四季・めぐりめぐりて

近隣の城館跡・古墳などの史跡めぐりなどをぼちぼちながらやっています

8月最後の日に見た曼珠沙華

2022年08月31日 | 花・鳥・風景


散歩コースにしている川沿いの遊歩道 何日か振りに歩いてみました。
今年初めて見る曼珠沙華です。
2019年(令和元年)10月12日の台風19号でこの土手も痛み付けられました。ここ一帯の河川敷や
法面の改修工事が数度に亘って行われていますので、群生地であったここの曼珠沙華はもう見られ
ないかと思っていました。
それでも以前ほどではありませんが今年も咲いてくれました。










白い曼珠沙華が以前より多くなったよう感じます




この百日草の咲く場所も台風の影響で土手が崩れて川の水が路上一帯にあふれた場所です
花に止まった揚羽はそんなことは知らないでしょうが・・・




散策日:令和4年(2022)8月31日(水)

伝 比企能員の娘婿中山五郎為重供養塔 ー正福寺ー

2022年08月30日 | 史跡・遺跡・文化財


秩父武綱の次男で川崎氏の祖・基家の流れを汲む中山五郎為重(なかやまごろうためしげ)の供養塔と伝わ
る五輪塔が、比企郡川島町南園部に所在の「正福寺」にあるとのことから訪ねてみました。




【正福寺本堂】
正福寺は、真言宗智山派寺院で勅王山園徳院と号します。正福寺の創建年代等は不詳ながら、法印
俊哲(寛永12年寂)が開山、松平摂津守(享保4年没)が中興したと言われます。




右から2番目の五輪塔が【伝 中山五郎為重供養塔】
2基の五輪塔の石材は、上野国天神山(現在の群馬県みどり市)産の凝灰石




【中山五郎為重供養塔 正福寺 五輪塔】説明板
比企能員の娘婿となった中山五郎為重は、建仁3年(1203)9月2日の「比企氏の変」で能員・時員
親子とともに討たれています。
NHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」にはまったく登場しませんでしたが!!

ここ正福寺は川島町大字南園部(元・南園部村)に所在するも、同寺前(南側)の道路を挟んだ地
域が川島町大字中山(元・中山村)となり、中山一族の苗字の地のようです。この中山地内に比企
氏15代以降の墓所がある金剛寺があります。




秩父氏一族の系図 (埼玉県立嵐山史跡の博物館発行 ガイドブック3「秩父市の歴史」から引用)
秩父十郎武綱の次男基家(もといえ)が武蔵国橘樹郡(現在の神奈川県川崎市)に居住し川崎氏を称
した。その孫の重真(しげさね=重実)が中山氏を称するようになった。
この系図に為重の名は出ていませんがこの①,②、③・・・の流れかと思います。




境内にある堂宇 【稲荷神社】と【天神社】が祀られています

散策日:令和4年(2022)8月25日(木)

『比企三姫』は比企郡小川町の生まれ

2022年08月28日 | エトセトラ


NHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」登場していた比企氏は、8月14日第31回放送の中で滅ぼされて
しまいましたが、『比企三姫』と呼ばれる姫たちがおりました。

 若狭の局  比企能員の娘・源頼家の側室・・・ドラマでは役名「せつ」 演・山谷花純さん
 姫の前   比企の尼の孫・北条義時の妻・・・ドラマでは役名「比奈」 演・堀田真由さん
 丹後の局  比企の尼の娘・安達盛長の妻・・・ドラマに登場せず 
                       鈴木京香さんが演じた丹後の局とは別人

