています。




同じく雑木林に通ずる道から見た館跡と館跡南側土塁




館跡南側土塁




雑木林の西側道路にある「ふるさと歩道休憩所」
上杉家墓所はこの南方にあります。




上杉家墓所




墓所の中に建立されている墓誌

天正十八年(一五九〇年)豊臣秀吉の関東攻略に対し深谷城主上杉氏憲公は、止むなく城を開け渡し、嫡男憲俊と共に信濃国
大豆島(現在の長野市)に移る。
三男憲成はこの地に来りて居を構え、上杉館を築きて住し小久保氏を名乗る。氏憲公もまた後に、信濃より此の地に来り寛永
十四年(一六三七年)正月二十二日卒す。
上杉家は代々氏憲公を祖として崇敬し、爾来凡そ四百年連綿として今日に至る。(以下は没者の戒名のため省略)

深谷上杉氏は、小田原征伐で後北条氏が敗れた後、豊臣秀吉によって所領を奪われ同族の上杉景勝を頼って信濃国に移住した
ようです。

墓石の写真はあえて載せませんが、この墓所の墓石等には、上杉氏の家紋である「竹に雀紋」ではなく「五七の桐紋」(上杉
桐)が入っています。自身には、その理由は分りませんが、こうして使われているというのは「五七の桐紋}も深谷上杉氏の
家紋なのでしょうね。

上杉謙信は、五七の桐紋を大親町天皇から下賜され、上杉氏の家紋のひとつにしています。景勝は謙信の養子(また謙信の甥
でもある)です。そんな関係から深谷上杉氏も五七の桐紋(上杉桐)を使うようになったのではないかと推測します。




南側の道路から




南側から見た館跡東側を南北に走る空堀と土塁  土塁上の竹も伐採されています。

実際の館跡(敷地)はもっと広範囲にわたるようですが、樹木や竹が伐採されて更地状態になっている場所を自身の勝手な推
測で館跡として捉えて説明をさせていただきました。
樹木伐採前の土塁はもっと高く、空堀はもっと深かったことが容易に想像されます。

上杉氏・小久保氏に関する話は色々あるようですが深くは考察しないことにします。
なお、上杉氏は現在もこの付近にお住いのようです。

10回にわたって深谷上杉氏を取り上げてきましたが、ここで一旦終わりにしたいと思います。
記事ごとにコメントを付けたため、他の記事との整合性がない個所もあるかとは思います。また、同じことでありながらも記
事によっては、関東入国、関東入府などと異なる表現をしましたが、そこは大目に見ていただければ幸いです。
深谷上杉氏(家臣等を含め)に関係する場所や史跡などはまだまだ沢山ありそうです。今回の一連の記事以前にも、「杉田因
幡の墓」や「平山館」を投稿していますし、まだ行ってはいませんが、「矢井伊勢守屋敷」などもあります。
また機会を見て散策してみようと考えています。

散策日:平成29年(2017)11月17日(金)他1日

東方城(埼玉県深谷市)

2018年01月02日 | 100名城以外の城館跡
深谷上杉氏 ⑨
時系列通りには行かないと思いますが、深谷上杉氏に関連する史跡等をを数回にかけて紹介中!
今回は、守りのため深谷城周囲に築いた支城のひとつで東の守りであった東方城です。



埼玉県深谷市東方にある東方城跡(ひがしかたじょうあと)を訪ねてみました。

《東方城跡は深谷市東方にあり、低地に望む櫛挽台地の先端部に位置します。大里郡郷土誌には、大正8年頃の様子が「平地
よりやや高き丘をなし、下に城下沼を控え眺望佳成。里人城山と呼び、深谷上杉の家人の居城なりしと云えど、其何人なりし
か伝えず」と記されています。北方の沼地や水田に向かった突き出た台地の縁にあり、深谷上杉氏支配下の城でした。
「矢井伊勢守重家の弟、若狭守重任な東方城預かる」という史料も確認されています。
深谷上杉氏は関東管領山内上杉氏の一族です。14世紀後半に、はじめ庁鼻和上杉氏と称し、庁鼻和の地に拠点を構えていたと
されます。関東管領方と古河公方方との抗争が激しくなる15世紀中頃には深谷城を築き、そこを本拠地としました。先の史料
から、東方城には城代が置かれていたと思われます。
豊臣秀吉の小田原征伐による深谷城開城、徳川家康の関東入国後、1590年に深谷城へ松平康直が一万石で、東方城には松平康
長が一万石で入城します。
1601年に、松平康長は上州白井城二万石に移され、東方城は廃城となります。現在も土塁と堀の一部が残る他、「御所屋敷」
「城主別邸」「お姫屋敷」「仲間町」などの地名や伝承地が見られます。
東方城跡の東には、松平康長が中興開基し菩提寺とした金久院があります。また西には、深谷上杉氏の時代から崇敬されてき
た熊野大神社があります。》      (現地に設置されている案内板「中世の城跡 東方城跡」の中の説明文より)

