四季・めぐりめぐりて

近隣の城館跡・古墳などの史跡めぐりなどをぼちぼちながらやっています

立川氏館(東京都立川市)

2018年08月29日 | 100名城以外の城館跡


城 名:立川氏館(たちかわしやかた)
別 名:―
形 態:平城
時 期:不明
築城主:立川宗恒
城 主:立川氏
遺 構:土塁
指 定:都指定史跡(平成6年〔1964〕3月22日指定)
現 状:普済寺
所在地:東京都立川市柴崎町4丁目

立川氏館は武蔵七党のひとつ西党・日奉氏の支族で、立川(立河)宮内少輔宗恒がこの地に築城、戦国末期まで現在の立川市
周辺を支配していた立川氏の居館跡とされる。鎌倉時代に屋敷内に寺を建立し、戦国時代は北条氏に仕えたとされます。北条
氏滅亡とともに立川氏も滅亡し、廃城となった後、現在の普済寺になったとされる。鎌倉時代に建立された寺が現在の普済寺
となったとされます。
そんな、立川氏館跡である普済寺を雨降る中、散策してきました。




参道入口 左側に巨大石灯篭  右側に「玄武山普済寺」の寺号標




石畳の長い参道の先にある楼門
四脚門の山門で、上階には仏像が安置されています




楼門の手前右手にある鐘楼




楼門の手前左手参道沿いにある玄武山普済寺文化財案内




楼門の手前左手にある閻魔堂




再び櫓門をアップで




池と堀




池と堀の上に架かる太鼓橋




本堂
平成7年(1995)4月、放火により本堂・庫裡・客殿・書院などの建物や、寺宝の複数の仏像を焼失し、約10年の歳月をかけて
再建されましたが、その新本堂。




「常照殿」と揮毫された扁額




寺務所 本堂と繋がっています




本堂の南側にある土塁




「東京都指定史跡 立川氏館跡」説明板




土塁を逆方向から




築山ようになっていますが、これも土塁跡でしょうか?




土塁を外から




境内墓地にある「首塚」
立川宗恒の墓あるいは立河合戦の戦死者の首塚とも伝わるようです。石板は立川氏の墓の石扉の一枚とみられています。




立川宮内少輔宗恒之碑
なんの碑なのか分りませんが、立川宗恒は普済寺の開基とされる。




本堂裏手にある国宝六面石幢の石碑   雨で読めません   木の後ろにあるのが六面石幢の覆屋




講師のあるガラス戸腰に撮りましたので全体は撮れませんでした




館跡から残堀川を望む  立川氏館が要害の地に築かれたことを裏付けています

墓地の西側にも土塁が遺っているような情報もありますが、確認には至りませんでした。
雨降る中を傘をさしての散策には限界があります(いい言い訳ができた)

散策日:平成30年(2018)6月23日(土)

比企の中世PART2 ―比企の戦国時代―

2018年08月26日 | 企画展・見学会


比企歴史の丘巡回文化財展 比企のタイムカプセル18   比企の中世PART2 ―比企の戦国時代―

全体期間 
 平成30年8月21日(火)~11月25日(日)

主 催 
 比企地区市町村教育委員会連合会
 比企地区文化財振興協議会
 埼玉県立嵐山史跡の博物館

内 容
 数多くの戦いがあった15・16世紀の戦国時代の比企地方について、「館」や「板碑」など、7つのテーマで紹介する展示会
 です。武士が拠点とした館から出土した陶磁器や、かわらけなどの土器、寺社の屋根に葺くための瓦、供養塔である板碑などの
 実物資料と、発掘調査現場や仏像などの写真をあわせて展示。

各市町村ごとの展示期間・会場
 8月21日(火)~8月26日(日) 嵐山町ふれあい交流センター
 8月28日(火)~9月 2日(日) 東秩父村和紙の里ふるさと文化伝習館
 9月 4日(火)~9月 9日(日) 東松山市埋蔵文化財センター
 9月11日(火)~9月16日(日) 鳩山町立図書館                                                      
 9月19日(水)~9月23日(日) ときがわ町アスピアたまがわ
 9月26日(水)~9月30日(日) 川島町役場多目的ホール
10月 2日(火)~10月 8日(月) 小川町立図書館
10月16日(水)~10月14日(日) 滑川町エコミュージアムセンター
10月16日(火)~10月21日(日) 吉見町埋蔵文化財センター(入場料300円)
10月23日(火)~11月25日(日) 埼玉県立嵐山史跡の博物館(11月5日を除く月曜休館)

早速、8月25日(日)、最初の会場である嵐山町ふれあい交流センターまで行ってきました。

小田野城(東京都八王子市)

