四季・めぐりめぐりて

近隣の城館跡・古墳などの史跡めぐりなどをぼちぼちながらやっています

土屋忠治郎館(埼玉県入間市)

2018年07月31日 | 100名城以外の城館跡


城 名:土屋忠次郎館(つちやちゅうじろうやかた)
別 名:土屋氏陣屋
形 態:館
時 期:江戸時代初期
築城主:土屋忠次郎利清
城 主:土屋忠次郎・土屋氏代々
遺 構:-
指 定:-
現 状:長久寺
所在地:埼玉県入間市宮寺

「埼玉の館城跡」(埼玉県教育委員会編)によれば、入間市宮寺にある長久寺は江戸時代の旗本土屋忠次郎の陣屋跡とあると
のことから訪ねてみました。
遺構がないのは初めから承知の上で・・・




本堂右手の広い敷地(境内)の北側に土屋氏の墓所があります




「旗本土屋氏の墓付墓石一基」説明板
墓と土屋氏に関する説明ですが、館跡(陣屋跡)に関する説明は一切ありません。中野村(現入間市宮寺)に領地を拝領した
とはありますが・・・

また、長久寺の菩提樹に関する説明板の中には、「長久寺は、江戸時代にこの地の領主であった旗本土屋氏の菩提寺として開
かれたものである。初代の土屋利清が亡くなり、二代利次の二男の英俊法師が、正保二年(1645)開山となって利清を埋
葬したのがはじまりと伝えられる」とあり、やはり、館跡(陣屋跡)についての記述はありません。




個々の写真も一応撮ってははきましたが、特記に値するものはありませんので。

国道16号線を八王子方面に進行、左折すべきところを通り過ぎてしまい、大回りして再び16号に戻りなんとか目的地に。
後日、地図を見てみたら、目標物や信号のない路地を入らずとも信号のある交差点から行けたことを知る。予め地図で付近の
状況を調べておけば、時間とガソリンの無駄使いをせずに済んだものと、毎回同じことを繰り返しています。そんな苦労(?)
の割には何の意味のない城館跡巡りだったような・・・

散策日:平成30年(2018)6月12日(火)

八王子城(東京都八王子市)

2018年07月28日 | 日本100名城
■ 国指定史跡 八王子城跡



八王子市の「八王子城跡」を攻城してきました。
国指定史跡であり、日本100名城にも選定されている八王子城について今更詳細を記す必要もないとは思いますが簡単に。
八王子城は、関東を支配していた小田原北条氏の一族である北条氏照の居城です。氏照は、同じ八王子にあった滝山城を居城
にしていましたが、更に強固な城をと、天正15年(1587)頃、八王子城を築城し移りましたが、天正18年(1590)の豊臣
秀吉の小田原攻めの際に小田原城の支城であるこの八王子城も攻められて僅か1日にして落城してしまいました。 

今回2度目の攻城となりましたが、本丸まで攻める予定はなく、初めての攻城後に架け替えられた曳橋と御主殿跡の再現遺構
を見るだけの予定で、実際、時間もなかったのでそれだけ見て来ただけでしたが。




八王子城跡攻城口 「八王子城跡」の大きな石標 右の建物が管理棟




「史蹟 八王子城跡」石碑(標柱)




管理棟




管理棟前に設置されている陶製の諸々の解説板 




あしだ曲輪への石段  残念ながら「私有地につき出入り禁止」の看板があります
反対側には「この先 八王子城跡がガイドボランティアと一緒でないと見学できません」の札が下がっていましたので、条件
さえ整えば見学は可能のようです。




よく整備された路を歩いて




大手門跡  現在は埋め戻されています




大手門の跡説明板




古道 




古道(大手道)説明板




曳橋が見えてきました




曳橋の全景  二代目です
初代の曳橋は平成2年(1990)に橋脚も含め木造で架けられましたが、川が流れていて湿気が多く、痛みが早かったようで、
平成25年(2013)に通行禁止となりました。平成27年(2015)3月から架け替え工事が始まり、翌28年(2016)2月完
成、3月に開通式が行われたようです。




