四季・めぐりめぐりて

近隣の城館跡・古墳などの史跡めぐりなどをぼちぼちながらやっています

川崎平右衛門陣屋(埼玉県鶴ヶ島市)

2018年02月26日 | 100名城以外の城館跡


城 名:川崎平右衛門陣屋(かわさきへいえもんじんや)
別 名:-
形 態:陣屋
時 期:天文年間
城 主:川崎平右衛門定孝
遺 構:平場・石祠・土塁 
指 定:市指定史跡(平成8年〈1996〉3月21日指定)
所在地:埼玉県鶴ヶ島市高倉1233番地2

川崎平右衛門陣屋跡は、武蔵野新田開発のため設けられた江戸時代中期(元文年間)の陣屋であり、中世の城館・陣屋とは性
質を異にしますが、復興土塁等があるとのことで訪ねてみました。




日光街道杉並木(市道438号線)から少し入ったところにあります。




四方を土塁で囲まれたこの場所が川崎平右衛門陣屋跡ということです。
正しくは復興土塁であり、形・大きさも往時のものとは異なるようですが。




陣屋跡一角に設けられた解説板




川崎平右衛門定孝のことから陣屋の事が事細かく説明されています。
細かいがゆえに写真では読みづらいので下記に転記しておきます。

鶴ヶ島市指定史跡
武州三角原
 川崎平右衛門定孝陣屋跡 埼玉県鶴ヶ島市高倉1233番地2 平成8年3月21日指定 

 川崎平右衛門定孝は元禄7年(1694)武蔵国多摩郡押立村(現在の府中市)の名主の家に生まれました。元々農業に従
事し、荒地の開墾や用水・灌漑の改善など各振興事業を行ったり、私財を投じて窮民を救ったこともあり、篤農家として村民
からは厚い信頼を受けていました。抜擢されて新田世話役、のちに代官となり武蔵野新田開発を成功に導きました。この三角
原は新田開発に当たり、彼が拠点として陣屋を設けたところです。
 享保7年(1722)徳川吉宗による新田開発令が出て、武蔵野台地の全面的な開拓が進められましたが、これは多数の新
田村をつくり、石高にして11万2千石(1石は約180リットル)の増収を得ようとする計画でした。
 開発当初の出百姓(入植者)の困窮ははなはだしく、また大凶作にもみまわれ、元文4年(1739)には新田の総家数1
327戸のうち161戸が潰れ百姓(破産した農家)となり、どうにか生活していけるものはわずか9戸であったといいます。
幕府は武士が指導した新田開発が失敗した苦い経験から農民出身の平右衛門を南北武蔵野新田世話役に登用し、農民の実情に
あった新田開発事業を推進させました。

 平右衛門と農民の努力の結果、多摩郡・高麗郡・入間郡・新座郡にわたって500町歩(約500ヘクタール)の新田がみ
ごとに開墾され、やがて寛保3年(1743)平右衛門は代官に任じられました。
 その後、明和4年(1767)、平右衛門は幕府勘定所の検査をする勘定吟味役兼諸国銀山奉行となりましたが、同年6月
74歳で生涯を終えました。
 ここにある小祠は、寛政10年(1798)新田の農民たちが平右衛門の徳を追悼して建てたもので、正面に川崎大明神と
刻み込まれています。
 陣屋は平右衛門が美濃に任地替えになったため建物は取り払われましたが、土塁や堀は昭和16年日本農地開発営団の開墾
が始まるまで残っており、現在の土塁はその後に作られたものです。
平成5年に陣屋跡の確認調査を実施したところ、位置は現在のものと一部分で重なりながらも、西側を走る日光街道杉並木と
平行し、堀跡等は発見され陣屋跡の規模からそれまで考えられていたものより約3倍(東西53.5m・南北55m)の大き
さがあることがわかりました。
  平成11年3月                                     鶴ヶ島市教育委員会






見取図部分を拡大表示




川崎大明神と刻まれた小祠  ※ 川崎の「崎」の文字は「嵜」が使われています




現在の陣屋跡を東方から




陣屋跡から若干離れた場所の日光街道沿いに設けられている「日光街道と並木」説明板

散策日:平成30年(2018)2月24日(土)