2018年08月23日 | 100名城以外の城館跡


城 名:小田野城(おだのじょう)
別 名:小田野屋敷
形 態:平山城
時 期:戦国時代末期(伝・天正15年〔1587〕頃)
築城主:小田野源太左衛門
城 主:小田野氏
遺 構:曲輪・土塁・空堀
指 定:国指定史跡(昭和58年〔1983〕3月28日八王子城跡の一部として追加指定)
現 状:山林・公園
所在地:東京都八王子市下恩方

小田野城跡は、江戸時代に著された『武蔵名勝図会』に北条氏照の家臣小田野源太左衛門の屋敷跡と云う伝承が簡単に紹介さ
れている程度で、注目されていませんでした。
昭和54年から55年にかけて、都道61号線の建設に伴って、発掘調査を実施したところ、16世紀後半と考えられる数段
の腰曲輪、桝形状の遺構や空堀等が発見された。その結果都道はトンネル構造に設計変更され、これらの城跡遺構は保存され
ることになりました。そして、昭和58年3月28日、八王子城跡の一部として国の史跡に追加指定されました。
小田野城は、主郭部分が過去に削平を受けたため、不明な部分がありますが、八王子城の出城として機能していたと考えられ
ます。
           【現地『「史跡八王子城跡 伝小田野屋敷跡(小田野城跡)」八王子市教育委員会』説明板より】




観栖寺台(かんせいじだい)公園の東端にある石碑   小田野城跡はこの観栖寺台公園の西側に位置しています




公園内を西方に向かって歩きます  東屋やトイレが整備されています




更に西に行きますと片側のフェンス沿いに「史跡八王子城跡 伝小田野屋敷跡(小田野城跡)」の説明板設置されています




説明板にある見取図に加筆(便宜上の名称)しました




フェンス西端に扉が設けられています  城跡への入り口です




扉を開けて下に降ります  右側の見えるフェンスは公園敷地からの転落防止措置であることは一目瞭然です




空堀  右の茶色部分が土橋かと思いますが?




桝形状遺構




桝形状遺構から空堀を見下ろしています




桝形遺構を北側から見ています




腰曲輪(南方から北方向へ)  石垣の上方が本曲輪




腰曲輪を逆方向から(北方から南方向へ) 




腰曲輪  右側の道を上がって本曲輪へ




上がって来た「あ⇒」 から 本曲輪へは「い⇒」へ
手前は林道のようですが、木が置かれているのは本曲輪への車両の進入防止のため?




本曲輪




本曲輪  北方から南方に




本曲輪北側の物見台跡




物見台跡に上がってみました  削平されていますが灌木等ではっきり見えません
下界を眺望しようとしましたが木立で見えませんでした




本曲輪南側の土塁(西方部)




本曲輪南側の土塁(東方部)  東端は開口されており裏側の曲輪?に通じています




本曲輪南端から住宅街を眺望




本曲輪東縁から帯曲輪と空堀を見下ろしています




観栖寺台公園の南端から都道61号の小田野トンネルを見下ろしています。
小田野城跡はこの小田野トンネルの上にあります。

攻城日:平成30年(2018)6月14日(木)

浄泉寺城(東京都八王子市)

2018年08月20日 | 100名城以外の城館跡


城 名:浄泉寺城(じょうせんじじょう)
別 名:近藤砦・近藤出羽守屋敷
形 態:丘城(居館)
時 期:戦国時代
築城主:近藤出羽守助実
城 主:近藤出羽守助実・伝鎌倉権五郎景政
遺 構:土塁?
指 定:―
現 状:寺域・住宅地
所在地:東京都八王子市館

戦国時代に、八王子城主北条氏照の家臣近藤出羽守助実が城を構えていた。更に伝承ながらも平安時代には鎌倉景政が館を構
えていた言われる浄泉寺と御霊神社を訪ねて来ました。

鎌倉氏は村岡五郎(平良文)の子孫で、鎌倉郡を領有していたことから父の代より鎌倉姓を名乗ったようです。

戦国時代には近藤出羽守助実が城を構えていました。助実は近藤綱秀とも名乗り、下野国・榎本城の城代を務めていましたが、
天正18年(1590)の豊臣秀吉の小田原攻めの際には八王子城を守備し、最前線にあった曲輪で壮絶な討死を遂げました。




湯殿川に架かる朱色の明神橋 明神は御霊神社(御霊大明神)からきている
御霊神社を含む浄泉寺城域の北側から東側に回り込むように流れる湯殿川は天然の要塞であった




明神橋を渡り坂道を南に進むと浄泉寺の寺号標が建っていますが、このあたりから坂が急になっています。




坂を上り切った右手に堂宇と駐車場があります。
左が本堂 真ん中が客殿ですが繋がっています。右に半分だけ見えるのが観音堂(法要等を行うセレモニーホール)