御主殿への経路説明板  曳橋についての説明が書かれています
”今回整備した橋は、当時の復元ではなく、見学者が御主殿に行くための通路” とありますが・・・

この2代目の曳橋は、鉄骨造りで表面に樹脂と木を原料とした再生木材を貼って木造の雰囲気を出したようです。木造の雰囲
気はあっても鉄骨造りは鉄骨造りでしかありませんから、復元ではなく見学者の通路と表現したのかもしれませんね(これも
勝手な解釈です)
うっかり復元などと言ってしまっては、うるさい輩が多いですから・・・

なお、往時の曳橋はもっと簡素なものであったようです。また、橋の位置を若干間違えて架けてしまったようです(2代目も
初代を引き継いで同じ場所)が、全く逆の場所というならいざ知らず、復元復興、今は通路としての橋ですから何ら問題はな
いと考えます。




ということで初代の曳橋と見比べていただく意味で、古い写真を引っ張りでしてみました。
初代の橋台は石垣になっています。本物の木造橋だけあってあ雰囲気はやはり違います。




橋台石垣と曳橋説明板   初代当時からある説明板です  
”想定復原  史跡の景観に合うよう木造に”・・・初代曳橋はこのような思いから 2代目も気持ちは同じでしょう 




橋の端から  洒落を言ったつもりはありません(笑)




鉄骨造りの橋という感覚はなく渡れます




橋脇の石垣




御主殿虎口の石段から見る曳橋




御主殿の土塁上から見る曳橋




虎口前




御主殿虎口  コの字形虎口




御主殿虎口説明板




御主殿入口の門  冠木門




櫓門跡説明板




冠木門




御主殿跡




御主殿跡説明板




御主殿跡の整備説明板




分布図




解説文




再現された礎石




塀跡




会所跡と敷石通路




会所跡




庭園遺構説明板




池跡
他にも多くの再現遺構がありますがこの辺にしておきます。説明板にもあったよう実際の遺構の上に盛土をして(いわゆる埋
戻し保存)その上に遺構を再現してあります。




御主殿の滝慰霊碑




御主殿の滝説明板




御主殿の滝




八王子城跡管理棟前の通りに設置の埼玉県寄居町のカラーデザインマンホール蓋
寄居町の町章を真ん中に据え、町の鳥・木・花のキジ・ヤマザクラ・カタクリが囲んでいます。
何故、他所の町のマンホールの蓋が・・・その理由は最後に




更に少し進むと地元八王子市のカラーデザインマンホール蓋
国の選択無形民俗文化財・都の指定無形文化財である八王子車人形のひとつ三番叟がデザインされています。




更に更に進むと神奈川県小田原市のカラーデザインマンホール蓋
歌川広重の浮世絵、東海道五十三次のうち「小田原・酒匂川」をモチーフにしたデザインのマンホール蓋。

小田原市・八王子市・寄居町は、北条氏政・氏照・氏邦の北条三兄弟がそれぞれ小田原城・八王子城・鉢形城を構えてたとい
う縁で、平成6年にそれぞれの観光協会が「北條三兄弟三領共同宣言」を結び、甲冑姿の市民・町民が互いの祭りに参加する
などして交流を深めていますが、平成28年10月1日に、この3市町は、武田信玄・北条氏康・今川義元が結んだ甲相駿三
国同盟ならぬ、「姉妹都市盟約」を締結しました。
そして、さらなる親交を深めようと昨年11月19日に行われた、八王子市いちょうまつりの席上で、全国で初めてという3
市町のマンホール蓋の交換が行われました。単に交換をしたに留まらず、交換したマンホール蓋は越境して盟約市町に設置さ
れました。
それが八王子市にあっては八王子城跡の入り口であるこの場所に。小田原市にああっては小田原かまぼこ通りに。寄居町にあ
っては寄居北條まつり会場へ通ずる道路にそれぞれの地元のマンホール蓋とともに設置されたという次第です。
しかし、ほとんどの方が他の市町のマンホール蓋が設置されていると気づくどころかマンホール蓋には何の関心も持たずに通
り過ぎているのが実情です。
行った時間が遅かったこともあり、予定の曳橋と御主殿跡を見るのに精一杯でした。駐車場の閉門時間の午後5時にはどうに
か間に合いましたが、ガイダンス施設や、北条氏照及び家臣の墓には寄ることができませんでした。
こちらを先に寄っていたら御主殿跡まで行けなかったでしょうね。

