四季・めぐりめぐりて

近隣の城館跡・古墳などの史跡めぐりなどをぼちぼちながらやっています

新田館(群馬県太田市)

2018年10月31日 | 100名城以外の城館跡
■ 国指定史跡 新田荘遺跡 総持寺境内 ≪3/11≫



城 名:新田館(にったやかた)
別 名:館の坊・新田義重館
形 態:居館
時 期:保元2年(1157)
築城主:新田義重
城 主:新田氏の総領・世良田氏
遺 構:-
指 定:国指定史跡(「新田荘遺跡 総持寺境内」平成12年〔2000〕11月1日指定)
現 状:総持寺
所在地:群馬県太田市世良田町(旧新田郡尾島町)

新田館は、八幡太郎義家の孫にして源義国の長男で新田氏の始祖である新田義重(源義重)が構えた館で、新田宗家代々の居
館であったと言われます。今は、館跡の一画に総持寺があるのみで遺構はないようです。




総持寺山門と鐘楼




山門を正面から  本堂と位置が一致しています




「国指定史跡 新田荘遺跡 総持寺境内」の石標




新田館跡(棒の館・總持寺」説明板




鐘楼




「総持寺の梵鐘」説明板




山号「威徳山(いとくさん)」の扁額が架かっています




境内北東隅に建っている「新田館址」の石標  8年前の平成22年(2010)4月に初めて訪れたときは気付きませんでした




総持寺境内




本堂




境内北側にある石造物群の周囲は曼珠沙華の朱色で染まっています




総持寺の北側を走っている県道142号線(東国文化歴史街道)の総持寺入口交差点の標識
寺の西側には天然の水堀である早川が流れています

新田館跡(総持寺)は今回が2度目の散策となりました。実は、1度では用が足らず2回(2日)訪ねました。まあいつもの
ことで、ここだけに限ったことではありませんが・・・、

散策日:平成30年(2018)9月19日(水)・23日(日)

笛吹峠古戦場(埼玉県嵐山町・鳩山町)

2018年10月30日 | 古戦場・陣所


名 称:笛吹峠古戦場
概 要:正平7年(1352)、新田義宗(新田義貞の三男)と足利尊氏の最終的な決着がついた「笛吹峠の戦い」が行われた場所
指 定:嵐山町指定史跡(名称:笛吹峠 昭和37年〔1962〕9月1日指定)
遺 構:―
所在地:埼玉県比企郡嵐山町・鳩山町

鎌倉街道上道の嵐山町と鳩山町の境にある笛吹峠を訪ねてみました。
何度も行ったり通っている峠ではありますが、今回は、「笛吹峠の戦い」が行われた場所という観点から。




嵐山町側から見る笛吹峠
町境が「林道将軍沢線」の終点




嵐山町側を振り返って
アスファルト舗装で整備されていますが狭い道です。ひっきりなしに車の往来があります。
道路工事をした際に人骨が大量に出土したそうですが、激戦が行われたことを裏付けているようです。




鳩山町側から見る笛吹峠




「史蹟 笛吹峠」石碑




笛吹峠の大きな標識板と説明板




標識板




  笛吹峠
笛吹峠は、嵐山町と鳩山村の境にある峠である。峠を起点として、坂東10番の岩殿観音から同9番の慈光寺観音へ続く東西の
道は、巡礼街道と呼ばれ、この峠を南北に貫く道が旧鎌倉街道で、かつて、数多くの武士団等が往き来した所であった。
正平7年(1352年)閏2月、新田義貞の三男、義宗等が宗良親王を奉じて武蔵野の小手指が原で足利尊氏と戦ったが、最終
的に結末がついたのがこの峠の地であった。新田義宗等は越後に落ちて行き、足利尊氏はこれ以後関東を完全に制圧していった。
「笛吹峠」の名称については、この敗退の陣営で、折からの月明りに宗良親王が笛を吹かれたことから命名されたという伝承が
ある。
なお、この付近は、遠く奈良時代に窯業の中心として栄え、武蔵国分寺瓦の大部分がこの付近で焼かれ、その古窯跡が虫草山を
はじめ須江・大橋・泉井などの山間部に多く見られる。
笛吹峠から、はるか北方に上州の山々、西方に秩父連山、南方に広い関東平野が遠望され、風光明媚な歴史の地である。
                                       埼玉県

