四季・めぐりめぐりて

近隣の城館跡・古墳などの史跡めぐりなどをぼちぼちながらやっています

伊奈陣屋跡-伊奈氏屋敷跡-(埼玉県伊奈町)

2012年05月28日 | 100名城以外の城館跡




【伊奈氏屋敷跡】

天正18(1590)年、関東郡代伊奈忠次は、周囲を泥深い湿田に囲まれたこの台地に、陣屋を構え、その後の関東地方の幕府直轄地を支配する拠点としました。
寛永6(1629)年に、三代忠治が川口市赤山に陣屋を移すまでの間、この地が地方支配の中心となっていました。
屋敷跡の規模は、東西350m、南北750mです。陣屋が構えられた頃の様子は明らかではありませんが、当時を偲ばせる土塁や堀が各所に良く保存されているほか、
見通しを悪くするためにわざわざ折り曲げた道などが、現存しているとともに、「表門」・「裏門」・「蔵屋敷」・「陣屋」などの呼称も伝承として残っています。
                                                      ~現地案内板より~ 

「伊奈陣屋跡」。これが私が最初に憶えた名称であるが、現地においては「伊奈氏屋敷跡」の名称が使われている。
他にも、伊奈氏陣屋、丸山城等色々な呼ばれ方をしているようである。

機会あれば訪ねてみようと考えていた「伊奈陣屋跡」であったが、伊奈町のばらまつりに行ったついでに回り込むことにした。
私のカーナビでは登録されていなかったし、所在地も伊奈町小室程度しか判明していなかった。
コンビニに寄ったり(全く駄目なコンビニであったが)、図書館に寄ったりして場所を調べてどうにか辿り着いたのが、上の写真の場所で、
「伊奈氏屋敷跡(入口)裏門跡」とありました。あまりのことなので感想は控えておきましょう。  
  



雑木林と化したところに「空堀跡」らしきものが




屈折した狭い道の連続です。土塁跡でしょうか? 






二の丸の土塁跡のようですが、ロープが張られていますので・・・

陣屋跡は広大な範囲のようですが、地元と訳ありのようで整備がされておらず、どこがどうなのかはっきりしませんでした
まあいいか、こんなものだと分っただけでも・・・

攻城日:2012年(平成24年)5月27日(日)           

伊奈バラまつり

2012年05月27日 | 花・鳥・風景




伊奈町の「伊奈町制施行記念公園」バラ園で、5月10日からバラまつりが開催されている。
県内最大のバラ園で、約300種4500株以上のバラが植えられているということであった。
昨26日に、県内2ヶ所のバラ園を梯子したばかりであったが、どんなものかと本日27日、また出かけてみた。
いやー ほんとに凄いバラ園である。
入場券が変わっていた。普通はチケットタイプのものであるが、ここはシールであり、胸やバック等の見えるところに貼ってバラ鑑賞をする。
バラ園の敷地構造を考えると、バッグ等に半券を仕舞い込んでしまうチケットタイプのものでは管理上都合が悪いからだろうと一人納得。
くだらない話を書くよりもバラの写真をアップした方がよさそうなので・・・  

































  
いくら見ても見切れない。そんなバラ園でした 

散策日:2012年(平成24年)5月27日(日)           

忍城(埼玉県行田市)

2012年05月27日 | 続日本100名城




関東7名城・埼玉3名城のひとつに数えられる行田市の「忍城(跡)」を攻めたのは2年半も前のことである。
その後も何度となく城跡前を通ったが、下乗して攻め入ったことはない。そんな「忍城(跡)」を、本日改めて攻城してきた。
忍城についての説明は、いつものように手抜きをして、写真の「忍城の由来」にお願いしておきます。  










御三階櫓 (模擬)
元の位置とは違う場所に再建されたようです。撮影位置を少しずつ変えてみましたが・・・  






門   
門の名は分りません。一見、当時のもののような雰囲気を感じますが、これも再建(模擬?)   






狭間
この狭間外側が広いか、内側が広いか気になってみて見ましたら、何と・・・答は内緒にしておきましょう






鐘楼と鐘
これも元は別の場所に建っていたものを復元?   