駐車場前に建てられている「浄泉寺の歴史」説明板

浄泉寺は戦国時代末期のころ御霊山浄泉寺城と称し近藤砦とも呼ばれていました。天正初年、八王子城主北条氏照の家臣、近
藤出羽守助実公が、この寺を創建されました。過去帳によると龍洞院殿一渓浄泉大居士、天正18年6月23日寂すと記され
ていることから浄泉寺の開基とされております。また、お寺をお開きになった僧は入間郡久米村(現、所沢市)永源寺の末、
当時開山、獄應儀堅禅師(天正15年10月17日寂)であります。この寺の二世、照鑑圓應禅師(慶安1648-1658)
は、当時は10石の御朱印を賜っていた名僧でもありました。
この寺と武士とが関わった歴史は古く、今から900年前、平安末期に醍醐天皇の系統貴族の子孫、鎌倉権五郎景政という武
将が本拠を構えておりました。しかし、三年の役(1068-1088)1083年の時、景政は右目を矢で射られ、それで
も敵を追い払い、又矢を抜こうとする者に「無礼者、弓矢で死するは武士の道」と叫んだことは有名で、諸行無常にして景政
は寛治元年(1087)9月9日33才で無念なる人生を閉じたのでした。勇敢な武将として讃えられその景政を祀る神社が
寺のすぐ下にあり当時は寺の守護神として建られ明治に入り神仏分離によって絶学天真禅師ご親筆により御霊山を釈尊山と山
号を改めまた御霊神社を明神様と称するようになったのであります。浄泉寺は武将の館に相応しく、周囲には川が流れて人の
往来をさえぎりやすく、その上、切り立つような丘のため、城砦としては申し分のない場所であったのです。今も土塁(土盛
り)や空堀の跡が残された歴史ある古いお寺でございます。
 平成10年5月吉日
                                             釈尊山 浄泉寺 山主

この説明文の中にある景政が右目を射られた三年の役(後三年の役)1083年は、16歳の時の事のようです。




本堂




山号「釈尊山」扁額




本堂大改修記念碑
浄泉寺城についても記されています




客殿 本堂と繋がっています




土塁?
上掲の浄泉寺の歴史の中に、土塁・空堀跡が残るとあります。しかし、その場所についての説明がないので、本堂周囲は無論
のこと霊園の一番上まで捜し歩きましたが、それらしきものは説明板の裏にあったこの土塁のみ。堀跡らしきものは見つかり
ませんでした。




逆方向から見ていますが、果たして土塁と呼べるものなのかは正直分りません。
他の場所にあったのかもしれませんが、探し方が悪かったのか、或いは霊園造営や住宅地へと変ったことににより消滅したの
かもしれませんが・・・




アジサイの季節です。お寺さんを歩きますとどこにもアジサイが。折角ですから1枚




もう1枚




本堂の更に南側の斜面は何段かに区画された霊園となっています




墓石が並んでいる状態を載せるには抵抗がありましたので本堂の屋根が見える程度にとどめておきました




一番上の区画の下には噴水もあります  アンパンマンとバイキンマンですね。
霊園も公園化しないとやっていけないのかも知れませんね。

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「御霊神社」については、この記事から分離して別投稿としました。
なお、御霊神社の社殿の浄財箱の脇に「御霊神社の由緒」の印刷物が置いてありましたので一部頂いてきました。
以下はその内容です。参考までに・・・

  御霊神社の由緒
御霊神社の創建は詳らかではありませんが、天正時代(1573年から1592年)に八王子城主北条氏照の家臣 近藤出羽
守助実が、この地に「御霊大明神」としてお祀りされたと伝えられています。
御祭神の鎌倉権五郎景政公は、醍醐天皇の御子孫にあたる貴族武士であります。
「後三年の役」(1086年)の際に、源義家に従って奥州に出陣し、その折に、この地に立ち寄ったとされています。その
際、流れ矢が右目に当たるも怯むことなく、敵を追い詰め、切り散らしたという武勇が伝えられています。
また、文武に秀でた剛勇比類なき武士であったところから、当神社は眼病平癒・必勝招来・除災招福のご神徳があるとされて
おります。
なお、鎌倉権五郎景政公や 近藤出羽守助実の館(やかた)があったところから、このあたりは「館町」(たてまち)と呼ば
れるようになったという言い伝えが残されています。 

散策日:平成30年(2018)6月14日(木)

金子十郎家忠館(埼玉県入間市)

2018年08月17日 | 100名城以外の城館跡


城 名:金子十郎家忠館(かねこじゅうろういえただやかた)
別 名:金子氏館
形 態:居館
時 期:鎌倉時代初期?
築城主:金子十郎家忠
城 主:金子氏
遺 構:―
指 定:市指定文化財(金子氏一族の宝篋印塔付位牌 昭和47年〔1972〕11月20日指定)
現 状:霊園
所在地:埼玉県入間市木蓮寺