実は、この比企三姫の生まれは武蔵国(埼玉県)比企郡小川町なのです。




煉瓦造りの大きな煙突があるこの場所です




表です。「関東灘」の異名を持つ比企郡小川町にある蔵元のひとつで、文政2年(1819)創業の
武藏鶴酒造株式会社(小川町大塚243)さんです




実際の比企三姫がどこで生まれたかは知る術もありませんが、比企三姫は三姫でも
    『純米吟醸酒 比企三姫
なるお酒がここ小川町の武藏鶴酒造株式会社で作られて(生まれて)いたのです。
ただ、ここ製造元の売店では扱っていると思いますが、私が調べた範囲では武藏鶴酒造さんのHP
の商品紹介の中にこの『純米吟醸酒 比企三姫』は載っておりませんし、スーパー等のお酒売り場
にも陳列されてはいません(他の商品は何点も陳列)
なお、比企氏とゆかりのある東松山市のふるさと納税の返礼品の中にこの『純米吟醸酒 比企三姫』
(720ml、1.8l、300ml6本詰め合わせの3種類 ※現在品切れ中の表示)があり、
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昔から「関東灘」と言われる埼玉県小川町の酒蔵「武蔵鶴酒造」で醸された東松山市産コシヒカリを100%使用した香り豊かな日本酒
を「比企三姫ラベル」でお届けします。 以下省略

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と商品紹介されています。
酒造元や東松山市役所に確認したわけではありませんから不確かですが推測するに、ふるさと納税返
礼品の一つに東松山市産コシヒカリを使ったお酒の製造を武蔵鶴酒造に依頼した。元々返礼品用に造
った『純米吟醸酒 比企三姫』であることから特定の店にしか置かれていないのかもしれません。
面白くと思い、詐欺みたいなタイトルになってしまいました(ゴメン)

更に、小川町の別の蔵元でも「比企三姫」を出しておりますが、これについては今回は触れないでお
きます。

伝 曽我十郎祐成供養塔 ー龍福寺ー

2022年08月27日 | 史跡・遺跡・文化財


NHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」で、日本三大仇討ちの一つとされる建久4年(1193)5月に起き
た『曽我兄弟の仇討ち』も盛り込まれました。
その曽我兄弟(曽我十郎祐成・曽我五郎時致)の兄曽我十郎祐成供養塔と伝わる板碑(板石塔婆)
がある比企郡ときがわ町玉川の龍福寺を訪ねてみました。

曽我十郎祐成供養塔について『新編武蔵風土記稿』玉川郷 龍福寺 の項に次のような記載があり
ます。
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彌陀堂。本尊は行基菩薩の作、長三尺六寸許、此堂の背後に古碑一基あり、庚申四月十六日とのみ見えて、其餘
の文字漫滅して讀べからず、是は相模國大磯の遊女虎が、曾我十郎祐成の爲に建し碑なりと云、されど其頃の物
とも見えず、恐らくは附會の説なるべし、

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附會の説・・・こじつけで曽我十郎祐成の為としたということでしょう。




【龍福寺】
龍福寺については境内に建立されている『竜福寺梵鐘鋳造記念碑』の冒頭に、
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竜福寺は、曹洞宗 山号を玉壺山という
昔藤原盛吉という者、当所の勝地なるを見て、熊野権現・弁財天等の四社をここに勧請し、一寺を建立し竜腹寺
と名づけたという。その年暦等は明らかでないが、一説に天平年間ともいわれている。当時は上古大いに栄え、
多くの僧が群衆し読誦昼夜絶えなかったという。 以下略

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と記されています。




正面から




山号の『玉壺山』と揮毫された扁額




本堂前から阿弥陀堂方向を




本堂と小堂宇




鐘楼




【県指定有形文化財 木造阿弥陀如来坐像】説明板




木造阿弥陀如来坐像はこの阿弥陀堂に




阿弥陀堂裏山(墓地)最上段にある曽我十郎祐成供養塔と伝わる板碑(板石塔婆)




板碑の背後の樹木が【リンボク】(町指定天然記念物)
手前(左側)の板碑が【伝 曽我十郎祐成供養塔】


        

