
城 名:川崎平右衛門陣屋(かわさきへいえもんじんや)
別 名:-
形 態:陣屋
時 期:天文年間
城 主:川崎平右衛門定孝
遺 構:平場・石祠・土塁
指 定:市指定史跡(平成8年〈1996〉3月21日指定)
所在地:埼玉県鶴ヶ島市高倉1233番地2
川崎平右衛門陣屋跡は、武蔵野新田開発のため設けられた江戸時代中期(元文年間)の陣屋であり、中世の城館・陣屋とは性
質を異にしますが、復興土塁等があるとのことで訪ねてみました。

日光街道杉並木(市道438号線)から少し入ったところにあります。

四方を土塁で囲まれたこの場所が川崎平右衛門陣屋跡ということです。
正しくは復興土塁であり、形・大きさも往時のものとは異なるようですが。

陣屋跡一角に設けられた解説板

川崎平右衛門定孝のことから陣屋の事が事細かく説明されています。
細かいがゆえに写真では読みづらいので下記に転記しておきます。
鶴ヶ島市指定史跡
武州三角原
川崎平右衛門定孝陣屋跡 埼玉県鶴ヶ島市高倉1233番地2 平成8年3月21日指定
川崎平右衛門定孝は元禄7年(1694)武蔵国多摩郡押立村(現在の府中市)の名主の家に生まれました。元々農業に従
事し、荒地の開墾や用水・灌漑の改善など各振興事業を行ったり、私財を投じて窮民を救ったこともあり、篤農家として村民
からは厚い信頼を受けていました。抜擢されて新田世話役、のちに代官となり武蔵野新田開発を成功に導きました。この三角
原は新田開発に当たり、彼が拠点として陣屋を設けたところです。
享保7年(1722)徳川吉宗による新田開発令が出て、武蔵野台地の全面的な開拓が進められましたが、これは多数の新
田村をつくり、石高にして11万2千石(1石は約180リットル)の増収を得ようとする計画でした。
開発当初の出百姓(入植者)の困窮ははなはだしく、また大凶作にもみまわれ、元文4年(1739)には新田の総家数1
327戸のうち161戸が潰れ百姓(破産した農家)となり、どうにか生活していけるものはわずか9戸であったといいます。
幕府は武士が指導した新田開発が失敗した苦い経験から農民出身の平右衛門を南北武蔵野新田世話役に登用し、農民の実情に
あった新田開発事業を推進させました。
平右衛門と農民の努力の結果、多摩郡・高麗郡・入間郡・新座郡にわたって500町歩(約500ヘクタール)の新田がみ
ごとに開墾され、やがて寛保3年(1743)平右衛門は代官に任じられました。
その後、明和4年(1767)、平右衛門は幕府勘定所の検査をする勘定吟味役兼諸国銀山奉行となりましたが、同年6月
74歳で生涯を終えました。
ここにある小祠は、寛政10年(1798)新田の農民たちが平右衛門の徳を追悼して建てたもので、正面に川崎大明神と
刻み込まれています。
陣屋は平右衛門が美濃に任地替えになったため建物は取り払われましたが、土塁や堀は昭和16年日本農地開発営団の開墾
が始まるまで残っており、現在の土塁はその後に作られたものです。
平成5年に陣屋跡の確認調査を実施したところ、位置は現在のものと一部分で重なりながらも、西側を走る日光街道杉並木と
平行し、堀跡等は発見され陣屋跡の規模からそれまで考えられていたものより約3倍(東西53.5m・南北55m)の大き
さがあることがわかりました。
平成11年3月 鶴ヶ島市教育委員会

見取図部分を拡大表示

川崎大明神と刻まれた小祠 ※ 川崎の「崎」の文字は「嵜」が使われています

現在の陣屋跡を東方から

陣屋跡から若干離れた場所の日光街道沿いに設けられている「日光街道と並木」説明板
散策日:平成30年(2018)2月24日(土)