再攻城日:平成30年(2018)6月2日(土)

大久保陣屋(東京都八王子市)

2018年07月25日 | 100名城以外の城館跡


八王子市小門にある大久保陣屋跡とされる産千代稲荷神社を訪ねて来ました。

徳川家康家臣で関東十八代官の頭大久保石見守長安の屋敷地(陣屋)があったのは、現在の産千代稲荷神社境内辺り一帯であ
ったようです。この神社も鬼門除けの守護神として奉斎したことに始まると伝えられます。




大久保石見守長安陣屋跡碑




石碑の下に設けられている説明板  できればもう少し詳しい情報を記載してほしいですね




石碑裏面には大久保長安の来歴が刻まれています




産千代稲荷神社の社号標と鳥居




社殿




扁額




社殿




手水舎




境内社




石垣で囲まれた微高地にある大久保陣屋跡・産千代稲荷神社

散策日:平成30年(2018)6月2日(土)

大江氏館(東京都八王子市)

2018年07月22日 | 100名城以外の城館跡


大江氏館跡と伝わる八王子市山田町にある「兜卒山 広園寺」(とそつざん こうおんじ)を訪ねて来ました。

大江氏館の築城年代は定かでありませんが大江氏によって築かれたと言われます。建暦3年(1213)の和田合戦で和田義盛に
与して滅ぼされた横山党の所領横山莊は大江広元に与えられました。その後、大江氏の後裔・長井道広が横山莊を領し、この
地に居館を設けたと言われています。しかし、居館としての遺構はなく、説明板にも居館に触れる記載はありません。事実上
は寺院を散策した形になりますが、大江氏館と伝わる場所であり、城館探訪として訪れましたので、標題は「大江氏館」とさ
せていただきました。




広園寺表側の塀




総門(勅使門)  勅使門ですから天皇や天皇の勅使でない我々は、当然この門からは入れません




総門に掲げられた山号の「兜率山」とある扁額




通用門まえ右側にある「山田本坊 広園禅寺」の寺標




通用門




石標柱  都重宝 広園寺総門山門仏殿鐘楼・都史跡 広園寺境域  とあり




「東京都指定史跡 広園寺境域」説明板

康応2年(1390)、峻翁令山(しゅんのうれいざん)和尚を請じて招いて開創したと伝わえられますが、とあります。
この峻翁令山禅師は秩父・畠山氏の後裔で、ここ広園寺など13の寺を開山しています。広園寺開山の同じ年、埼玉県深谷市
にある深谷上杉氏の祖・上杉憲英(のりふさ)が館である丁鼻和(こばなわ)城内に禅宇(国済寺)を建立したときの開山も
峻翁令山禅師です。




通用門をくぐります




本堂(方丈)前まで一直線に延びている参道




山門 正面 大棟に大江氏の家紋【一文字三つ星紋】




山門に掲げられた寺号の「廣園禅寺」とある扁額




山門 斜め背面から  右に小さく見えるのが総門




山門 左斜め正面から  左に見えるのが仏殿




山門 右斜め正面から  右に見えるのが仏殿




仏殿 露盤に【一文字三つ星紋】  扁額には「禅林法富」とあり




八幡堂




境内の木立 ※立入禁止




階段のある一段高い所にある開基堂・本堂(方丈)  ※立入禁止




開基堂・本堂(方丈)入口   ※立入禁止




開基堂・本堂(方丈)への石段  「広園寺」説明板  




「東京都指定史跡 広園寺」説明板




石段下から本堂(方丈)を




庫裡




参道を本堂石段前から




鐘楼・梵鐘  鐘楼の屋根は方形造




庫裡 別位置から




塔頭  兜率山同證院

散策日:平成30年(2018)6月2日(土)