        【伝 曽我十郎祐成供養塔】




【伝 曽我十郎祐成供養塔】説明板
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町指定文化財  
 伝 曽我十郎祐成供養塔
    平成12年2月8日指定(玉川村)
     平成18年2月1日指定(ときがわ町)
本堂裏手の墓地最上段に所在する高さ1.8mほどの緑泥石片岩製の武蔵型板碑です。二基とも年号が故意に削り取
られていますが、近年の研究により向かって左の阿弥陀三尊を刻むものは南北朝時代の康永三年(1344)の年号
であることが判明しました。
江戸時代の地誌『新編武蔵風土記稿』には曽我十郎祐成の供養塔として記載があり、民間伝承を伝える板碑とし
て貴重です。埼玉県内には東松山市と蓮田市に『虎御石』と呼ばれる大形板碑があり、『曽我物語』の流布や民
間伝承を伺わせる資料と言われており当資料もそのひとつといえましょう。
  平成21年3月 ときがわ町教育委員会

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           ※平成18年(2006)2月1日 比企郡玉川村・都幾川村合併により『ときがわ町』となる

二基の板碑のうち、年号の判明した方の板碑を【伝 曽我十郎祐成供養塔】として町指定文化財と
したようです。年号の判明しない一方の板碑は伝・弟曽我五郎時政の供養塔と考えるのも面白いか
もしれません。何せ、二基の板碑が兄弟のように並んでいるのですから。
曽我十郎祐成供養塔が附會の説(こじつけ)としても、こじつけする曽我兄弟と玉川郷との関係も
見出せません。

散策日:令和4年(2022)8月25日(木)

比企歴史の丘巡回文化財展 「武蔵武士と比企」

2022年08月24日 | 企画展・見学会


比企歴史の丘巡回文化財展  比企のタイムカプセル21
「武蔵武士と比企」

全体期間:令和4年8月23日(火)~12月11日(日)
主  催:比企地区市町村教育委員会連合会
     比企地区文化財振興協議会
     埼玉県立嵐山史跡の博物館
が始まりました。
上記期間を比企郡市9市町村(東松山市・小川町・嵐山町・川島町・吉見町・鳩山町・滑川町・ときがわ町・
東秩父村)
及び嵐山史跡の博物館の10会場を巡回展示します。
今回は、NHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」の放映にあわせて比企地区に関連する武蔵武士を中心に
鎌倉時代に活躍した人物や、ゆかりの地、文化財の紹介・展示です。

早速、今年最初の会場である嵐山町ふれあい交流センターに行ってきました。




展示会場には受付の女性のみで見学者は私のみ
写真撮影はOKでしたのでそれなりに撮ってきましたが、巡回展示が始まったばかりなので、ここに
こと細かくアップ(ネタバレ)してしまうとこれから見学を予定している方たちの楽しみを奪って
しまいそうですので何枚かにしておきます(本当は失敗写真が多いため)




沢山のパネルで色々説明がされておりますが、それらの中から「武蔵武士」を転記しておきます。

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                  武 蔵 武 士
 平安時代中期以降、律令体制の崩壊が進み、治安の悪化や相次ぐ争乱など社会は大きな混乱の時代を迎えます。
そうした中で、承平(931~938)・天慶(938~947)年間の内乱(平 将門の乱など)の鎮圧で活躍した藤原秀郷、
平 貞盛、源 経基など貴族の中で「兵」と呼ばれた者の子孫たちが荘園領主や国衙の官人と結びつき、所領経営者
として発展したことが武士の起源とされます(地方豪族などが自衛のため武装したのが起源とする説もあります)。
軍事を専業とした貴族も存在し、藤原氏・平氏・源氏などの中には、武蔵国に拠点を築いたものもいました。武蔵
国では、300にも及ぶ氏族が武士となり、一部は地域的・血縁的なまとまりをもつ、党と呼ばれる集団を形成しま
した。永承6年から康平5年(1051~1063)に起こった前九年・後三年合戦では源 頼義・義家に率いられた武蔵
武士たちの多くは長い戦いの中で結びつきを強め、源氏の当主を棟梁と仰ぎ、主従関係を結ぶようになりました。
治承・寿永の乱(1180~1185)でも多くは源氏側につき、源 頼朝を支えて、鎌倉幕府創設に大きく貢献しました。
その後武蔵武士は本拠地以外の地頭職(荘園・国衙領を管理支配する役職)を与えられ、その一部は移住し、各地
の歴史にも影響を与えました。