戦国時代、深谷上杉氏は深谷城を中心に、北に皿沼城・西に曲田城・東に東方城を配置し利根川の先の古河公方に対する防御
を固めましたが、この東方城は読んで字のごとく東の方に築いた城ということからの名でしょう。
この東方城は、上記説明にもあるよう、いくつかの単体の屋敷で一つの城を形成していたようです。

冒頭の写真は、屋敷跡としては一番大きな御所屋敷跡を北方から撮ったものです。




御所屋敷跡西側の小口(?)付近です




フェンスの所が小口のようで、ここから郭内になるようです




用水が流れていますが堀跡でしょうか




土塁ですが、切通しのようにも見えます




もう少し先まで延びています




東方城跡標柱  かつてはここにも深谷上杉顕彰会による説明板があったようですが撤去されたようで見当たりませんでした
東方城跡 市指定史跡(昭和43年〈1968〉11月3日指定)




切通しを反対方向に




角度を変えて




切通しの西側の土塁を郭内から




土塁に上がってみました。当日か前日かくらいの直近に、人が歩いたような形跡がありましたが、きっと城好きな方でしょう。




土塁を降りて郭内に




御所屋敷跡南側の土塁




御所屋敷跡東側の土塁




東方から見た東方城 写真中央の住宅の背後の山林が御所屋敷 左側の手前の山林が城主別邸




城主別邸 城主別邸の土塁は「史跡 東方城土塁(二号)」として深谷市の指定文化財になっています
家屋の裏側に土塁が僅かだけ見えますが写真では無理のようです




敷地内には入れませんのでアップで撮ってみました どうにか見えると思います




敷地内西側にある南北に延びている土塁の端が塀越しに見えています




城主別邸西側の道沿いに土塁を確認しようとしましたが生垣やら竹などに遮られてしまいとても写真では無理です(肉眼でも厳しい)




どうにか灌木少ない場所から 空堀はだいぶ埋まってしまっているようですが、土塁はかなりの高さで残っています




土塁の上も竹藪状態です




歩いてきた道を振り返ればこんな感じです




城主別邸北側の状況




お姫屋敷の土塁も「史跡 東方城土塁(一号)」として深谷市の指定文化財になっています
土塁は、この標柱の建っている建物の西側ですが、道路から見えやすいこの場所に標柱を建てたもの推測します




土塁はブロック塀と金網フェンスで囲まれた場所にありますので ブロックの穴や金網の穴から撮りました




長さはありませんが、土塁だけでなく空堀も残っています




お姫屋敷南側 標柱のある反対側です 道路の右側の木立に中に土塁があります




まだ全面開通していない道路の端に見つけた新しい案内板「中世の城跡 東方城跡」




この中の説明文を冒頭に転記引用させていただきました(写真にした方が早く楽なのはわかっていますが、たまには手入力でと)




熊野大神社境内の土塁 ここの土塁と東方城との関係は分りませんが・・・

ここも1日目は現場把握ができずにが用が足りず、2度目の散策でどうにか(これでも満足ではありませんが)
城跡は広範囲にわたっています。そんな場所を行ったり来たりしましたので1万歩前後を歩きました。

散策日:平成29年(2017)12月12日(火)・19日(火)

秋元氏館(埼玉県深谷市)

2018年01月01日 | 100名城以外の城館跡
深谷上杉氏 ⑧
新しい年の最初の記事は、縁起の良い末広がりの「八」が、深谷上杉氏⑧と重なりました。それに加え、新年ですから夢を大き
く、子孫が6万石の大名にまで出世した秋元氏の館跡を取り上げてみました。



埼玉県深谷市秋元町にある「秋元氏館」跡(別名:秋元城・秋元氏陣屋)を訪ねてきました。
館跡と言っても、今は宅地化された住宅街の中のロータリーに石碑と説明板が建つだけのもので遺構はありませんが、「秋元氏
陣屋跡」の名称で昭和33年(1958)11月3日、深谷市指定史跡となっています。