横山党館(東京都八王子市)

2018年07月19日 | 100名城以外の城館跡


八王子市元横山町に所在する八幡八雲神社を訪ねてみました。八幡八雲神社境内一帯付近は横山党の根拠地であったと考えら
れています。遺構はありません。

 横山党根拠地  東京都指定旧跡(昭和35年〔1955〕3月28日指定)
横山党は、平安時代末期から鎌倉時代前期にかけて存在した武蔵国の武士団です。いわゆる「武蔵七党」の一つであり、その
中でも、七〇余りの氏族を含む最大規模の武士団でした。
八幡八雲神社は、横山党の始祖である横山義孝が八幡社を勧請して創建した神社であると伝えられ、この境内付近一帯が横山
党の根拠地であったと考えられています。神社本殿横には、義孝を祀った横山神社があります。  (現地説明板)




八幡八雲神社の社殿(拝殿)
唐破風の上に千鳥破風をふたつ並べた造りは、両社同格のひとつの神社ということからでしょう(勝手な解釈ですが)




八幡・八雲神社由緒略記




境内右側(北側)に鎮座する横山神社




横山党根拠地説明板  ※この説明文を冒頭で引用させていただきました




横山神社と横山神社由緒略記




横山神社由緒略記




横山神社  横山党の始祖である横山義孝を祀っています
建暦3年(1213)の和田合戦で横山党が滅亡した後、この地を支配した大江広元が建保2年(1214)に創建したと言われます




鳥居の扁額の文字が木の枝で隠れてしまいましたので扁額をアップで  間違いなく横山神社です




八幡八雲神社の北方数100mにある「妙藥寺」  この寺にある「横山搭」を見に来ました
この寺辺りも横山党根拠地の一部と考えられています
三代将軍家光より朱印状拝領により門扉に三つ葉葵紋が取り付けられていますが、写真は開門状態ですので写っていません。




妙藥寺本堂




本堂の前にある墓地に一旦入ると案内の標識   横山搭は万年塀の向こう側にあります




横山搭 武蔵七党の横山党の末裔横山将監小野秀綱の宝篋印塔




この宝篋印塔は永禄3年(1560)に建立された横山将監小野秀綱の供養塔

散策日:平成30年(2018)6月2日(土)

川口氏館(東京都八王子市)

2018年07月16日 | 100名城以外の城館跡


東京都八王子市川口地内に、武蔵七党のひとつ西党に属す川口氏(川口兵庫介)の館跡があるとのことで訪ねてみました。
館跡周辺は畑や住宅となっており遺構は遺されておりませんが、館跡には地元篤志家によって碑が建立されています。




秋川街道を八王子市街からあきる野市方面に進行、「川口中学校入口」信号の左側に川口兵庫介館趾入口がありますが、八王
子市街方面からしてきた場合は鋭角に細い坂道を上がらなければならず、危険を伴いますので、反対車線から右折で侵入した
方が無難でしょう。または反対側にある川口川の橋を渡って右側の川沿いの路肩に駐車して徒歩で行くのが良いかと。




「史蹟川口兵庫介館趾入口」とある石標(道標) 