関東を舞台とした足利対新田の戦いであるいわゆる「武蔵野合戦」の最終的な合戦が、ここ笛吹峠で行われたとのことす。
説明板にある上州の山々、秩父連山、関東平野は残念ながらちょっと望めない環境になって居ますが・・・




ハイキングコースでもあり、四阿、トイレも整備されています。




鎌倉街道と巡礼街道の交差状況です
南北に走るのが鎌倉街道 東西に走るのが巡礼街道




見る位置を変えて  岩殿観音方向入口から




岩殿観音方向への林道




慈光寺観音方向への林道  今も慈光寺まで続いているのかは確認していませんが




鳩山町側は「笛吹通り」と名付けられています




笛吹通りを下って行くと「至笛吹峠」の標識




「羽黒堂」(はぐれどう)  鳩山町奥田地内で笛吹峠入口に当たる場所あります
昔、お歯黒をつけた大将の首を埋めたとか、また家来とはぐれたために矢で射られた大将の首を埋めたとか色々な伝承があるようで
すが、笛吹峠の合戦とは関係なさそうです。




大橋交差点の少し手前に設置されている「鎌倉街道(上道)のみちすじ}の案内板




〇印した⑧の所が笛吹峠  右下にはイラストも

散策日:平成30年(2018)9月12日(月)

講演会「川越城の上で川越城の話をしよう!」

2018年10月29日 | 講演会・講座


『河越館の会』主催による

講演会:川越城の上で川越城の話をしよう!
日 時:平成30年10月28日(日)13:00~15:30
会 場:川越市立博物館
講 師:浅 野 晴 樹 氏(國學院大學非常勤講師)

を聴講してきました。




会場の「川越市立博物館」
この川越市立博物館は、川越城(河越城)の遺跡(二の丸跡)の上に建っています。そうした場所で、川越城に関する講話が
されることから付けられたタイトルのようです。




講演会資料(¥300)
資料にもあるよう講演会のテーマは、「重層する中世・近世の河越城 ―考古学的成果から―」です。




川越城本丸御殿  時間の余裕があれば御殿内を見学したかったのですが・・・




「川越城跡」としては県指定史跡  「川越城本丸御殿及び家老詰所」の2棟は県指定有形文化財  となっています
現存する本丸御殿は、高知城の本丸御殿とここ川越城の本丸御殿の二つしかありません。




この「川越城図」は、川越城後期の縄張りでしょうね。

聴講日:平成30年(2018)10月28日(日)

平成30年度歴史講座「戦国の城館」第4回

2018年10月27日 | 講演会・講座


埼玉県立嵐山史跡の博物館主催による
平成30年度歴史講座「戦国の城館」
第4回 鉢形城と北条氏邦
講師 石 塚 三 夫 氏 (鉢形城歴史館長)
日時 10月26日(金)13:45~15:30
会場 国立女性教育会館研修棟 講堂

を聴講してきました。
平成30年度歴史講座は今回が最終回でした。




いつもの会場の国立女性教育会館研修棟 講堂




女性教育会館構内の木々もだいぶ色づいてきています




今回の資料




今回のテーマの「鉢形城」の三の曲輪




二の曲輪(左側)と三の曲輪(左側)の間の空堀




三の曲輪(左側)と二の曲輪(左側)

聴講日:平成30年(2018)10月26日(金)

北野天神社(埼玉県所沢市)

2018年10月25日 | 神社仏閣


埼玉県所沢市小手指元町3-28-44に鎮座する北野天神社(きたのてんじんじゃ)を参詣してきました。
正式名称は名称は物部天神社・國渭地祇神社・天満天神社であり、その総称として「北野天神社」と呼称されています。
境内には歴史上の有名人にまつわるものが複数あります。

【北野天神社の由緒】

北野天神社は、景行天皇40年日本武尊東夷征伐の際に建立した物部天神社(延喜式内社)に比定され、さらに国渭地祇神社、
出雲祝神社の延喜式内社3社を併せ祀っているといいます。欽明天皇12年には武蔵野小手指原の霊神及び日本武尊を合祭、
長徳元年(995)には、菅原道真の子孫・武蔵国司菅原修成が京都北野天神を勧請し、坂東第一北野天神と称して祀るように
なったといいます。その後戦火により衰廃したものの、天正19年(1591)に前田利家が再興、徳川家康より社領8石の御朱
印状を拝領、慶安2年(1649)には社領50石へ加増されたといいます。明治5年郷社に、明治34年には県社に列格、大正
元年9月に富岡村の小手指神社と稲荷神社を合祀したといいます。  (「猫の足あと 埼玉県寺社案内」より引用)