講座「中世遺跡を地名からみる」

2018年02月25日 | 講演会・講座


青石の里
「下里・青山板碑製作遺跡」の普及・啓発講座
演題 「中世遺跡を地名からみる」
講師 埼玉県立嵐山史跡の博物館学芸員 
   國學院大學兼任講師 浅 野 晴 樹 氏
日時 2月25日(日) 午後1時30分~3時30分
場所 小川町立図書館 視聴覚ホール
主催 小川町教育委員会

を聴講してきました。

国指定史跡「下里・青山板碑製作遺跡」の普及・啓発事業の一環として、板碑製作遺跡や板碑に関連した講座で、小川町内の
地名「青山」の例を含め、地名から中世の遺跡をみてみるという内容でした。




講座資料

聴講日:平成30年(2018)2月25日(日)

浅羽城(埼玉県坂戸市)

2018年02月24日 | 100名城以外の城館跡


城 名:浅羽城(あさばじょう)
別 名:萱方城(かやがたじょう)
形 態:平城
時 期:中世(室町―戦国期)
築城者:浅羽氏?
城 主:浅羽下総守?
遺 構:なし
指 定:― 
所在地:埼玉県坂戸市鶴舞1丁目

埼玉県坂戸市内にある浅羽城跡を訪ねてみました。城跡は完全に住宅団地(鶴舞団地)や水田となり遺構はなく城跡の面影はと
どめておりません。団地内にある公園付近一帯が城跡と推定されているようです。
浅羽氏は、武蔵七党のひとつ児玉党の一族である入西三太夫資行の子小太郎行成(行業)が浅羽に住して浅羽氏を名乗ったのに
始まるといいます。弟の次郎大夫遠広は小代(現在の東松山市正代)に住して小代氏を名乗り、新大夫有行は越生(入間郡越生
町)に住し越生氏をそれぞれ名乗りました。




鶴舞団地の中にあるこの公園付近一帯が浅羽城跡とされています。この公園の名称はタイヤ公園




浅羽城跡(萱方城跡)の説明板
萱方城とはかつてここが萱方村であったことからのようです。




上述の通り遺構はありませんので写真を撮っても意味はないのですが、一応、このあたりだということで・・・




タイヤ公園と道を挟んでこちらの公園は「城跡公園」の名称になっています。
道路より一段高くなってはいますが、城跡の名残ではなく、単に住宅地造成による産物でしょう。




左側が城跡公園 中央がタイヤ公園




城跡公園の北側に広がる田園地帯




浅羽氏の祖である浅羽小太郎行成(行業)の供養塔(板石塔婆)が建立されている「万福寺」(坂戸市北浅羽193)
この万福寺から八幡神社にかけて館(北浅羽館)が築かれていたと考えられるとのことですが、遺構等はありませんので?




覆屋の中にある供養塔(板石塔婆)と説明板




供養塔(板石塔婆)の説明板①




供養塔(板石塔婆)の説明板②




覆屋の中にある供養塔(板石塔婆)




覗きをしてみました(笑)




始祖浅羽小太郎行成(行業)が鶴岡八幡宮から分祀したと伝わる八幡神社(坂戸市北浅羽262)




八幡神社社殿

散策日:平成30年(2018)2月24日(土)

北新波砦(群馬県高崎市)

2018年02月21日 | 100名城以外の城館跡


城 名:北新波砦(きたあらなみとりで)
別 名:―
形 態:平城(砦)
時 期:15世紀末か?
築城者:長野氏か?
城 主:新波新左衛門?
遺 構:郭・土塁・空堀 ・虎口
指 定:県指定史跡(昭和62年〈1987〉8月2日指定)  
所在地:群馬県高崎市北新波町

群馬県高崎市内にある北新波砦跡を訪ねてみました。現在は、北新波砦史跡公園として整備されています。
砦と言うものの方形の館(平城)と言ったほうがよいかもしれません。
訪ねたのは午後の遅い時間帯であったうえに強風であったということもあり、方形の郭内を斜めに横切ってきた程度の散策で
したので細部は見てきませんでしたし、肝心なものの見落としもありました。