金子十郎家忠は武蔵七党の村山党に属し、保元の乱より壇ノ浦に至る源平合戦に加わり数々の戦功をたてた。

更に家忠について、金子十郎家忠一族の墓所に掲げられている「金子十郎家忠の墓」説明板より転記引用 

家忠は保元の乱(1156年)や源頼朝の挙兵(1180年)などを中心に活躍した鎌倉初期の武将である。19才で保元の
乱に出陣して敵の大将鎮西八郎の部下で鬼神といはれた高間三郎、四郎を討ち、その名を天下にひびかせた。
治承4年(1180年)の源頼朝の挙兵のときは畠山重忠とともに衣笠城を包囲して三浦大介義明を討破った。この戦で家忠
は身体に21本の矢をうけたが、それにひるまず戦功を重ねた。また源義経に従って多くの戦巧をあげ、武蔵、伊豆、下総の
地頭を歴任した。家忠が30才になった仁安3年(1168年)に社殿を造営して武運長久を祈ったが、これが白髭神社の始
めだといわれている。
保延4年(1138年)に生れ建保4年(1214年)2月17日にこの世を去っている。
昭和43年3月
                                       入間市教育委員会
                                       木蓮寺長寿会

金子氏は、武蔵七党のひとつである村山党の庶流。武蔵国多摩郡村山を領した桓武平氏の流れをくむ村山(平)頼任が村山党
の祖となり、その孫である家範が武蔵国入間郡金子(現在の埼玉県入間市金子)に住み金子を名乗ったのが始まりで、家忠は
家範の二男です。




金子十郎家忠館があったとされる瑞泉院入口
一応、瑞泉院入口としましたが現在は写真のとおり「入間霊園」となっています。




参道前には「入間市指定文化財 金子十郎家忠一族宝篋印塔入口」と書かれた大きな看板が




参道入口




参道入口に立つ二基の石標のアップ
左:「関東武士 金子十郎家忠公之墓所」とあり 右側に「全国かねこ姓の発生地」とあります
発祥地ではなく発生地としているのが微妙です。※発祥地とは、初めて起こりあらわれた地
右:「曹洞宗 武州金子郷 金龍山木連寺瑞泉禅院」とあります




駐車場方向を示す標識にも「入間市指定文化財 金子十郎家忠一族宝篋印塔入口」とあります




駐車場から霊園登り口を  右側に「入間市指定文化財 金子十郎家忠宝篋印塔入口」の標識
右上に見えるのが千体地蔵塔の一部

この瑞泉院、名はあるものの本堂や庫裡といった寺院の建物が見当たりませんでした。ある建物といえば霊園関係のもの。
詳細は知りませんが、宗教法人であった瑞泉院は破産したため、公益財団法人が墓地を引き継ぎ管理しているようです。




階段脇に貼られている「入間市指定文化財 金子十郎家忠宝篋印塔入口」の標識




階段を上がったすぐの所にある千体地蔵塔




右手のほうに見える金色の大きな観音菩薩像
いわゆるお寺のお墓といった雰囲気は全くなく、完全に霊園に成り切っている感じです。




更に階段です




墓地に上がって行くと左方に石標が見えます




「金子十郎家忠一族墓」と刻まれています




裏面には「昭和廿五年五月 金子信雄」と刻まれています  後裔の方が建立したものでしょう
トラックが見える場所が駐車場  ここから見てもこの場所が高台にあることがよくわかります




石段の先に金子十郎家忠一族の墓所があります




金子氏一族の墓所に向かう途中の左手にある供養塔 誰の者かはわかりませんが、金子一族とは関係ないようです




石段の前に建つ大きな石灯籠
この2基の石灯篭は、徳川氏の菩提寺・増上寺にあったもので、各地の大名が寄進したものですが、西武鉄道が増上寺の土地
の一部を買収した際、徳川将軍家の霊廟の建物の一部とともに数百基に及ぶ石灯篭を所沢市内に移設。その後、寺院を中心に
各所に寄進されましたが、そのうちの2基です。左側の石灯篭の前に灯籠を西武鉄道から、礎石を堤氏から贈られた旨の小さ
な石標が建っています。

本題とはかけ離れた話ですし、金子氏館・墓所に直接関わることではないの
で細かなことは省きます。




石段を上がった正面には歴代住職の墓の無縫塔が並んでいます




金子十郎家忠一族位牌堂




金子十郎家忠一族墓所は覆屋で保護されています




覆屋横に掲げられている「金子十郎家忠の墓」説明板  残念なことにコンクリートブロックで一部が隠れてしまっています
この説明板の文面を冒頭に転記引用しました




金子氏一族の墓所を横から




「金子氏一族の宝篋印塔付位牌」説明板
入間市の指定史跡になっているのはこの金子氏一族の宝篋印塔付位牌であり、金子十郎家忠館が指定されているわけではあり
ませんが、館跡の説明が皆無です(説明しようにもそれに関する史料や遺構がなくては無理ですが)