西側参道
「縣社 北野天神社」の社号標  縣社は旧社格で現在は廃止されている




北野天神社説明板




石灯篭の並ぶ参道




西側参道を進むと拝殿正面に対して90度横向きとなります




南側参道  こちらがいわゆる表参道のようです




北野天神社略記




一の鳥居  神額は「北野宮」




二の鳥居  神額は「北野天満宮」
この鳥居の後は石灯篭。石碑が多雨並ぶ参道を通り社殿正面に




拝殿正面
左側の参道が西側参道




ちょっと近づいてみました  狛犬は石灯籠の陰で写っていません  
普段から狛犬には関心がありませんので気にもしていませんから(今のところは)




北野天神社とは、物部天神社・国渭地祇神社・天満天神社3社の総称




拝殿 ここ北野天神社の社紋は前田家の家紋の「加賀梅鉢紋」 前田利家が再興したためでしょうか

天満宮や天神社といった菅原道真を祀った神社の社紋は梅紋が大半のようです。しかし、菅原道真の家紋が梅紋であったと云
うことではないようです。道真の家紋がどんなものであったかはわかりませんし、まだこのころは家紋というものがなかった
時代でもあります。後世、菅原を名乗るものが梅紋を使うようになったようです。
道真といえば「東風吹かば匂い起こせよ梅の花 主なしとて春な忘れそ」の歌があまりにも有名で、道真イコール梅の花という
イメージから梅紋を使っているようです。一般的に天満宮の総本社とされる太宰府天満宮の社紋は「梅花」北野天満宮は「星
梅鉢」。ちなみに東京の湯島天神も「加賀梅鉢」です。




拝殿と本殿を横から




手水舎




北野地名由来の碑と大納言梅




石碑裏面の北野地名由来記 
   
簡単に言うと京都の北野天満宮の分霊を坂東第一(坂東で最初に)で祀り北野天神社と称したことから地名が北野となったと
いうことのようです




大納言梅 - 天正18年(1590)前田利家献栽、現在は二代目
当時の前田利家献の官職が大納言であったことに由来する名のようです
菅原道真の子孫 まあ自称でしょうね




宗良親王遺跡

説明板にある正平7年の正平とは南北朝時代の南朝が使用した元号で、文和元年(1352)と同一ですが、この年に行われたの
は武蔵野合戦です。小手指ヶ原合戦はそれより前の元弘3年(1333)行われた新田義貞と鎌倉幕府との戦いで、この戦いによ
って鎌倉幕府は滅びましたが宗良親王はこの戦いには絡んでいません。
敢えて「小手指ヶ原合戦の御在陣跡」としたのは、すぐそばが小手指ヶ原であり、武蔵野合戦(足利尊氏と新田義宗との戦い)
と言う一連の合戦の中において、小手指が原で合戦が行われておりますので、その際の陣場と言う意味でのことと善意に解釈
します(とは言え、誤解を与えることは確かです)




宗良親王 於小手指原作歌

  「君のため 世のためなにか をしからむ すててかひある 命なりせば」と刻まれている




左卜全芸道碑

碑文には、「常道の芸では先がしれてる されば 道遠き苦難のみちを求めん」と刻まれています。
左卜全(1894~1971)は、ここ小手指北野の出身の俳優、オペラ歌手で、晩年の《ズビスバー パパパヤー やめてケレ やめて
ケレ やめてケーレ ・・・》と言う歌詞の「老人と子供のポルカ」が有名です。




尊桜(みことざくら)

日本武尊が東征の折、お手植された桜で、4度目の蘖生(ひこばえ)といいます。
手前の歌碑は享和2年(1802)に建立 
  「そのかみや 移しうへけん むさしのに にゐばりやまの 桜ひと木を」と刻まれているようです。




力石




境内社  石宮神社    これ以降も境内社の紹介ですが境内社の表現は省きます




小手指神社




小手指神社説明板




小手指神社社殿前にある「航空神社跡」の標柱  以前ここは航空神社だった?