石標(道標)脇の坂道を登ります




あっという間に丘の頂に着きました  立派な大きな石碑(標柱)が目の前に




「史蹟 川口兵庫介館趾」石碑と川口氏館の歴史が刻まれた石碑が並んで建立されています




「史蹟 川口兵庫介館趾」石碑の側面と裏面




碑文  写真のアップで済ませようとしたのですが、読みにくいようなので転記しておきます

調井台と呼ばれるこの丘には中世の頃 豪族として栄えた川口氏の館があった 川口氏は武蔵七党の西党に属し草創の鎌倉幕
府に貢献した 川口氏は応永年間兵庫介幸季の時代に最も繁栄した 
南北朝室町戦国時代へと歴史は移り 関東は戦乱の時代をむかえた 川口氏も一党を率いて関東の山野に戦い 管領上杉氏の
争いには扇谷定正の幕下にあって勢威を振るい 山内顕定と対峙した やがて武相の覇権は大石氏から後北条へと移り 隆盛
を極めた川口氏も歴史の波に埋没していった しかしその事蹟は今に残り 圓福寺の寺宝大般若経奥書に願主兵庫介幸季の名
が見られる これは大幡宝生寺の住職明鑁らの書写に依り 鳥栖寺へ納められたものである 又長楽寺の都重要文化財薬師如
来像や 度重なる火災を免れて現存する 栖観音などに往時の繁栄を偲ぶことができる 
宅地化に景観が失われつつある昨今 郷土の歴史を後世に伝えたく 嘗て川口一族を涵養し法蓮寺を望むこの丘に 有志相計
り館跡碑を建立する                             昭和56年5月




石碑の裏面には川口氏系譜が刻まれています

川口氏は平安時代に西次郎宗貞の孫・次郎大夫信久(のぶひさ)がこの地に居を構えて「川口」氏を名乗ったのが始まり(川
口氏の始祖)とされるようで、これを見ると兵庫介幸季は11代です。




川口兵庫介館跡建碑委員会会員芳名
地元の方や関係者の方でしょうが、これだけの賛同者がいるということは川口氏の人徳とともに地元の誇りなのでしょう。




標柱、石碑の前や周りは畑で館跡の遺構はありませんが、石碑が建立されたことによって、ここに川口兵庫介館があったこと
の証しとして遺り続けることでしょう。




最後に標柱、石碑の後ろから

散策日:平成30年(2018)6月2日(土)

平成30年度初級歴史講座第2回「発掘成果からみた城郭の見方」

2018年07月13日 | 講演会・講座


埼玉県立嵐山史跡の博物館主催による
平成30年度初級歴史講座「戦国城館跡の見方」
第2回「発掘成果からみた城郭の見方―杉山城跡・大蔵館跡発掘調査の状況を中心として―」
講師 村 上 伸 二 氏 (嵐山町教育委員会)
日時 7月13日(金)13:45~15:30
会場 国立女性教育会館研修棟 講堂

を聴講してきました。

「杉山城問題」・「山城の教科書」として城郭愛好者は誰でも知っている杉山城の発掘成果から
「大蔵合戦の舞台となった大蔵館跡の発掘成果から
等について講義していただきました。




会場の女性教育会館講堂 このままでは殺風景なので季節の花ヤマユリを咲かせてみました(言うまでもなく合成ですが)




今回の講座資料




講座を終えてからお隣の「菅谷館跡」(続日本100名城)に寄ってヤマユリを




本郭の土塁に咲くヤマユリ




同上




同上

聴講日:平成30年(2018)7月13日(金)

梶原城(東京都八王子市)

2018年07月10日 | 100名城以外の城館跡


八王子市元八王子3丁目地内にある八幡神社境内付近に、源頼朝の近くで仕えた鎌倉初期の武将梶原景時の居城があったとさ
れます。景時の本領は相模・寒川ですが、景時の母が八王子を本拠としていた横山党・横山孝兼の娘であることから、八幡神
社付近を所領としていたようです。八幡神社は景時が勧進したと言われますので、居城とまではいかずとも居館があった可能
性は大きいようです。しかしながら、城跡とされる場所は中央自動車道建設に伴いその多くを消滅しています。そんな梶原城
跡を訪ねてみました。