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比企地区にゆかりのある源頼朝、源範頼、源義平、源義賢、木曽(源)義仲、畠山重忠、比企氏、
秩父氏などの解説やゆかりの地の写真などがパネルとなって展示




ゆかりの寺や場所などの写真をとともに解説されています




同上




源氏・比企氏・畠山氏などに比べると若干マイナーな」(失礼)武士たち・・・
氏武蔵七党の大河原氏、小代氏、大串氏、竹沢氏などなど




【渥美産大甕】  平安時代 12世紀末  金剛院宝篋印塔下出土(吉見町)




【常滑甕】 【常滑壺】 【折縁深皿】  御所遺跡(吉見町)




【白磁四耳壺】(複製品)  12世紀末~13世紀  金剛院宝篋印塔下出土(吉見町)




左:写 赤糸威鎧   平安末期  寺田図書助作
右:写 紺糸威大鎧  平安末期  寺田図書助作
※ 寺田図書助勝廣氏 川越藩火縄銃鉄砲隊保存会会長




「武蔵武士と比企」パンフレット
巡回展示予定表  但し 吉見町埋蔵文化財センター 入館料300円
            埼玉県立嵐山史跡の博物館 入館料100円  要です

見学日:令和4年(2022)8月24日(水)

「畠山重忠」のお酒

2022年08月22日 | エトセトラ


本日、深谷市内の某道の駅に所用で出かけたところお酒のコーナーに、
  「特別純米 畠山重忠」
が置かれていましたのでお酒は飲まないにも関わらず購入してきました。
以前から埼玉に関係する武将の名を冠したお酒を探していましたが、「直実」(熊谷直実)、「駒王丸」
(木曽義仲の幼名)、「氏邦」(北条氏邦)の3銘柄は探し当てました。
しかし「畠山重忠」の名のものは県内にはなく、畠山重忠が討取られた二俣川のある横浜市旭区の某店か
ら「旭の重忠」というのが販売されていることが分りました(但し製造は秩父市の酒造に依頼)
今回購入してきたこの「特別純米 畠山重忠」は、深谷市内の藤橋藤三郎商店という酒造で製造の地酒で
す。
購入後、たまたま藤橋藤三郎商店の方とお会いしましたのでお伺いしたところ、畠山重忠と言っても知名
度が低かったので今まで出すことはなかったようですが、大河ドラマ「鎌倉殿の13人」で注目を浴びるよ
うになったことから、今夏あたりから「特別純米 畠山重忠」を販売するようになったというようなお話
でした。


「鎌倉殿の13人」にいつ登場するのかと期待され(特に熊谷市の方に)ながらも登場していない(但し、御家人同士の会
話の中で熊谷次郎の名だけは出たものの、これからも登場しないであろう?)謡曲「敦盛」などで有名な熊谷直実の方が
知名度がありましたが、重忠が逆転するかも知れません・・・(あくまでも私見です)
そんな重忠も「鎌倉殿の13人」からの退場が近づいていますね。





畠山重忠の文字の右側の武者が畠山重忠
左側の女武者は、重忠と一騎打ちを行った巴御前
※ラベルの絵は、浮世絵「粟津原合戦 畠山重忠・勇婦巴女」からのようです

なお、帰宅後確認したところ、藤橋藤三郎商店ではやはり今夏から深谷市「畠山重忠公キャラクター」の「重忠様」を
ラベルにした純米吟醸無濾過原酒「重忠様」も販売されているようですが、こちらはお高いので手を出しません(笑)


購入日:令和4年(2022)8月22日(月)

歴史セミナー 〇〇からみた畠山重忠

2022年08月20日 | 講演会・講座


畠山重忠公プロジェクト 歴史セミナー
 〇〇からみた畠山重忠
日 時:2022年8月20日(土) 13:00~16:30
会 場:深谷市民文化会館大ホール
主 催:深谷市教育委員会
協 力:畠山重忠公顕彰会・埼玉考古学会

内 容:開催の趣旨・畠山重忠の素描  知 久 裕 昭 氏(深谷市教育委員会)
    北条氏からみた畠山重忠    池 谷 初 惠 氏(伊豆の国市教育委員会)
    武蔵武士からみた畠山重忠   大 井 教 寛 氏(熊谷市立熊谷図書館)
    鎌倉殿と畠山重忠       落 合 義 明 氏(大東文化大学 教授)