稲荷社(左)と八雲社(右)




同上




文子天神社(はた神様)




諸神宮




諸神宮説明板




神楽殿

歴史上の人物の名が沢山出てきましたね。日本武尊、源頼朝、宗良新王、前田利家、徳川家康、左卜全など
中にはここで初めて知った名もありましたが・・・

参詣日:平成30年(2018)8月19日(日)

入間川御所(埼玉県狭山市)

2018年10月23日 | 古戦場・陣所


名 称:入間川御所
別 名:入間川御陣、入間川陣城
形 態:陣所
時 期:正平8年/文和2年(1353)
築城主:足利基氏
城 主:足利基氏
遺 構:―
指 定:―
現 状:徳林寺ほか
所在地:埼玉県狭山市入間川2丁目付近

入間川御所とは、正平8年/文和2年(1353)に鎌倉公方足利基氏が武蔵国入間郡入間川に設置した宿営地で、観応の擾乱後に
上杉氏勢力に対抗するため、9年間(12歳頃~18歳頃まで)にわたって鎌倉府がこの地に移されました(薩埵山体制)。
入間川御所が設けられることになった詳細については省略しますが 入間川御陣の正確な所在地は不明のようで、現在の埼玉県
狭山市入間川にある徳林寺付近から狭山八幡神社付近など数箇所が候補に挙げられているようです。
そんな入間川御所の候補地とされる徳林寺・八幡神社を訪ねてきましたが、場所の確認はできたものの遺構があるわけではあ
りませんので、いつものように社寺めぐりの形になってしまいました。




霞野交差点から狭山市駅寄りの最初の路地にある徳林寺入口の看板




徳林寺裏門




筋塀に沿って行くと




山門(楼門)の前にでます  お約束の六地蔵尊も入れておきました




山門  山号「福聚山」の扁額がかかっています




本堂




寺号「徳林寺」の扁額
大香炉と本堂入口のガラス戸に「五三の桐紋」 徳林寺は曹洞宗のお寺ですので、曹洞宗の宗紋(総持寺の桐紋)かと思いま
したが曹洞宗の宗紋は「五七の桐紋」ですからちょっと違いますね。ということは徳林寺の寺紋?




社務所・客殿・庫裡




地蔵六角堂




鐘楼




徳林寺の文化財案内板




薬師堂




徳林寺不動尊と観音堂への階段
徳林寺墓地裏の高所にあります。徳林寺の看板の所を本堂方向に来ず、その坂道を登ったところにあります。




参道ふたつ目の石段




徳林寺不動尊(福徳院)




観音堂と大観世音菩薩像  大観世音菩薩像の背後に市立図書館があります




同上




徳林寺の中興開基綿貫家の墓所。綿貫家は江戸時代に栄えた豪商




徳林寺不動尊境内から徳林寺本堂を見下ろす

河岸段丘の要害地形のこの場所は、今は高い建物が建っていますので街道や入間川は見えませんが、往時は良く見渡せたこと
でしょうから陣所として適していたでしょう
徳林寺不動尊境内から徳林寺本堂方向を見下ろしています




徳林寺とともに入間川御陣の候補地とされる(狭山)八幡神社
八幡神社社殿  境内には八幡神社の他にも数社が祀られています
ここも高台に位置しますのでやはり陣所に向いているかもしれません




史蹟 新田義貞駒繋ぎの松  (愛馬を繋いでおいた松)
足利基氏が入間川御陣を構える以前の元弘3年の元弘の乱のとき、新田義貞がここ入間川を陣所にしていたようで、鎌倉幕府
軍との小手指ガ原の戦いで決着がつかず一旦入間川に退陣したといわれています。
義貞が八幡神社を参拝の折に駒を繋いだようです。

神社を見て回ることが主目的ではなく、陣所跡推定地の確認ですので神社の縁起や他のの神社は載せていません(手抜きです)

散策日:平成30年(2018)8月19日(日)・29日(水)

女影ヶ原古戦場 (埼玉県日高市)

2018年10月21日 | 古戦場・陣所


名 称:女影ヶ原古戦場(おなかげがはらこせんじょう)
概 要:建武2年(1335)北条家の再起をはかり北条時行が信濃で挙兵、鎌倉へ進軍。これを食い止めんと渋川義季ら足利方
    の軍勢が女影ヶ原で時行軍と対陣しますが大敗して渋川義季らは自害したという。「 中先代の乱」と言われる一連の
    戦いの中のひとつとなった古戦場
指 定:県指定旧跡(女影原古戦場の名称で 昭和36年〔1961〕9月1日指定)
遺 構:―
所在地:埼玉県日高市女影 霞野神社周辺