冒頭の写真は、南側虎口から郭内を見たものです。




砦跡西側の状況です 
砂利が敷かれた部分は堀跡のようですが埋められています。右端に駐車場があります。




駐車場と堀跡の境に設けられている「北新波砦史跡公園」案内板




案内板の見取図部分を拡大表示しておきます




西側の階段上から見た北側土塁と郭内(本丸広場)




同じく西側の階段上から見た郭内(本丸広場)南北方向  
中央に見えるのは満勝寺 この満勝寺も郭跡(満勝寺郭)




土塁の上部




郭内(本丸広場)から見た南側の虎口




南側南側の張出部の内側




南側土塁の張出部




南側虎口から見た西側土塁と郭内(本丸広場)




同じく南側虎口から見た郭内(本丸広場)北東方向




南側虎口の東側土塁




南側史跡広場内に設けられている「北新波砦史跡公園」解説板




郭(本丸広場)東側にある休憩広場の南側にある長屋門




休憩所に設置されている北新波砦史跡公園の空撮写真




周辺史跡案内図




年表




満勝寺

城館跡散策である意味一番肝心な城館跡碑(標柱)、ここの場合は砦跡標柱になりますが見事に失念してしまいました。
また、満勝寺内にも遺構があったようですがこれも失念・・・次の機会に(次の機会があれてばの話ですが)

散策日:平成30年(2018)2月17日(土)

箕輪城 ② (群馬県高崎市)

2018年02月20日 | 日本100名城
■ 国指定史跡 箕輪城跡



引き続き箕輪城跡の曲輪等を紹介します。




御前曲輪 現在整備工事中の本丸のほぼ北側に位置し、実質的には本丸の一部であったようです。




国指定史跡箕輪城跡の標柱




御前曲輪の説明板




同じく御前曲輪の説明板




御前曲輪の井戸




御前曲輪井戸の説明文




御前曲輪西虎口門跡




御前曲輪西虎口門跡の説明板




箕輪城将士慰霊碑




空堀(本丸堀) 左側が蔵屋敷跡 右側が本丸跡




この上にある曲輪が蔵屋敷で、備蓄穀物を保管する建物があった場所と考えられるとのこと。




三の丸跡




三の丸門跡と石垣




三の丸門跡と石垣の説明板




三の丸石垣




三の丸石垣の説明板




鍛冶曲輪




鍛冶曲輪の石垣




虎韜門跡




虎韜(ことう)とは虎の巻の事と説明があります。




白川口埋門跡の標柱と説明板




白川口埋門跡




大堀切  二の丸と郭馬出の間にある大堀切の延長です




虎韜門跡方向を振り向いて




御前曲輪北堀




御前曲輪北堀の説明板




稲荷曲輪と御前曲輪の間の堀




稲荷曲輪 南方から北方に




稲荷曲輪 北方から南方に




稲荷曲輪 標柱と説明板




稲荷曲輪東側の堀跡




新曲輪




丸馬出 標柱と説明板




丸馬出

この箕輪城 ②で紹介させていただいた曲輪等は、大堀切と木が伐採された本丸堀を除けばほとんど以前のままの状態です。
これからも順次整備されていくことを願っています。

攻城日:平成30年(2018)2月17日(土)

箕輪城(群馬県高崎市)

2018年02月19日 | 日本100名城
■ 国指定史跡 箕輪城跡



城 名:箕輪城(みのわじょう)
別 名:―
形 態:山城 → 平山城
築城年:永正7年(1510)ころ、永禄9年(1566)、天正15年(1587)、天正18年(1590)
築城者:長野業尚、武田信玄、北条氏邦、井伊直政
城 主:長野氏、武田氏、織田氏、後北条氏、井伊氏
遺 構:郭・土塁・堀切 ・石垣
指 定:国指定史跡  日本100名城(16)
所在地:群馬県高崎市箕郷町西明屋(旧・箕郷町)

箕輪城を久しぶりに訪ねてみました。今回で3度目の攻城になりました。つい2、3年前に訪ねたように思っていましたが、
前回は平成24年(2012)4月のことですので約6年を経過していたわけです。
この間に郭馬出西虎口門が復元されたり、杉林の伐採や、城跡路の整備、駐車場の整備等がなされていましたので、新たな気
持ちで攻城してきました。