を聴講してきました。

オープニングでは『重忠節踊り同好会』の方たちによる「重忠節踊り」が披露されました。
「重忠節」は、故・畑和氏(当時埼玉県知事)作詞で、故・三橋美智也氏の歌唱によるものです。
「重忠太鼓」の演奏は何度か聞いておりましたが、「重忠節踊り」は初めてでした。
この後、小島深谷市長の楽しい挨拶があり、講演となりました。
講演は、講師の方々それぞれの視点から畠山重忠あるいは北条氏についてのお話をして頂きました。
 
※講演の撮影・録画・録音等は禁止されていましたので写真はありません。




この日の深谷市民文化会館での催しはこの歴史セミナーだけでした




セミナー資料(予稿集)と頂いたパンフレットの一部(伊豆の国市関係のみを)




開場前の時間を利用して深谷城址公園の百日紅を・・・




同上  

聴講日:令和4年(2022)8月20日(土)

上敷免地内に残る鎌倉街道

2022年08月17日 | 鎌倉街道


深谷市上敷免(じょうしきめん)地内に、鎌倉街道上道の支道とされる伝承路線が残されており、最近、
案内板が設置されたとのことから歩いてきました。
正直、この鎌倉街道上道の支道とされる伝承路線があると言う情報は皆無に等しかったし、仮にこ
の付近を通ってもただの農道としか思わなかったでしょう。
現地の案内板【上敷免地内の鎌倉街道】から察するに、案内板が設置されたのは本年5月で、これ
に合わせて【鎌倉街道】の標柱も設けられたようです。
この7月に深谷市長も来賓として出席して行われた案内板除幕式について、極々一部のローカル新
聞社が記事にしてくれたことで、上敷免の鎌倉街道を知った次第です。
案内板の末尾にも述べられているようNHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」の放映が、大きく影響し
たのかも知れません。




泉光寺の南側①印から②印あたりまでに鎌倉街道上道支道の伝承路線が残っています




鎌倉街道伝承路線と交差する遊歩道(あかね通り)沿いに設置された案内板  下に内容を転記
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 上敷免地内の鎌倉街道
鎌倉街道とは、鎌倉時代、坂東及び諸国の御家人達が鎌倉へと馳せ参じた道とされ、人や物資が行き交っていた
と思われる。具体的な記録にはないが、歴史地理的な研究などにより、概要が明らかになっている。埼玉県内を
通る主要道には、県西部を縦断して上州へ至る上道
(かみつみち)県東部を通り常陸へ向かう中道(なかつみち)があ
った。深谷市内では、平安時代末から鎌倉時代初めに活躍した有力武士の畠山重忠の本拠地である深谷市畠山
の西端を上道が通り、付近で荒川北岸に渡り、荒川沿いを寄居町との境まで向かい、方角を変えて北へ向かうと
考えられている。
その支道にあたる伝承路線で、深谷市田中から折之口の東を通過して北上するものがある。上敷免地内にはその
伝承路線が通り、ほぼ伝承の道筋を残しているとともに、旧幡羅郡と旧榛沢郡の郡境とほぼ重なっており、古
道としての性格をよく示している。その路線は、瑠璃光寺の東側を通って北上し、福川を渡り、入枝の集落のほ
ぼ中央を通過している。入枝の集落から北は水田の中を走る幅二メートル前後の農道となり、上敷免の泉光寺前
に至る。泉光寺は寛平九年(897)、良忍上人により開かれた古刹である。
街道はここから穏やかに東にカーブして再び県道由良深谷線にぶつかると思われるが、その先の道筋は判然とし
ない。沼尻方面に向かったとする説、高島方面に向かったとする説、中瀬方面から対岸の世良田方面に向かった
とする説などがある。なお、当地の伝承では、新田義貞軍またはその支軍が鎌倉倒幕に向かった際に、僧兵の首
魁の泉光寺入道元戒が、利根川渡河点の対岸にある沼尻に布陣し一戦を交えて敗れたことが伝わっている。その
後、義貞軍はこの鎌倉街道を通り鎌倉へ向かったと思われる。
上敷免地内の鎌倉街道は、上道本道とともに、上州方面に向かう機能を果たした鎌倉街道の一路線と考えられる。
大寄村と明戸村の村境だったため、この道は昭和初期の土地改良においても残された。
このたびNHKの大河ドラマ「鎌倉殿の13人」が放送されており、当地にこの鎌倉街道が現存するので、地元有志
相計り、ここに案内板を設置する。
     令和4年5月                         上敷免鎌倉街道保存会