■鎌倉時代 
 鎌倉時代になると鎌倉幕府は兵員馬匹を鎌倉に集めるために街道の整備を行ないました。この街道は鎌倉から関東諸国・信
濃・越後・陸奥方面に向かっており、上道(かみつみ))・中道(なかつみち)・下道(しもつみち)・秩父道などと呼ばれ
ていました。日高市内を通っているのは上道で、大谷沢から女影を通り駒寺野新田へ通じています。中世を通じて鎌倉街道沿
いは数多くの合戦の舞台となりました。
 南北朝時代の建武2年(1335)7月、鎌倉幕府の復興を願う鎌倉十五代執権北条高時(ほうじょうたかとき)の遺子時
行(ときゆき)は、信濃で諏訪頼重(すわよりしげ)らに擁立され挙兵、建武の新政に不満を持つ武士と合流しながら鎌倉街
道を南下鎌倉を目指しました。そして7月22日、それを阻止しようとする足利直義(あしかがただよし)軍と初めて合戦に
及んだのが女影原でした。
 この戦で時行軍は直義軍に勝ち、その後も小手指原・府中などでも直義軍を破り7月25日に鎌倉を占領しました。この一
連の戦乱を「中先代の乱(なかせんだいのらん)」といいますが、僅か20日程度で足利尊氏に攻められ、時行は鎌倉から敗走
しました。
                                 【日高市ホームページ「日高の歴史」から】

この女影原の合戦の場となったのが、現在の霞野神社周辺と言われております。そんな古戦場跡とされる霞野神社周囲と鎌倉
街道上道を散策してきました。




県道川越日高線(埼玉県道15号線)の「女影」交差点から霞野神社(女影ヶ原古戦場跡)方向へ向かいます




鎌倉街道上道の緩い坂道を行くと、下小畔川に架かる「諏訪橋」です。
霞野神社の旧称が諏訪神社であったことに由来する名でしょう。




諏訪橋の傍に、諏訪橋改築記念碑(左)と享保18年(1733)の日本廻国供養塔(右)が建っています。




霞野神社の森です




霞野神社鳥居の前は五差路になっています(この写真では1本は隠れてしまいましたが)
鎌倉街道上道はこのまま真っ直ぐに進みます




霞野神社参道前

霞野神社は元は諏訪神社といい女影の村社でしたが、明治39年(1910)10月、埼玉県指令により旧女影村一帯の神社を合
祀して新たに建てられた神社です。この合祀記念碑が拝殿前に建立されています(後述)

このような村の周辺の社を合祀した例としては、やはり鎌倉街道沿いにある比企郡小川町奈良梨の八和田神社(奈良梨陣屋跡)
も元諏訪神社で、八か村が合併して八和田村となったことから八和田神社に改称しています。




霞野神社の社号標  旧社格の村社の部分セメント?で埋めて消してありますが逆に目立っています




神額「霞野神社」




参道から社殿を




手水舎と霞野神社社務所
手水鉢は、安政4年(1857)3月と安政6年(1859)3月に奉納されたものふたつが並んでます。




拝殿 




扁額{霞野神社」




社殿の斜め後方に神社東側の道路に向って建てられている石標




「史蹟 女影原古戦場趾 埼玉縣」と刻まれているの石標
刻まれた文字が浅くなって読み辛くなっています。




拝殿石垣前に設置されている説明板




女影ヶ原古戦場跡 と 鎌倉街道  の説明文のアップ
 



説明板にある 「霞野神社の本殿 付 剣道の懸額」
社殿の右側面にある2枚の懸額のうち左側のものが、文久元年(1861)4月穀日に、甲源一刀流の比留間和十郎源信治の門弟
が奉納したもの。




境内末社




宝物殿




女影ヶ原一ノ宮 霞野神社合祀記念碑




霞野神社合祀記念碑の裏面

合祀誌 女影ヶ原一ノ宮 旧名 諏訪明神
明治43年10月5日埼玉県指令により旧入間郡高萩村大字女影字諏訪山444番地鎮座諏訪神社同443番地琴平神社同字宿
西八幡神社三柱神社八雲神社同字小河原天神社稲荷神社同字北竹ノ内825番地白髭神社同字山神社同村大字中沢栁久保221
番地白髭神社同字宿方愛宕神社同西腰金山神社同字森ノ腰白山神社同山下滝神社の各社をもって明治43年10月17日大字女
影諏訪山444諏訪神社に合祀社號を霞野神社と改称した
    昭和50年4月15日   霞野神社氏子中