八幡神社鳥居




参道にある「神木梶原杉」 景時が八幡宮を勧進した時に植えたとされ、八幡宮の神木として樹齢800年を数えたが、樹勢の
衰えから昭和47年に伐採され切り株のみが残る。




参道の突端から石階段を上がり境内へ




八幡神社 社殿  




八幡神社由緒
此の地は景時の所領ゆえ(八幡神社)を勧進し祀った 社殿が傷んだ時は造営修復したともあります




社殿右側(東側)にある祠群(境内社)背後辺りから攻めてみます
祠背後は中央自動車道に架かる陸橋に近いためかそれほどの藪ではありませんが、西に進むにつれて藪がひどくなります。




うっすらですが竪堀様の窪みが社殿背後の方に延びています




とても先に進める状態ではありません




一旦境内に戻り西から攻めてみました




竪堀様なものがありましたが城跡に関係するものかどうかかは分かりません




西側もやはりこんな状態ですから歩き回ることはできません




中央自動車道に架かる陸橋の上から西方向に  
左側が八幡神社のある部分で北側はこの自動車道で削られてしまい消滅している




北側から自動車道越しに遺っている梶原城跡を見ています




梶原城跡西端部分

以上、梶原城跡とされる八幡神社の背後の山はひどい藪状態で、遺構があるのかないのかさえも確認できない状態です。

攻城日:平成30年(2018)6月2日(金)

永林寺(東京都八王子市)

2018年07月07日 | 神社仏閣


金峰山 永林寺
永林寺は、大石源左衛門尉定久公の居館(由木城)であったものを、定久公が滝山城主として滝山城へ移るに至り、叔父であ
る一種長純大和尚に譲り、天文元年(一五二三年)三月永麟寺として創建された。その後八王子城主北条氏照公の助成を受け
て天文十五年七堂伽藍の完備された大寺院が完成された。天正十五年後陽成天皇より勅願寺の綸旨を受け護国殿の勅願を受け
る。天正十九年九月徳川家康公が当寺に巡拝された折り、朱印十石、公卿格式拾万石を授けられ、赤門の建立が許可された。
又、永麟寺の麟の文字を林に変え、現在の永林寺の寺名となり今日に至っている。又、当地域に十ヵ寺の末寺を有する。格地
本寺寺院である。永林寺には、大石家丸に三つ星、北条家三つ鱗、天皇家菊、五三の桐、徳川家三つ葵等五つ紋を有しており、
往事を偲ぶことが出来る。                              (境内掲示板より)

永林寺は、金峰山道俊院と号す曹洞宗の寺院です。上記のとおり由木城のあった地に創建されたものであり、遺構は認められ
ないものの「由木城跡」(「大石氏居館跡」の名称で八王子市指定史跡)としても知られます。




総門  徳川家康から許された朱塗りの門(赤門)で「由木の赤門」と称される  大棟に三つ鱗




山号「金峰山」(きんぽうざん)の扁額




門と筋塀




筋塀  定規筋と言われる五条の線が入っています  五条は一番格式が高い




五条の定規筋が入った筋塀  丸瓦には三つ葉葵




「総門」説明板




総門を入ると両側に十六羅漢  先に見えるのは三門




「十六羅漢」説明板
  



三門
「三門」は「山門」とも書き、同じものなのですが、微妙に違うような気がして使い分けが難しいです。
大棟の中央に五三の桐 両側に三つ鱗




寺号「永林禅寺」の扁額
元は永鱗寺であったが、1591年、永鱗寺を参拝した徳川家康は、公卿格式10万石を与えた上、赤門建立を許可。
その際に、「名にしよう、永き林なり」と賞賛し、以来「永林寺」と名を改めて今日に至るとされます。
改名の由来は他にも、10万石の御朱印に「永林寺」と書かれていたのでそれに従った。北条氏の家紋「「三つ鱗」に通ずるの
で改名した。などの諸説があるようです。