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泉光寺駐車場脇からS字状の鎌倉街道伝承路線を南方に向けて




上の写真の逆方向
東西に走る道路のところで鎌倉街道(伝承路線)は消滅 泉光寺駐車場東脇方向に延びていたと推
測するも痕跡なし




S字カーブ状の鎌倉街道を南進  




左側(東側)が明戸 (明戸村⇒幡羅郡明戸村⇒大里郡明戸村⇒深谷市明戸)  
右側(西側)が上敷免(上敷免村⇒榛原郡大寄村上敷免⇒大里郡大寄村上敷免⇒深谷市上敷免)




更に南進 中央あたりに案内板(裏側)が見えます




鎌倉街道、遊歩道(あかね通り)、一般道が交差しています
左側の道路が鎌倉街道 一般道を横切って鎌倉街道を南進すると深谷バイパスに突き当たります




歩いてきた鎌倉街道を案内板の脇から振り返って




遊歩道(あかね通り)・・・ 旧日本煉瓦製造株式会社の専用鉄道跡地




一般道を横切り北方向に鎌倉街道を見る (右側の道路)

散策日:令和4年(2022)8月14日(日)

第25回坂戸市埋蔵文化財出土品展「掘ってわかった下田遺跡~水と共生した古代のムラ~」

2022年08月14日 | 企画展・見学会


第25回 坂戸市埋蔵文化財出土品展
   「掘ってわかった下田遺跡~水と共生した古代のムラ~」  
 期間:令和4年8月10日(水)から令和4年8月16日(火)まで 
 場所:坂戸市文化会館ふれあ 2階ギャラリー (坂戸市元町17-1)

を観覧してきました。

今回の展示は、平成22年度から令和4年度にかけて実施された下田遺跡発掘調査で出土した土器等
の展示です。
写真撮影を許可されていましたので撮ってきた中から何枚かを載せておきます。




展示室に入って最初のパネル(一番右)は「開催にあたり」 内容を下に転記しておきます。
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   開催にあたり
 坂戸市では約1万5千年前の旧石器時代から人々が生活し始め、市内には多くの遺跡が存在しています。市内
で実施される発掘調査は年間20件にものぼり、調査結果の蓄積によって本市の歴史が日々明らかになっていま
す。
 本企画展「掘ってわかった下田遺跡~水と共生した古代のムラ~」では、平成22年度から令和4年度にかけ
て実施した下田遺跡の発掘調査結果を展示いたします。下田遺跡では、関越自動車道坂戸西スマートインターチ
ェンジ周辺開発に伴い、延べ8万㎡におよぶ大規模な発掘調査が実施され、その結果、高麗川低地帯に眠ってい
た遺跡が姿を現しました。
 発掘調査とその後の研究によって、先人たちが川に近い低地という特殊な環境を居住と生業の場として選択し、
自然の恩恵享受するとともに、水害などの脅威と向き合いながら生活していた様子が明らかになりました。
 この展示会で、郷土の歴史に思いを馳せるとともに、現代社会と自然環境の共存を考える機会となれば幸いで
す。
 最後に、開催にあたり、土地所有者、事業者をはじめ御協力を賜りました全ての関係者の方々に深く感謝を申
し上げます。
令和4年8月  
                                        坂戸市教育委員会