「忍城おもてなし甲冑隊」の皆さん
 





折角ですから「行田市立郷土博物館」に参館。御三階櫓も展示室になっています
展示内容は、古代から現代に至る行田市の姿。無論、忍城に関することも
写真撮影が出来るのは、ロビーのこの甲冑くらいで展示室内は撮影禁止です






石田光成が忍城を水攻めしようと築いた堤の一部が残っています。しかし、私の想像していた以上に遠い場所にあったのは驚きでした
  
*手抜きだらけの攻城記になってしまいましたが・・・

攻城日:2012年(平成24年)5月27日(日) 続日本100名城選定前         〔2017.3.22再編集〕

滝ノ入・ローズガーデン「春のバラ祭り」

2012年05月26日 | 花・鳥・風景




さいたま市中央区(旧与野市)の「与野公園」のバラは朽ち始めていた。それなら山合いにある「滝ノ入・ローズガーデン」はどうだろう? 
昨25日から「春のバラ祭り」が始まったばかりであるし、気候の差で未だ咲きはじめかもしれない。と、バラ園の梯子をすることにし、
与野公園を出るとそのまま毛呂山町の「滝ノ入・ローズガーデン」へと向かいました。  






約400種・約1500本のバラが植えられているというこの「滝ノ入・ローズガーデン」は、「もろやま町おこし事業」の一環として
滝ノ入地区の人々のボランティアによって開園されたバラ園とのことです
こちらは与野公園とは違って漸く咲き始めたようでした
そうそう、こちらはしっかり入園料300円(2人で行ったからその倍)を徴収されました 
 





アーチとバラのトンネルです。満開になったらさぞ綺麗でしょうね














与野公園のバラ園と比較したら小さな規模のバラ園ですが、色々な工夫がされておりますので趣のある散策が出来ます  

散策日:2012年(平成24年)5月26日(土)           

与野公園バラ園

2012年05月26日 | 花・鳥・風景




本日26日、さいたま市中央区(旧与野市)の『与野公園バラ園』に行って来ました
「ばらまつり」は、先週19日、20日の土日に行われ、既に終えたようです。イベントもなければ露店も出ていない本日でしたが、
バラ見学の方は沢山おり、駐車場が空くのを待つこと30分以上(全部で36台分しかないようですので)  






約140種類(約100種類、約170種類とも)約3000株のバラが植えられているとのこと
手入れや管理が大変なバラ。これほどのバラ園でありながら入園料無料というのは珍しいとのことです 
























先週の「ばらまつり」の頃が一番の見頃だったようです。本日見たところでは若干枯れかかっていました
それでも十分に鑑賞できましたし、アップに耐えられる花もまだまだ沢山ありましたので・・・  

散策日:2012年(平成24年)5月26日(土)             

歴史秘話ヒストリア 長宗我部元親

2012年05月17日 | 城郭関係テレビ番組


戦国武将としては伊達政宗や真田幸村等が人気あるが、ニューヒーローとして、長宗我部 元親が、今、人気を集めているようである。
その要因となっているのは「戦国無双」、「戦国SABARA」といった戦国ゲームの影響らしい。そこに描かれているヒーローたちは
みんな「格好いい」らしい。自身は、これらのゲームを知らないので詳しいことは分らないが。
そんな長宗我部元親を、昨晩のNHKテレビ「歴史秘話ヒストリア」で扱っていた。他のことをしながらチラチラと見た程度であり
内容は頭に入っていないので、後日、録画したものをゆっくり見てみたい。
長宗我部元親といえば土佐の武将であるが、山内一豊の入封により長宗我部家は土佐を追われたという因縁の仲。
土佐・高知では、代々土佐を治めてきた土佐山内家の祖一豊より長宗我部元親の方が人気があるらしい。その理由は分るが。
そんな長宗我部元親に、私は昨夏、高知の城下でお会いしました。
そんなわけないだろうって・・・いいえ、ここに証拠の写真が  




確かに長宗我部元親でしょう・・・  

投稿日:2012年(平成24年)5月17日(木)          

ザ・今夜はヒストリー 人気№1の戦国武将!真田幸村

2012年05月16日 | 城郭関係テレビ番組




今夜のTBSテレビ「ザ・今夜はヒストリー」は、人気№1の戦国武将!”真田幸村”と、父真田幸隆が関ヶ原の戦いにおいて西軍につき、
兄真田信幸が東軍につくに至ったヒストリーでした。 親子兄弟が敵味方に分かれざるを得なかったには戦国時代の複雑な人と人との
関係があったようです。しかし、裏を返せば、敵味方に分かれるということは、どちらかが勝者側になるわけであり、真田氏自体は生
き延びることが出来ます。さすが知略の真田と言われただけはあります。