秋元氏は、上総国周淮郡秋元荘(千葉県君津市)を領していたことから秋元氏を称した。戦国時代の天文10年(1541)景朝の時
に秋元の地を去り、深谷上杉氏の家臣となり、憲賢と憲盛の二代にわたって仕え、上杉三宿老の一人として活躍、上野台と瀧瀬
の2村を拝領し、ここ上野台に館を築きました。
子の越中守長朝も、家老として深谷上杉氏に仕え、天正18年(1590)の 豊臣秀吉の小田原征伐のとき、城主上杉氏憲が小田原城
に籠もったため、長朝は深谷城を守備し、攻め寄せる豊臣軍を相手に奮戦し、よく城を持ちこたえたが、本城小田原城の開城に
伴い、敵将前田利家と浅野長政の猛攻を察知して、杉田因幡と謀って開城し深谷を兵火から守った。しかし、後北条氏が敗北し
たことにより、深谷上杉氏は所領没収となった。
これにより深谷上杉氏が消滅したことから、その後長朝はしばらく隠棲していたが、井伊直政(浅野長政の説も)の推挙により
徳川家康に見参し、500石の旗本となる。長朝は家康に気に入れられていたのか、度々加増を受け、慶長6年(1601)には、上野
国総社1万石の領主(大名)となる。子孫も累進し川越藩主や老中などになり、館林6万石の領主で幕末を迎えている。

これはあくまで自身の推測ですが、秋元長朝が家康の旗本となるまでの間、隠棲していた所は、現在の熊谷市樋春にある平山家
ではないかと考えます。平山家は、やはり深谷上杉氏の家臣であった平山(新井)氏が帰農して構えた屋敷で、平山家住宅にお
邪魔した際に、ご当主からお聞きした話の内容を根拠にしてです。




秋元氏館阯  高さ3メートルくらいあるでしょうか 大きな立派な石碑です




石碑裏面には色々と書かれて(刻まれて)いますが、文字が多いうえに日差しの加減で判読は不能です。




秋元氏陣屋跡の説明板  深谷市のあちらこちらでお目にかかる深谷上杉顕彰会のものです
石碑は「館跡」、説明板では「陣屋跡」と標記が違いますが、このころは館を陣屋と言っていましたから




秋元氏館跡の次に訪ねたのは、説明板にも書かれている景朝・長朝の墓があるという元誉寺
山号は「上野山」で、このあたりの地名上野台からでしょう
寺号の元誉寺は、長朝の戒名 江月院殿巨岳元誉大居士 からでしょう




本堂  何か他のお寺の本堂と雰囲気が違うと思ったらRC工法の建物のようです(本題とは関係ないことですね)




山号「上野山」の扁額




本堂裏手にある景朝・長朝の墓
左の大きな五輪塔は近年建立された秋元氏供養塔
右にある宝篋印塔の後ろにある宝篋印塔残欠が景朝・長朝の墓のようです
秋元氏墓の名称で深谷市の史跡指定(昭和37年(1962)11月3日指定)されています
秋元氏の墓は群馬県前橋市にあり、景朝・長朝の墓も同様です。長朝が上野国総社1万石の領主になってから移されたとの話も
ありますし、名のある方の墓(供養塔)は複数存在しますから。




宝篋印塔と宝篋印塔残欠




これは秋元氏の裔・礼朝が最期の城主として幕末を迎えた館林城の「土橋門」(復元) 
             ※平成23年(2011)5月4日攻城時に撮影 以下同じ




館林城跡説明板 歴代城主一覧の最後2名が秋元氏




館林城の隣接する「旧秋元別邸」
旧秋元別邸は、明治末期に建てられ、秋元興朝(おきとも)とその子春朝(はるとも)が別邸として使用した旧館林藩主秋元家
に係わりの深い建物で、昭和5年に東京駿河台の秋元家の屋敷の庭園から移築された石燈篭や庭石もあります。

埼玉県深谷市の秋元氏館址から群馬県館林市まで話しが飛んでしまいましたが、陪臣から大名にまで出世した武将はほんの数人
しかいないようですし、幕臣の老中にまでですから、秋元氏とは本当に凄いですね。

散策日:平成29年(2017)12月11日(月)他1日