正面から




金子氏一族の宝篋印塔(墓)どれが誰のかはわかりません




墓所の背後から霊園を見下ろしています




霊園内の高所から

館跡の遺構は全くないようですが、館を構えるに適した場所であったことは確かなようです。




金子十郎家忠館跡のすぐ東側にある桂川神社




桂川神社由緒
赤城神社の項では 健保年中金子十郎家忠を祀る云えり(1213)
雷電神社の項では 金子十郎家忠軍中守護の為歓請すと申し伝えり
 



社殿

散策日:平成30年(2018)6月14日(木)

宮寺氏館(埼玉県入間市)

2018年08月14日 | 100名城以外の城館跡


城 名:宮寺氏館(みやでらしやかた)
別 名:―
形 態:居館
時 期:平安時代末
築城主:宮寺五郎家平
城 主:宮寺氏・加納下野守・狩尾氏・伊濃氏
遺 構:土塁・水堀
指 定:市指定旧跡(昭和59年〔1984〕7月25日指定)
現 状:西勝院
所在地:埼玉県入間市宮寺489番地

武蔵七党のひとつ村山党の祖・村山(平)頼任の孫で、宮寺五郎を称した家平が築いたとされる宮寺館跡である西勝院を訪ね
てみました。
鎌倉幕府滅亡時(1333年)には加納下野守がここに住んでたと伝承され、江戸時代は伊能尾(狩尾)氏が住んだと伝えら
れるようです。   




南側に位置する表入口




山門の前に建つ「市指定文化財 宮寺氏館跡」の標柱
なお、この門は「黒門」と呼ばれ江戸時代の造営のようです。




西勝院本堂




破風の鬼飾りには「菊水紋」  菊水紋は元々は楠正成が使った紋のようです。
ここに菊水紋が使われているのは、この寺院が徳川幕府の庇護を受けたということのようです(正確な知識はありませんが)




山号「宮寺山」の扁額




閻魔堂をコの字に囲むの南側・東側の土塁・・・ここに写っているのは南側部分




宮寺氏館跡の説明板




土塁 南側部分




木と木の間辺りで向きを変えて北方に延びる土塁東側部分




東側部分土塁上から南側部分土塁方向に
説明板にあった空堀については土塁外側にあるものと思料するも痕跡を確認できず




土塁下から土塁を撮るもガレージが邪魔をして何が何だか分らないような写真に・・・




山門野手前左手に遺る土塁  既にお寺の土地でなくなっているのでしょうかフェンスで遮られています




説明板で館の水堀であったと推測されるとある寺の西側を流れる水路




水路南側




水路北側  先の方まで歩いてみましたが、塀が途切れたところで曲がることなくそのまま北方に延びていました。
素人の私から見ると「水堀」には?ですが、あくまで推測ですから。

散策日:平成30年(2018)6月12日(火)

初沢城(東京都八王子市)

2018年08月11日 | 100名城以外の城館跡


城 名:初沢城(はつざわじょう)
別 名:椚田城・高乗寺城
形 態:山城
時 期:15世紀末
築城主:不明
城 主:不明なるも門田氏あるいは長井氏の可能性を指摘
遺 構:土塁・堀切
指 定:都指定旧跡(昭和30年〔1955〕3月28日指定)
現 状:山林
所在地:東京都八王子市初沢町

初沢城は、築城年代・築城者等不明であり、鎌倉時代にこの地を支配していた椚田氏が築いたとも、片倉城主の長井
氏が築いたとも言われるようですが定かではありません。




北側にある高尾天神社あたりから南側の初沢給水所あたりに至る間の山陵に曲輪跡・平場跡が連なっており、現在は、それに
沿うようにハイキングコースが設けられています。いわゆる登城口は北側の高尾天神社の裏側にあるようですが、今回の攻城
は南側の紅葉台団地側からとなりました。