拝殿前から鳥居方向を見ています
この境内を含む一帯が女影ヶ原の戦いの場となったのでしょう




霞野神社鳥居前の鎌倉街道上道と、右に分かれる道との間のごみ収集所の脇に道標を兼ねた「大乗妙典碑」があります。




判読が困難な状態になっていますが、「左 入間川 所沢みち  右 あうぎ町谷 八王子道」と刻まれているようです。

散策日:平成30年(2018)8月29日(水)・9月3日(月)

堀兼の井(埼玉県狭山市)

2018年10月19日 | 史跡・遺跡・文化財


名 称:堀兼の井(ほりがねのい)
概 要:「ほりかねの井」の一つと考えられていますが、これを事実とすると、掘られた年代は平安時代までさかのぼる。
    直径7.2メートル、深さ1.9メートルの井戸の中央には石組の井桁がある  
指 定:県指定旧跡(昭36年〔1961〕9月1日指定)
遺 構:中世井戸
所在地:埼玉県狭山市堀兼2220番地 堀兼神社

■堀兼之井
堀兼之井は、堀兼神社の境内にあります。直径7.2メートル、深さ1.9メートルの井戸の中央には石組の井桁がありますが、現在
は大部分が埋まっており、その姿がかつてどのようであったかは不明です。この井戸は北入曽にある七曲井と同様に、いわゆる
「ほりかねの井」の一つと考えられていますが、これを事実とすると、掘られた年代は平安時代までさかのぼることができます。
井戸のかたわらに2基の石碑がありますが、左奥にあるのは宝永5年(1708)3月に川越藩主の秋元喬知が、家臣の岩田彦助に
命じて建てさせたものです。そこには、長らく不明であった「ほりかねの井」の所在をこの凹おう形の地としたこと、堀兼は掘
り難がたかったという意味であることなどが刻まれています。しかし、その最後の部分を見ると、これらは俗耳にしたがったま
でで、確信に基づくものではないともあります。手前にある石碑は、天保13年(1842)に堀金(兼)村名主の宮沢氏が建てたも
ので、清原宣明の漢詩が刻まれています。
それでは、都の貴人や高僧に詠まれた「ほりかねの井」は、ここにある井戸を指すのでしょうか。神社の前を通る道が鎌倉街道
の枝道であったことを考えると、旅人の便を図るために掘られたと思われますが、このことはすでに江戸時代から盛んに議論が
交わされていたようで、江戸後期に編さんされた『新編武蔵風土記稿しんぺんむさしふどきこう』を見ても「ほりかねの井」と
称する井戸跡は各地に残っており、どれを実跡とするかは定めがたいとあります。堀兼之井が後世の文人にもてはやされるよう
になったのは、秋元喬知が宝永5年に石碑を建ててから以後のことと考えられます。
                            【狭山市ホームページ「指定文化財」の中から引用転載】

上記解説にもあるよう堀兼の井は堀兼神社の境内にありますので、堀兼神社の簡単な紹介から入っていきたいと思います。




堀兼神社の前を通るのは鎌倉街道の枝道である堀兼道




社号標
堀兼神社の旧社格は村社であったはずですが、社号標には郷社と刻まれています。明治時代初期の一時期だけ郷社であったよ
うです。しかし、この時の社名は浅間神社だったようです。




鳥居は、一の鳥居、二の鳥居とあり、何れも神額には「堀兼神社」とあります。
一の鳥居は両部鳥居、二の鳥居は稲荷鳥居(自信ない)のようです。




手水舎




堀兼井の説明の掲額ですが完全に読めなくなっています




 堀 兼 神 社    
                            所在地  狭山市大字堀兼2221
堀兼神社の祭神は木花咲耶姫命で、合祀神として大山咋命ほか五神を祀る。
社伝によると、景行天皇の40年に日本武尊が東北のえぞ征伐の帰途この地に立ち寄ったところ、土地の人々が旱害に苦しんで
いるのを見て、富士山に祈願したら、たちまち清水が湧きだした。そこで土地の人がこのゆかりの地に浅間神社を創建したのが
始まりだという。 
その後、江戸時代に至って慶安3年(1650)、川越城主松平伊豆守信綱が深くこの神社を崇敬し、家臣の長谷川源衛門に命
じて社殿を再建させた。
明治維新後は「堀兼浅間神社」と称していたが、明治5年に村社となり、同40年から同42年にかけて村内の神社12社を合
祀し、社名を現在のものに改称した。
境内にある「堀兼の井」は武蔵野の高燥台地の飲料水井戸として古くから有名であり、県指定舊蹟。またバラモミは県の天然記
念物に指定されている。
なお、堀兼神社の社叢は、昭和58年にふるさと埼玉の緑を守る条例に基づく「ふるさとの森」の指定を受けている。
  昭和60年3月
                                  埼玉県・狭山市