新たに整備された「史跡箕輪城跡駐車場」




駐車場には水洗トイレも併設されています
この駐車場に我が愛車を駐車していざ攻城を始めようとしたところ、風も強くなり白いものが舞い始めました。
しかし、このまま帰るわけにはいきませんので様子を見ながら攻城しようと・・・




以前は写真の左下にある道を通って二の丸前にある駐車場まで行ったものですが。




搦手口
風が強く幟がまくれ上がっています。




郭馬出西虎口門方向への道は新しく整備されたようです
右側の坂道が従来からの登城口で二の丸前に通じていますが、今回は郭馬出西虎口門方向への道を進んでみました。




見るからに新しい道です。先のほうに郭馬出西虎口門の屋根が少し見えています。




木俣郭ですが、他所(城)には「木俣郭」というのは存在せずこの箕輪城のみにあるようで、謂れは諸説あるようですが、
井伊氏の重臣であった木俣守勝の屋敷があったことからとの説が有力のようです。




木俣の発掘調査の説明板




木俣と大堀切を挟んだ北西方向に郭馬出西虎口門が見えます。




郭馬出西虎口門




郭馬出西虎口門説明板全体




郭馬出西虎口門の説明部分




郭馬出西虎口門  正面から
平成26年(2014)から復元工事  平成28年(2016)年11月完成




郭馬出西虎口門  正面から




郭馬出西虎口門 屋根部




門から郭馬出を見る




郭馬出内から西虎口門を見る




同上




郭馬出西虎口門内側




郭馬出




郭馬出 標柱と説明板




奥から 郭馬出 大堀切と土橋 二の丸




大堀切 標柱と説明板




大堀切  左側が二の丸  中央が土橋と石垣  右側が郭馬出




大堀切土橋説明板




大堀切の堀底から見た郭馬出西虎口門




二の丸




二の丸に設置されている箕輪城跡見取り図
御前曲輪へお越しの・・・の文言と矢印は現在本丸を整備中のために迂回路を表示したもので、一時的な表示。




二の丸前の広場
史跡箕輪城跡駐車場が整備される前は、ここが駐車場になっていました。




広場からの眺望




かつてはこの中に100名城スタンプが置かれていたようですが盗難にあってからはスタンプを押した紙と箕輪城跡の説明書が
置かれています。




本丸門馬出し




二の丸と本丸の間の空堀(本丸堀)




城郭整備工事中の本丸跡
立ち入り禁止ですので工事内容は分りません。果たしてどのような整備がなされているのか・・・

今回の箕輪城攻城は復元された郭馬出西虎口門を見ることが第一の目的でしたが、冒頭でも触れたよう整備が進んで以前訪れた
時とは全く雰囲気が変ってしまっていました。

これ以外の曲輪等は「箕輪城②」として追って投稿します。

攻城日:平成30年(2018)2月17日(土)

バスツアー武蔵武士の本拠を訪ねる「児玉党諸氏の本拠」

2018年02月10日 | 史跡・文化財めぐり〈団体〉


平成30年(2018)2月9日(金)に催行された武蔵の中世文化活用プロジェクト実行委員会(埼玉県立嵐山史跡の博物館・早稲田
大学・埼玉県立熊谷図書館等)主催によるバスツアー武蔵武士の本拠を訪ねる「児玉党諸氏の本拠」に参加させていただきまし
た。
定員40名に対し倍以上の応募があったようですが幸い抽選に当選することができました(文化財巡りには何回か応募しています
が当選と落選の繰り返しです)
冒頭の写真のパンフレットは受付時に頂いたもので、A3判の4つ折りのものの表紙と背表紙です。開くと見学先の写真や情報が
登載されています。




今回の集合場所は東武東上線森林公園駅北口です。




参加者が集まりました。
お名前は分りませんが、歴史講座や講演会でよくお見掛けする方たちが多数おりました。
案内は、浅 野 晴 樹 先生(埼玉県立嵐山史跡の博物館学芸員)
   



バスに乗車して出発です。
武蔵武士の本拠を訪ねる(見学=観光する)バスツアーだけにバスは「武蔵観光バス」です。偶然か計画的にか?