ここ水道施設への入り口から攻城開始




右にも道がありますが、このまま舗装された道を進みます。




坂の途中から見る紅葉台団地




給水所のフェンスが見えてきました




給水所のタンクを回り込むようにして登ります




初沢山山頂→ の標識  




そのまま進みます




堀切 この上に曲輪があります ここを上り下りした跡が顕著ですが、ここはスルーして更に進みます。




突き当りは広くなっています ハイカー用にベンチがあります  腰曲輪でしょう  右の階段が小口のようです




初沢山山頂です 攻城者としてみれば初沢城の本曲輪ということになります




初沢城跡の標柱と何やら書かれた看板
何れも民間の団体の方が設置したもので、自治体の設置ではありませんし案内板もありません。




南側から本曲輪を見ています




下に見える道が登ってきた道




曲輪2(仮称)・曲輪3(仮称)方向を見ています 登ってきた道方向を逆に見ている形になります ※以下(仮称)は省略
中央に見えるのが堀切と土橋




曲輪3




曲輪3から引き返し本曲輪方向に戻りますが、本曲輪の手前を右側(東側)に逸れて曲輪下を進みます




暫くこんな道が続きます




平場になりましたが曲輪というほどではないようです




平場先端は急な坂です  何か所かこうした急坂がありました




二股です 下の道がハイキングコース 上への道を行くと曲輪4ですが先に進めませんので引き返し下の道を進みます




下の道は曲輪4のある山稜をぐるっと回るようにして東側に出ました




左に折れた先が曲輪5・曲輪6のようです




曲輪5の途中左側に下への道がありますが、そのまま右側の曲輪6方向へ




曲輪6




曲輪6の先端を左に折れます




曲輪6から降りて来た道・階段を振り返って見ています




曲輪6から下りてきた場所はかなり広く、曲輪跡かと思われます?
菅原道真公の大きな像が建っています




菅原道真公の像を正面から
この菅原道真公の像の正面に下から登ってくる階段があるのですが、運動部の大学生(高校生?)数十名が階段を駆け上って
は下りるを繰り返していましたので、階段を使うことができませんでした。




菅原道真公銅像の説明板  身長4m85cm さすがに大きいい 大きすぎて不気味でもありますが




横から   周囲の木々が入ると如何に大きい・高いかが分ります
 



☜高尾天神社  初沢城本丸跡登り口の看板




高尾天神社 鳥居




高尾天神社   丸印の所に「初沢城入口」の標識があります  
先ほどの曲輪5から右に降りる道はここに繋がっていたのでしょう




高尾天神社 社殿




この階段は、高尾天神社への参道の階段




初沢町の住宅街   山頂(本曲輪)から眼下の街並みを撮っていなかったのを今更気付きました




アジサイの季節です  道真公の銅像の近くに咲いていたのを撮ってきました

【追記】
あとでわかったことですが、階段の登り口に都教育委員会が設置した初沢城跡の説明板があるようでした。事前にこのことを
知っていれば、他の階段等を利用して説明板の所まで行ったものをと後悔しきり。

その時は分らなかったとしても、説明板があることが分った以上は無視するわけにはいきません。石碑や標柱、そして、説明
板の類はお城愛好者全員とは言いませんが、少なくとも私にとっては攻城という結果と同様に大切なものです。私の住まいか
ら見れば八王子市は決して近いとは言えませんが、行けないところではありませんから機会を見て説明板の写真を撮ってこよ
うと決めていました。そして撮ってきたのが下の写真です。攻城した時は紅葉台団地側からでしたが、今回は説明板の写真を
撮るだけですから反対側の浅川中学校方面から。



高尾天神社への上り口です。案内板には初沢城入口の表示がありますので、ここに説明板が設置されていると思い最初にこの
場所に来たのですがそれらしきものは見当たりません。
階段を上った途中にあるのかと・・・




長い階段ですが、説明板を見つけるためには上がっていくしかありません。




上まで登り切りましたが説明板は見当たりませんでした。前回撮った写真とほぼ同じアングルの写真になってしまいましたが、
長い階段であったことがお分かりになるかと思います。




前回、学生たちが上り下りしていた道真公の蔵の正面にある階段まで行って下りてみましたら、ここにも高尾天神社の石標が
あり、その前に説明板が立っていました。




東京都教育委員会 昭和58年3月建設の「東京都指定旧跡 初沢城跡」説明板




更に少し離れたところに英文が併記された新しい説明板も立っていました。




東京都教育委員会 平成24年3月建設の「東京都指定旧跡 初沢城跡」説明板
内容は書かれている順番が違うくらいで古い説明板とほとんど変りません。相違点は、比高差が100メートルから110メ
ートルと増えているくらいですが、全くと言ってよいほど影響のない差異です。
ひとつだけでも十分だったのにふたつも説明板を確認して、もやもやしていたものが一気に解消しました。何でそこまで説明
板等に拘るのかと笑われそうですが、多分、理解してくれる方も何名かはいると信じています。

攻城日:平成30年(2018)5月28日(月)・6月23日(土)

横地監物館(東京都八王子市)

2018年08月08日 | 100名城以外の城館跡


城 名:横地監物館(よこちけんもつやかた)
別 名:横地監物屋敷
形 態:居館
時 期:不明
築城主:横地監物
城 主:横地氏
遺 構:土塁?
指 定:ー
現 状:宗関寺
所在地:東京都八王子寺元八王子町3丁目