「三門」説明板




三門の両側の仁王像




中雀門(勅使門)  鬼飾りに菊紋




扉にも菊紋  




「中雀門(勅使門)」説明板
勅使門は天皇や天皇の勅使のみが通ることのできる門です。現在でも私のような一般人は勅使門から境内に入ることはできま
せん。勅使門があるお寺では、表門である勅使門は境内入口にあり、普段は閉門にして大概は門前に立入り禁止の柵が置いて
あります。ここ永林寺では開門してあり、境内の中にある門=中雀門として本堂へ向かう最後の門としているようで、勅使門
は説明板にもあるようあくまでカッコ書きです。




本堂   大棟の中央に五三の桐 両側に三つ鱗




本堂前にある「金峰山 永林寺」説明板  冒頭で、ここに書かれたものをそのまま使わせていただきました。




本堂を斜めから




本堂正面(向拝)  五三の桐、三つ鱗があちこちに




同上 アップで  ガラス戸のガラスにも五三の桐




本堂横の出入り口  破風鬼飾りに三つ鱗




「本堂(法堂)」説明板




大庫裡(香雲閣)  玄関ガラス戸に三つ葉葵  大棟・破風鬼飾りには五三の桐




「大庫裡(香雲閣)」説明板
  



鐘楼  左隣りの門には三つ鱗(貫にありますので見えませんが)




豊川殿




「豊川殿」説明板




由木豊川稲荷奥之院




お約束の六地蔵  覆屋の屋根が塩ビの波型トタンとは珍しい 他の建物がみんな立派なのでギャップを感じてしまいます




岩船地蔵




「岩船地蔵・六地蔵」説明板




本堂裏手の庭の一部




左:中雀門  中:豊川殿  三重搭




三重搭①




三重搭②




三重搭③




三重搭④




「三重搭」説明板




三重搭のある高台から境内を①




三重搭のある高台から境内を②




由木城跡の看板と由木城址碑、大石定久公像

紋に終始した説明になってしまいましたが、菊紋・五三の桐・三つ葉葵・三つ鱗といった具合にこれだけの紋を持つ(下賜さ
れた)ということは、いかに権力者とのつながりが深かったかを伺わせます。
ただ、大石氏の家紋である「丸に三つ星」だけは見つけられませんでした。もしかしたら「丸に三つ星」は個人的なことにだ
け使い、人目に触れるこうした建物に格式の高さを誇り、権威のある紋を使っているのかもしれません。(私的推測)


散策日:平成30年(2018)5月28(月)

左入城(東京都八王子市)

2018年07月05日 | 100名城以外の城館跡


往古この地に左入城があった。中丸淡路守の居城であったと伝えられている。
左入城は東西約400米、南北175米の卵形をなし、東南及び西に幅4~50米、深さ9米の空堀を巡らして、周囲は凡そ
2000米に及び、西南に鵯(ひよどり)山を望み、北に谷萩川を帯びた要害の城塞であったと古老の口碑により伝えられて
きた。
また、これより西方500米の所に淡路守居城のおり調馬の用に供した馬場の址がある。
尚、近年発見された伊能忠敬の日本地図にもこの地を「左入村中」、馬場の址を「左入村馬場谷戸」と明記されている。
右の歴史を後世に伝えるためにこの碑を建てた。

上掲『左入(さにゅう)城址碑』の碑文です。この石碑は、八王子市左入にある村内家具(現名称村内ファニチャーアクセス)
前に建てられています。
平成17年5月、村内家第17代当主村内道昌氏が自費で建立したものだそうです。




左入城の詳しい記録はなく、滝山城の出城と推察されるとの伝承があるようです。左入城の比定地としては、ここ村内家具の
ある場所以外の所もあるようですが、何れも遺構は遺っていないようです。また、中丸淡路守という人物についても不詳のよ
うです。いずれにしろ、ここに城(館)があったなんて知りませんでしたが、こうして歴史に理解を示し、石碑で遺してくれ
るとは大変ありがたいことです

散策日:平成30年(2018)6月2日(土)