最初の目的地である大久保山遺跡のある早稲田大学本庄キャンパスに到着です。




早稲田大学本庄キャンパスの見取図 現在地とある本庄セミナーハウス前に到着しました。




ここでも資料を頂き早稲田大学の先生(お名前は失念しました。申し訳ありません)の案内と解説で大久保山遺跡の見学です。
見学と言っても、発掘したところは埋め戻されて、建物が建っていますので場所だけになってしまいますが。




見学出発です。




左手にある山並みが塚本山古墳群




考古資料館に向かいます




考古資料館入口
全員一緒は無理ですので半々ずつ入館




多数の出土品が保管されています。
そんな中から特異なものをいくつか見せていただけました。




文様のはっきり遺っている瓦
個々の写真を撮れればよかったのですが、皆さんも撮っていましたので一人だけじっくりとはいきませんので・・・




次に「宥勝寺」に向かいます。




「宥勝寺」に向かう途中にも遺跡についての説明がありました(遺跡名は失念)




西光山宥勝寺に着きました。




宥勝寺説明板




宥勝寺本堂




荘小太郎頼家の墓説明板




荘小太郎頼家の墓(五輪塔)
宥勝寺で荘小太郎頼家の墓を見学したあとは古墳に・・・




前山一号墳の説明板




前山一号墳の墳頂に上がります。説明板にあるよう高さ7mの前方後円墳です。




墳頂部は広く、ツアー参加者全員が上がれるだけの余裕がありました。
ここでも早稲田大学の先生の説明があったことは言うまでもありません(古墳が専門のようです)




前山一号墳見学の後は昼食のため、セミナーハウス前に駐車のバスに戻り、早稲田大学本庄キャンパス内にある「早稲田リサー
チパーク・コミュニケーションセンター」前までバスで移動。




センター内で昼食・休憩




陽あたりがよいのでしょう。早くも紅梅がほころんでいました。




昼食休憩ののち、再びバスで神川町に向いました。見学予定地である金鑚神社前を素通りして、一旦、藤岡市(旧鬼石町)に入
った後再び神川町に入り「阿久原牧」跡が見える場所を走行(遺構がないことから立ち寄りはなし)し、「神泉道のオアシス」
にバスを駐車。




神泉道のオアシスから徒歩で「有氏神社」まで




有氏神社に到着




「有氏神社の盤台祭り」説明板
児玉党の祖・有道惟行をまつる神社と伝えられているとの記述があります。




有氏神社社殿 人の背丈の2倍程度の小さな社です。




有道氏の祖廟についての説明板




室町時代後期から江戸時代初期の間に建立されたと推定される石塔




最期の目的地「金鑚神社」の社殿前で説明にあたってくれた神川町教育委員会文化財担当の職員の方




「金鑚神社」説明板




金鑚神社多宝塔




「金鑚神社多宝塔」説明板




神川町教育委員会文化財担当の職員の方の多宝塔の説明を聞き入るツアー参加者
この多宝塔見学を最後に集合場所であった森林公園駅北口まで帰り解散となりました。

以上、ツアーの行程の説明のみで、学術・専門的なことは書けませんが、非常に有意義なツアーでした。




大久保山遺跡見学に際し頂いた資料  A3判7枚13ページ うち2枚はカラー4ページ




金鑚神社見学の際に頂いた資料 右のものはA4判2枚4ページで今回のツアー用に作成されたようです。

文化財見学バスツアー参加日:平成30年(2018)2月9日(金)

歴史手帳2018

2018年02月01日 | エトセトラ


吉川弘文館発行の「歴史手帳2018」を購入してきました。
過日開催されたシンポジウム「武蔵武士とその本拠」の会場で、吉川弘文館さんも歴史書のロビーを販売していて、この歴史手帳
も中にあったのですが買いそびれてしまいました。そんなことから、取り寄せ覚悟で近隣の書店を見て歩いたらところ、某書店に
運よくありましたので購入した次第です。




予定等を書き込む手帳としての活用もさることながら、今までネットでその都度調べていたものが、この手帳の資料・図録の中に
大分含まれいますので助かります。ただ、文字が小さいので裸眼では読むのが難しいですが(泣)