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写真パネル「空から撮影した下田遺跡」




「弥生時代後期~古墳時代初頭(吉ヶ谷式期)の下田遺跡」見取図
縄文土器破片・弥生土器破片・打製石斧




「弥生時代後期~古墳時代初頭(吉ヶ谷式期)の下田遺跡」見取図




打製石斧・石鏃  ※鏃・・・やじり




吉ヶ谷式(よしがやつしき)高杯  ※吉ヶ谷系土器というのは関東地方の真ん中あたり比企丘陵を
中心に弥生時代後期後半から古墳時代前期に盛行した土器




銅鐸型土製品




  木柱(コナラ)             土師器(はじき)




5号掘立柱建物 木柱(コナラ)




須恵器(すえき)・土師器




砥石・石製紡錘車




織物石




末野窯産須恵器   ※末野・・・大里郡寄居町




鳩山窯産須恵器   ※鳩山・・・比企郡鳩山町




展示室(ギャラリーA)の模様(一部)




ギャラリーBは、夏休み応援企画として 小中学生の歴史の教科書に即した考古資料の展示
  夏休みだよ! 出張ミュージアム
となっています。




本物の埴輪や土器が展示され、パネルで古墳時代・縄文時代・弥生時代・土師器・須恵器・弥生
土器などの説明されています




受付の際に頂いた資料
 ◎第25回坂戸市埋蔵文化財出土品展  
      掘ってわかった下田遺跡 水と共生した古代のムラ  展示解説資料
 ◎令和2年度発掘調査 埋文 さかど年報  ※下田遺跡に関する記述はありません

見学日:令和4年(2022)8月11日(木)

歴史講座Ⅰ「鎌倉殿とその時代」第3回

2022年08月13日 | 講演会・講座

                              雨が降って来たので看板は中に移動
埼玉県立嵐山史跡の博物館
令和4年度  歴史講座Ⅰ「鎌倉殿とその時代(3)」
 日 時:令和4年8月12日(金)13:50~15:30
 会 場:国立女性教育会館 講堂(埼玉県比企郡嵐山町菅谷)
 講義名:武蔵武士の西遷
 講 師:根ヶ山 泰史 氏(埼玉県立歴史と民俗の博物館)
 構 成:はじめに
     (1)「武蔵武士」とは 
      ・平安時代末から南北朝時代にかけて、武蔵国内に苗字の地(本貫地)を持つ武士
     (2)「西遷」とは 
      ・「西」へ「遷」ること   
      ・東国御家人の西遷・・・①西方(西国など)の遠隔地所領獲得→②移住、という2段階
     (3)承久の乱と東国御家人
     (4)移動する武士
     1 熊谷氏
     2 小代氏
     3 中村氏・大河原氏
     おわりに ~武蔵武士のゆくえ~ 
        《講座資料より一部抜粋》

を聴講してきました.

今年の大河ドラマ「鎌倉殿の13人」の放映で、鎌倉時代・武蔵武士に関心が集まっております。
そんな中で「武蔵武士」とは「西遷」とはということで、熊谷氏、小代氏、中村氏・大河原氏を例
にしてのお話をしていただきました。
なお、講座の録画・録音・写真撮影は禁止のため写真はありません。  


このうち小代氏について若干・・・↓


小代氏は武蔵七党の児玉党に属す
本貫地は入西郡小代郷(現東松山市正代周辺)
小代氏館跡(?)にある「青蓮寺」




青蓮寺境内に建立されている「小代重俊供養塔」




「小代重俊供養塔」(弘安四年銘板石塔婆)説明板
ここに記されているよう小代重俊の子息等は「宝冶合戦」での活躍により、肥後国野原荘へ下向
嫡流は肥後国に西遷 庶流は小代郷に残留




西遷後、室町・戦国時代には菊池・大友・竜造寺・島津・豊臣等に順次属す
近世には、熊本藩加藤清正に仕え、加藤家改易後は細川家に仕える

この写真は、名古屋城天守台の石垣の石に「加藤肥後守 内小代下総」と刻印されたもの
  加藤肥後守・・・加藤清正  内・・・家臣
このことからも小代氏が加藤清正の家臣であったことが分ります。

聴講日:令和4年(2022)8月12日(金)