過日、寄居北條まつりにおいて、信州上田真田陣太鼓の打奏を目の前にしてきたばかりであって興味深く観られました。
そして、いつもの如く再現場面に使われた場所はどこか?知っている場所だろうかと見ている自身がいました。 父幸隆が孫の顔を見たく、
兄信幸の正室小松姫のいる沼田城に立ち寄るシーンがあったが、この沼田城に見立てて使われていたのは、茨城県坂東市の逆井城の望楼
(模擬)でした。 他に使われた建物等はどこのものか分りませんでしたが。

お前は一体この番組のどこを観ているの? と言われそうですね。 

放送日:2012年(平成24年)5月16日(水)            

勝沼城跡(東京都青梅市)

2012年05月14日 | 100名城以外の城館跡




東京都青梅市に「勝沼城(跡)」というのがあるということは知っていました。
先日、青梅市の塩船観音にツツジを観に行っての帰り、時間があったことから「勝沼城(跡)」を攻城していこうと俄かに思いついたわけです。
お寺の裏の方にあるということは知識としてあったのですが、何分思いつきの攻城であるから何の準備もなく寺名も覚えていない状態です。
城山通りを走るとお寺が幾つかありましたが、どのお寺か見当がつきません。
そこで、コンビニに立ち寄って城跡のある場所を聞いてみましたが、「勝沼城(跡)」自体を店員も分らず、何とか他の店員がここのことではないかなと
教えてくれたのが「光明寺」でした。寺には駐車場がありましたが、天守のある城以外は興味がない(はっきり行って城跡は嫌いらしい)家人はコンビニで
買い物をして待っているとのことであり、コンビニに車を置かせてもらい徒歩で。実は、コンビニに車を置いていったには別の理由もあったのですが。
どうでもいい前置きが長くなってしまいましたが、光明寺(写真上)の脇の道を上がって行きますと墓地があり、墓地の途切れたところに立て札(写真下)が
ありました。立て札の内容からこの付近に城跡があるのは間違いないと確信(オーバーですが)。そのまま道を直進していきましたが、
配水場に行き当たるようで、城跡らしきものは見当たらず立て札のところまで戻り、墓地の外側の山道を上がってみました。 






こんな坂道(写真上)を上がっていきますと二手に分かれていましたので右方向に進んでみました。
この程度の山道でもいまの私は「ゼーゼー」と息が切れてしまいますので、山城どころか平山城歩きもきついです。
さて、ゼーゼーしながら出たところが見晴らしの良い削平地(写真下)でしたが、曲輪跡とは違うような雰囲気です。
そこで、ちょっと中に進んで見ますと・・・





だいぶ広い削平地があり曲輪跡だとすぐにわかりました。
そして、ここに「勝沼城跡」の案内板が設置されていました。ということはここが本曲輪跡なのでしょう。
いつもなら冒頭に城の歴史等について載せておりますが、今回はこの案内板で代用させていただきます。(明らかな手抜き)






土塁(写真上)と空堀跡と思われるところ(写真下)ですが、見てのとおり草木が繁茂しており遺構の姿がよく分かりませんでした。
ほかも歩いてみればよかったのでしょうが、このような状態でしたから、この本曲輪跡と思われる場所のみを確認して、登ってきた道とは違う道を使って下山してしまいました。
帰宅してから、この勝沼城跡について改めて確認しましたら、3曲輪まであり、土橋や虎口跡もあるらしいし、分り辛い場所ながら縄張り図の入った案内板もあるようです。

ところで、この勝沼城跡を再攻城するかどうかはまだ考える段階にはありません。

攻城日:2012年(平成24年)5月12日(土)         

寄居北條まつり2012

2012年05月13日 | まつり・イベント


1590年(天正18年)、豊臣秀吉の小田原攻めの時、鉢形城主北條氏邦は前田利家を総大将とする5万人の豊臣勢を相手に僅か3500人の兵力で
1ヶ月余の攻防戦を続けるも、6月14日に開城した。 秀吉が、前田利家、上杉景勝両将鉢形城攻めを催告したのが、この年の5月13日と言われている。
奇しくもこの5月13日である本日、寄居町の玉淀河原で、このときの攻防戦を再現した「第51回寄居北條まつり」が催れましたので行って来ました。  
この写真の崖の上に「鉢形城」がありました。合戦はまさにここで行われたわけです。






