
名 称:大蔵館(おおくらやかた)
別 名:-
形 態:館
時 期:平安時代末期
築城主:源義賢
城 主:源義賢
遺 構:土塁・空堀
指 定:県指定史跡(昭和9年(1934)3月31日指定)
現 状:大蔵神社・住宅地
所在地:埼玉県比企郡嵐山町大蔵

笛吹峠方向と大蔵館跡方向との交差点にある標識

交差点から県道172号線大蔵館跡方向に向かい、少しした場所に遺る館跡東面の土塁

土塁を南方から北方に

「埼玉県指定史跡 大蔵館跡」説明板

「実測図」をアップで

土塁を北方から南方(県道方向)に

土塁の外側には空堀様の痕跡が見られますが、中に入れませんので遠目から

土塁先端部に建立されている「馬頭観音菩薩」碑
中心に南無馬頭観音菩薩とあり、右側に、久寿2年8月16日 大蔵館 源氏一族一門 とあります。
久寿2年(1155)8月16日は、源義賢が大蔵館で甥の悪源太義平に討たれた日
左側には、平氏一族一門 とあります。

こんもりとした森が大蔵神社で、同所付近が大蔵館の中核(主郭)と考えられると説明板にはあります。
U字溝コンクリートが置かれている傍に、以前は「大蔵館跡」と横書きされた大きな看板がありましたが撤去されたようです。

「史蹟 大蔵舘趾 埼玉縣」と刻まれた石標と「埼玉県指定史跡 大蔵館跡」説明板

「埼玉県指定史跡 大蔵館跡」説明板

大蔵神社(大蔵館跡)南側を南西方向から

大蔵神社参道入り口
右側に「邨社 大蔵神社」の社号標 ※邨社(そんしゃ)=村社

大蔵神社参道
両脇は土塁 土塁上左右にそれぞれ説明板があります 左側のは旧来からのもの 右側のものは最近建てられたもの

「大蔵神社」神額

旧来からの「大蔵館跡」説明板

最近建立された発掘調査の結果が記されている「埼玉県指定記念物 史跡 大蔵館跡」説明板

境内より西南の土塁を

西側土塁

西側土塁を北方から南方に

西側土塁の外側には堀跡があります

境内の状況

手水舎

境内社 左:富士浅間 右:山王大権現

伝城山稲荷 右側のシャッターの降りている社は八坂神社(神輿殿か)

大蔵神社拝殿

伝城山稲荷参道

大蔵神社境内東側 土塁なのか土盛りなのか

大蔵稲荷神社鳥居 石階段の先に見えるのが伝城山稲荷神社

「正一位 大蔵稲荷大明神」神額 城山稲荷から大蔵稲荷に改称したのか?

鳥居の左前の石祠

館跡北辺の道路 中間部あたりから東方に

館跡北西隅に遺る土塁 東方から西方に

館跡北西隅に遺る土塁 西方から東方に

同上
ガードレールのある所は用水路ですが、堀跡かどうか分りません。左端の道を進むと都幾川・槻川に通じます。更に川向こう
には畠山重忠の館であった菅谷館跡があります。

大蔵神社の森を北西方向から 神社裏の方は住宅が建ち並んでいて写真が撮れませんので

大蔵神社から300m程の離れたところに源義賢の墓とされる五輪塔があります

「御廟堂 帯刀先生源義賢公」の石標と鳥居 鳥居には「義賢公墓所」の扁額

義賢の墓とされる五輪塔この覆屋の中に保存されています

「源義賢墓」説明板
火輪部と水輪部のみ残存とあります

源義賢の墓
扉の格子越しのため上手くは撮れません
説明板には、供養塔とも考えられるとあります。また、帯刀先生源義賢の墓とされるものは、埼玉県児玉郡上里町帯刀に所在
する福昌寺にもあります。
同所の説明板によれば、久寿2年8月16日、甥の悪源太義平と大蔵館で合戦になり、戦いに敗れ上野国に逃れようとこの地
まで来た義賢は、8月28日、ついに敵方に追いつかれ討ち取られた。それを哀れと思った村人はこの地に埋葬し墓を建て、
上長村を帯刀村と改称した。と記されています。ここにいう上野国は、義賢の以前の館があった多胡を指すのでしょう。
これによれば、義賢の死は、伝えられている8月16日の12日後ということになってしまいます。

そしてもう一つの説明板
大蔵館跡を初めて訪ねてから8年半を経過しています。以来、何度か前を通ったものの駐車場がないことから素通り。
今回は、源義賢の墓所に前にある駐車場に止めさせていただき、徒歩にて広範囲に散策してきました。
初散策:平成22年(2010) 4月30日(金)
再散策:平成30年(2018)10月24日(水)