社 号:春日神社(かすがじんじゃ)
旧 称:内裏大明神、春日社
御祭神:武甕槌神
(たけみかづちのかみ)
相 殿:天児屋根神、斎主神、比売神、誉田別神、木花咲耶比売神、菅原道真公、倉稲魂神、
大己貴神、太田神、大宮比売神、中筒男神、表筒男神、底筒男神、神功皇后、大日霊神
創 建:不詳ながら、延暦元年(782)の創建だと伝えられる
社 格:旧村社
例 祭:10月9日
指 定:-
鎮座地:埼玉県入間郡越生町西和田317
越生町西和田に鎮座する『春日神社』は、越生十六郷の総鎮守と言われ、征夷大将軍坂上田村麻呂
東夷征伐の際、現在の地に遷し宮殿を築し、内裏大明神を祀る。平将門が当地に内裏を置いたとさ
れると言うことです。
坂上田村麻呂や平将門の伝承は数多く真偽のほどは別にして訪ねてみました。
なお、【越生十六郷】とは、上野村・今市村・如意村・黒岩村・和田村・大谷村・鹿下村・成瀬村・
津久根村・大満村・黒山村・小杉村・堂山村・上谷村・箕和田村・竜ケ谷村の諸村のようです。
『春日神社略記』
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越生総社 春日神社略記
御祭神
天児屋根神 武甕槌神 斎主神 比売神 誉田別神 木花咲耶比売神 菅原道真公 倉稲魂神
大己貴神 太田神 大宮比売神 中筒男神 表筒男神 底筒男神 神功皇后 大日霊神
十六柱之神を祭る
由緒
延暦元年(782年)創建
内裏山獅子岩の傍に祭祀されたるを征夷大将軍坂上田村麻呂東夷征伐の際、現在の地に遷し宮殿を築し、内
裏大明神を祀る。平将門が当地に内裏を置いたとされ、その後、延喜年中常陸大據、平国香(将門の伯父)が
修繕、松山城々主上田能登守の再建を経て、寛政10年4月内裏大明神春日大明神改め、春日神社、越生十六郷
総鎮守と定む。慶安3年将軍徳川家光より社領を賜う。明治4年上地令によりこれを奉遷。
描、平安末期藤原季綱公、越生郷に移住し、阿諏訪山に遊猟せし時氏神秩父郡高山の峰に光を放ち、季綱公
之を謹み拝し当社に祭ると伝承されている。
内裏と称するは越生郷内、内裏宮常住、明応3年と有る。内裏の称累代社家石井氏の家号と同じくするもの也。
昭和20年以降国家の庇護を離れ氏子崇敬者皆様の基とし現在に至る。
現在の社殿は今上陛下御大典(平成5年)の折修繕されたものである。
平成28年8月吉日
春日神社宮司記
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歴史上の有名人が幾人も出てきますが、日本三大怨霊の一人とされる平将門の伝説は各地に数多く
あるようで真偽のほどは定かではありません。
藤原季綱公とは隣の毛呂郷(現在の毛呂山町)の在地領主であった毛呂氏の祖と言われる人物か。
玉垣に囲まれた参道
参道の外側(右側)に、『春日神社略記』看板。『若宮八幡神社』、
『史蹟藤原大納言遠峯・季綱邸蹟桓武平氏新皇 平将門 内裏蹟』碑がります
『割拝殿』
【随神門】の額が懸っていますが、随神門(随身門)の特徴である左右の随神像はありません
割拝殿を抜けると石段でその先に社殿等があります
『手水舎』
左:『拝殿』 と 右:『神楽殿』
『拝殿』
【越生總社 春日神社】と揮毫された社号額(扁額)と葵紋の門帳
『本殿(覆殿)』
拝殿と本殿(覆殿)とは離れて建てられています
『神楽殿』
手前正面に【恵比寿・大黒】像が置かれています
境内社『内裏大黒天社』
境内社『八坂神社』
左:『若宮八幡神社』右:『史蹟藤原大納言遠峯・季綱邸蹟 桓武平氏新皇 平将門 内裏蹟』碑
『史蹟藤原大納言遠峯・季綱邸蹟 桓武平氏新皇 平将門 内裏蹟』碑
境内西側の道路沿いに線路方向に向って建っている『春日神社流鏑馬』の標柱と『文化財解説板』
『解説板』の上部には【昭和28年の流鏑馬】の写真プレートが、下部には【春日神社の流鏑馬】と
題した説明板が貼られています。その内容は次の通りです。
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春日神社の流鏑馬
毎年10月9日のハツグンチ(初九日)に、大谷から「一の馬」、西和田から「二の馬」が出て、この直線道路に
設けた馬場を騎馬が駆け抜けていた。幕末のころまでは、今市村(現大字越生)の「三の馬」も参加していた。
当地の流鏑馬は、坂上田村麻呂が東征の折に奉納したのが起源で、長く途絶えていたのを戦国時代に松山城主の
上田能登守が再興したと伝えられている。また、堂山の最勝寺に伝来していた流鏑馬と、春日神社が所蔵していた
大般若経を交換したとの伝承もある。
大谷と西和田、各々数十軒で組織するマトウ組(的組=流鏑馬組)が永く伝統を継承していた。昭和34年(1959)
を最後に大谷が退いてからは西和田だけで続けられていたが、昭和41年に台風で中止され、以来中断されたままに
なっている。
平成27年3月
越生町教育委員会
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この標柱・文化財解説版とJR八高線の線路との間にあるこの道路で流鏑馬が行われていたようで
す。
「堂山の最勝寺に伝来していた流鏑馬と、春日神社が所蔵していた大般若経を交換したとの伝承も
ある」とありますが、物と物との交換なら分りますが、流鏑馬(祭事・行事)と大般若経(物)と
交換とは凡人の私にはよくわかりません。
極端な言い方をすれば物は渡せば終わりですが、流鏑馬は人と時間を必要としますので、そう簡単
にはいかないことの筈(無知ですみません)あくまで伝承ですから深く考えない方が・・・と言っ
てみたものの
流鏑馬と大般若経を交換したと言う伝承は興味あります。
5年前に撮った越生町堂山に所在する「最勝寺」の写真のうちの参道入口のものです
最勝寺の門前にある【最勝寺縁起】には流鏑馬と大般若経の交換についての記述はありませんでし
たが、
【新編武蔵風土記稿による最勝寺の縁起】の中に、
「寺寶 大般若經四箱。この經はむかし和田村の春日社にありしを、故ありて當寺にうつせりと
いふ、經文の奥書をよび箱の圖を上に記す」
という一文があります。故ありしとしかありませんので流鏑馬と交換したかどうかは定かではあり
ませんが、春日神社にあった大般若経が最勝寺に移ったことは確かなようです。
参拝日:令和3年(2021)1月5日(火)