八王子城主北条氏照の重臣・横地監物吉信は、天正18年(1590)6月23日の豊臣秀吉による小田原征伐で八王子城は前田
利家・上杉景勝・真田昌幸らに攻められた。小田原城に詰めていた氏照に代わって八王子城の城代として本丸に詰め指揮を執
ったが城は一日で落城し、横地監物は再起を図ろうと城を抜け檜原城へ逃れたが、ここも落城し、後に奥多摩の小河内山中で
自刃したと伝わる。

その横地監物吉信の屋敷だったとされる場所が、現在の宗関寺(八王子市元八王子3丁目)のあるところと言われます。

宗関寺は延喜年間の草創で天慶2年(939)朱雀天皇から領地を賜り勅願所として牛頭山神護寺とした。北條氏照が八王子城を
築く際に堂宇を永禄7年(1564)に建立、2年後の永禄9年(1566)牛頭山宗関寺として再興される。天正18年(1590)の
八王子城落城と共に焼失するが、2年後には山号をあらため朝遊山宗関寺として再建された。
氏照によって再建された時の寺地は現在の所在地より少し城山側、氏照の墓所がある付近に建てられており、この場所には当
時、氏照の重臣・横地監物の屋敷があった。
明治25年(1892)宗関寺は現在の場所である横地監物屋敷跡に移築された。

横地監物屋敷の遺構と呼べるものはないが、寺の門の両側と道向かいにある横地堤と称される土塁ようの土盛りが屋敷跡の名
残のようです




八王子所跡の手前約800mの所にある宗関寺




横地堤と称される土塁ようの土盛り




宗関寺表入り口




説明板が立っていますが全く読めない状態です。宗関寺の銅造梵鐘が市指定有形文化財となっていることからこの説明板かと




本堂




扁額「宗関寺」と揮毫




大棟の棟紋は北条氏の三つ鱗紋




鐘楼
梵鐘は、氏照の重臣だった中山勘解由家範の孫で水戸藩家老・中山信治が、氏照の百回忌法要を挙行した際に寄進したもの。




鐘楼の宝形造りの露盤にも三つ鱗紋が入っています




車道で分断されていますがこれも横地堤の名残りのようです




道路から見た宗関寺の観音堂  春先に訪れていれば見事な枝垂れ桜を観ることができたでしょう

散策日:平成30年(2018)6月23日(土)

北条氏照および家臣墓(東京都八王子市)

2018年08月05日 | 史跡・遺跡・文化財


八王子城跡の近くにある八王子城主北条氏照とその家臣の墓をお参りしてきました。墓と称されてはいますが供養塔です。
詳しくは現地の説明板にお任せすることにします。

宗関寺前に設置されている「八王子城跡案内図」にもその位置が示されています。赤丸で加筆したところが墓です。




八王子城跡に向かう途中の左手に「北条氏照および家臣墓」の標識があります。




標識の反対側に石畳の狭い道があり。路面に「北条氏照墓」の表示がされています。




伸びた草に隠れてしまっていますが標識もあります。その下には錆びて判読できない看板があります。かつて、私設の八王子
城址歴史資料館があったようですがその看板です。




数分歩いたところで橋がありますので渡ります。




橋を渡って数十mの所に階段が見えます。登り口に「北条氏照墓」の表示と標識が立っています。いくら方向音痴の私でも迷
いようがありません。



思ってた以上に長い階段のようです。それにしても階段が綺麗です。
半分程登った辺りでしょうか、竹ぼうきで階段を掃いている男の方に遭いました。時間帯は午前8時台です。毎日なのか日を
置いてなのかはわかりませんが、こうして朝早く清掃に来て綺麗にしてくれていたとは知りませんでした。遅い時間帯に訪れ
ていたらこうした事実を知らずに終えていたでしょう。
「(墓まで)あとどのくらいですか?」とお聞きしたら「あと100段」と教えてくれました。




階段の上の方から下を見ています。数えたわけではありませんから何段あったかわ分りませんが、男の人が教えてくれた「あ
と100段」というのはほぼ間違いないかったようです。




墓域に着きました。だいぶ高所にあるようです。




氏照の墓(供養塔)の両脇には家臣の墓  更に背後の少し低くなった斜面にも沢山の墓や石仏が見えます。




正面から




「東京都指定旧跡 北条氏照及び家臣墓」説明板

北条氏照の重臣で八王子城松木曲輪を守備して討死した中山勘解由家範の孫中山信治が氏照の死後100年忌の追善供養のた
めに建てたものとあります。




ちょっとアップで



                         ※閑・・・誤  關(関)・・・正
それぞれに名を入れてみました。
中山勘解由家範と中山信治の墓(供養塔)は自然石のままです。
因みに、
北条氏照の墓は、小田原市の小田原駅北口の徒歩数分の所に兄で北条氏4代当主北条氏照と並んである小さな五輪塔です。
中山勘解由家範の墓は、埼玉県飯能市にある能仁寺にあり、自然石の大きな墓です。
中山信治の墓は、やはり飯能市にある智観寺にあり、大きな宝篋印塔の墓です。