鉢形城跡から眼下に見た合戦場と直近で見た合戦場です






武者隊の入陣までは大分時間があり、その間、色々なアトラクションが合戦場両サイドの設けられた2つの舞台(北條舞台・豊臣舞台)で
繰り広げられました。よさこい、舞などが披露されたましたが、私的には抵抗を覚えるよさこいでしたのでスルーしましたが
さて、入陣してくる武将隊は色々で、鉢形城と縁故の小田原城馬廻衆、滝の城隊、箕輪城隊などや、お祭りならではの町会議員隊、
国際隊、金融団隊、郵便局隊、農協隊、一般公募隊・・・全部上げたら切りがありませんし、全部憶えているわけでもありません  










それにしてもカメラマンの多いこと。デジカメに限らず携帯電話のカメラで撮っている方も沢山おりました
これぞ合戦場だけに「戦場カメラマン」  
    





両軍勢ぞろいしたようです  






「大将は旗持ちを従えて本陣に入られたし」と最初は聞こえたのですが、なぜか途中で「・・・登壇されたし」に変わっていたような
私の聞き違いでしょうか?出陣に先立ち「三献の儀」が行われましたが、これをやらない武者行列もあるようで
(え! 出陣ではなく単なる武者行列だから必要ないって言えばそれまでですね) 










三献の儀を終えて市街を行軍です   早い話が市中パレード




騎馬姿は「大福御前殿」と「北條氏邦公」でしょうか   でも、すぐ後ろには徒歩の大福御前殿がおりましたので別人でしょうか?






武者行列を追ったのはこの店の前まで
昔からあるお店で人気があります。本日このときは客が少なかったですが、前回は行列でした
最初、「たこやき」を注文したのですが、この店の看板は「たいやき」。一文字違いだからどうでもよいのですが、たいやきの店でたいやきを
買わないと 話になりませんので、たいやきも追加。買ったものの食べるチャンスがなくてすっかりさめていました
まあ、写真を撮るために買ったようなものですが・・・  




合戦場の特設舞台では各種催しが・・・その一例










武者行列が帰陣する前に一足先に河原に帰陣。豊臣舞台では「信州上田真田陣太鼓」の打奏が始まるところでした
「私たちは敵なんですが今年もやってきました・・・」と
そうなんです。この小田原攻めの大義名分を秀吉に与えてしまったのは、北條氏(家臣)が真田氏の城(名胡桃城)を奪ったことにありますので。
そして、この鉢形城の攻撃に真田氏も豊臣勢として加わっているわけですから正に敵同士だったわけでして
赤備えの甲冑に六文銭。一目で真田氏と分ります。それにしても素晴しい太鼓でした
それと、個別の写真はアップしていませんが、合戦場の陣太鼓は、「北條陣太鼓」と「武蔵流東松山太鼓」の方々が交代で打ち続けてくれました  






市街を行軍してきた武者たちが帰陣し、いよいよ・・・  










攻防戦が始まりました。大砲が火を噴いています。対岸からも反撃の砲火が






1対1の戦いも何組かありましたし、ここでも女の徒歩が頑張っていました

家臣や農民にこれ以上の犠牲を強いたくないと、氏邦は豊臣方に和睦を申し入れ開城。そして戦いは終えました  

見学日:2012年(平成24年)5月13日(日)           

塩船観音のつつじ

2012年05月12日 | 花・鳥・風景




青梅市にある塩船観音のつつじが見頃であるとテレビのニュースで紹介されたのは3、4日前のことでした
ということで本日は、つつじまつり中の塩船観音のつつじ鑑賞に・・・   










でも、既に見頃を過ぎていたようです。花びらは枯れかけていましたし、萎れてもいました。花は終えて葉の緑色が勝っているようなそんなつつじの
印象を受けました。そんなわけで、観光写真等で見るような色とりどりの花が咲いているといった華やかさにはちょっと欠けていたかなと 














塩船観音の名物といえば「焼き団子」ということでしたので買って食してみました。私にはちょっとしょっぱい味ですね
食べてしまってから証拠の写真を撮っていなかったことに気付き、写真のためにもう1本買おうとしたところ既に売り切れていました
ということで今回は写真なし
梅、桜、芝桜、牡丹、山吹。そして躑躅、と春の花をあちらこちらと観に行きましたが、丁度見頃だという時に当たらず、
早すぎたり遅かったりと・・・これも普段の行いのせいでしょうか?  
  
散策日:2012年(平成24年)5月12日(土)