沢山の墓石や石仏  これらも北条氏照の家臣や関係者のものなのでしょう




小田原駅近くにある北条氏政・氏照の墓所




右の大きな五輪塔  伝 北条氏政夫人の墓
中央小さな五輪塔  伝 北条氏政の墓
左の小さな五輪塔  伝 北条氏照の墓

八王子城跡3回目の訪問にて初めて北条氏照の墓をお参りしました。
初めて八王子城跡を訪れたときは、墓の存在を把握していませんでした。
2度目は夕方の遅い時間でしたので時間の都合がつかずに諦めました。
そして今回は、八王子城あとガイダンス施設で開催されたシンポジウム聴講のため早めに訪れてお参りの時間を作りました。

訪問日:平成30年(2018)6月23日(土)

浄福寺城(東京都八王子市)

2018年08月02日 | 100名城以外の城館跡


城 名:浄福寺城(じょうふくじじょう)
別 名:新城、案下城、松竹城、千手山城・(由井城)
形 態:山城
時 期:至徳元年(1384)か
築城主:大石信重
城 主:大石氏・北条氏
廃 城:天正18年(1590)
遺 構:土塁・堀・堀切・竪堀
指 定:市指定史跡(昭和47年〔1972〕1月27日指定)
現 状:山林
所在地:東京都八王子市下恩方町

浄福寺城という城名は山麓に建つ浄福寺から名を取って便宜上そう呼ばれているに過ぎないようです。そもそも浄福寺自体が
元は城福寺と称していたものを江戸後期に浄福寺にしたもののようです。別称もいくつかあるようですが、これらも地名等か
ら呼ばれるもので、当時どのような呼ばれ方をしていたかは不明です。この浄福寺城に限らず他の城館についても大方が同様
でしょう。

都道521号線陣馬街道沿いに「真言宗智派 千手山浄福寺」と刻まれた大きな寺号標が建っています。同所が浄福寺で背後の
山が浄福寺城跡です。車の場合は、参拝者用の駐車場が整備されていますのでお借りして止めさせていただけばよいでしょう。
お参りも忘れずに。




石垣際に建っている説明版  右側の石段を上がって行くと浄福寺境内




「浄福寺城跡(新城)」説明版
不明な点が多い城のようです




こちらは縄張り図入りの「浄福寺城跡」説明板

この八王子市教育委員会の説明板の説明では、
”築城については不明な点が多く、『武蔵名勝図会』によると関東管領上杉氏の武蔵守護代であった大石氏といわれています。”
と大石誰かは触れていませんが、浄福寺のHPでは
”『武蔵名勝図会』によれば、浄福寺城は16世紀ごろにこの地を治めていた大石憲重が築いたとされます。大石氏、は関東管
領であった上杉氏の武蔵守護代でした。”
と、大石憲重が築いたとされるとしています。あくまで「される」ですが。
更に、
”近年の研究では、大石氏に養子に入った北条氏照の初期の城とも、・・・”
とは「由井城」を指しているようです。
いずれにしろ築城者・城歴等不明な点が多いというのも頷けます。




縄張り図をアップにしてみました。
いくつもの尾根が延びていますが、これらの場所すべてに曲輪や土塁等が設けられていたようです。
この城跡のある山の名と浄福寺の山号は「千手山」ですが、このようにいくつもの指(手)が伸びていることから千手山と名
付けられたのでしょうか、それとも、浄福寺の千手観音に由来するのでしょうか?




「東京都指定有形文化財 浄福寺観音堂内厨子」説明板




浄福寺境内を囲む石垣 近世のものでしょうが雰囲気があります




本堂




山号寺号「千手山 浄福寺」と揮毫された扁額




鐘楼




お約束の六地蔵尊




竹林のアジサイが綺麗だったものですから




同上




登城口の目標となる白山大権現を墓地の中に見つけました




白山大権現前から九十九折りの山道をトレッキングポール を突きながら登ります
山道脇に西国三十三霊場を表す石仏が並んでいます




この写真よりもう少し先までいったものの引き返してきました。せめて観音堂までは行きたかったのですが、時間も時間でし
たし、時季も変なものが出没してくる時季に入っていましたし、無理は禁物と勇気をもって引き返したと言うと格好はいいの
ですが・・・

今夏はもう無理でしょうから改めて機会を作ってもう少し上まで再挑戦をと考えてはいます。

散策日:平成30年(2018)6月14日(木)