随身門  二神像の写真も撮るには撮ったのですが、失敗作ですので載せません。




随身門及び二神像の説明板




随身門を抜けて石階段を上ります




堀兼神社 拝殿
元々は富士塚で浅間社であったようです




この説明板にも、堀兼神社(富士浅間社) とあります




境内社の日枝神社

社殿の前に「下浅間神社の石碑」と「一合目の合目石」がありますので、てっきり下浅間神社と思ってしまいます




左側に随身門からの石階段都は別の登り道があります




境内社  他にもありましたが省略します




御神木 その1




御神木 その2  御神木は2本あります




堀兼の井  堀兼神社社殿に向かって左側にあります




「堀兼の井」説明板




「堀兼井」詩碑  天保13年(1842)に堀金(兼)村名主の宮沢氏が建てたもので、清原宣明の漢詩が刻まれている。
恥ずかしながら私には読めません




堀兼の井  通王の四角の部分が石組みの井桁部分でしょうが残念ながら草に覆われて




同上




同上




「井磧の碑」 宝永5年(1708)3月に川越藩主の秋元喬知が、家臣の岩田彦助に命じて建てさせたもの。
これも私には読めません




全体を撮ろうと神社の斜面に上がったのですが、枝が邪魔をして

以上、こんな拙い説明だけでは「堀兼の井」、「堀兼神社」については語り切れません。もっと沢山の情報がありますので興
味のある方は個々に調べて見て下さい(今回も手抜きです)

散策日:平成30年(2018)9月5日(水)

七曲井(埼玉県狭山市)

2018年10月17日 | 史跡・遺跡・文化財


名 称:七曲井(ななまがりのい)
概 要:漏斗状井戸の遺構。建仁2年掘鑿と伝える。昭和45年に発掘復原。
    発掘調査で確認された元の大きは 直径20m余深さ10m。  
指 定:県指定史跡(昭24年〔1949〕2月22日指定)
遺 構:漏斗状井戸
所在地:埼玉県狭山市北入曽1366

七曲井については看板等を見たりして存在自体は知っていましたが、今回初めて訪ねてみました。




常泉寺の観音堂前の「七曲井」入口の標識




観音堂裏右手に建てられている「埼玉県指定史跡 七曲井」の看板と「七曲井」碑




「七曲井」碑




「七曲井水神宮」 井戸だけに水の神様




「七曲井」 保護のため囲繞されています




「七曲井」説明板




図面部をアップで




ほぼ全体を東北東側から




東側から




南側から




井戸枠をアップで




北側から




見学場所にある説明板




上の全体の写真では文字が小さく読むのに苦労しますので説明文部をアップで




七曲井の南側を流れる不老川




折角ですから観音堂を   七曲井はこの観音堂の裏にあります




観音堂横不老川際にある説明板ふたつ




「常泉寺の観音堂・不老川」説明板




「木造聖観世音菩薩坐像」説明板




石造物




入間川に架かる入曽橋から七曲井の方向を




入曽橋から南方60m位にある入間野神社の前に設置されている「鎌倉街道(上道)のみちすじ」の案内板




矢印した③の所に「七曲井」があります
何とイラストまであります。この案内板に載っている史跡寺社等はかなりあります(数えてはいません)が、イラストまで載
っているのは僅かですから、言わば選ばられた存在かも知れません(笑)

散策日:平成30年(2018)9月5日(水)

講演会「藤原から平城へ 平城遷都の謎を解く」

2018年10月14日 | 講演会・講座


独立行政法人国立文化財機構 奈良文化財研究所主催による

 奈文研第10回東京講演会
  藤原から平城へ 平城遷都の謎を解く

 2018年10月13日(土)午前10時~午後4時
 有楽町朝日ホール 東京都千代田区有楽町2-5-1 有楽町マリオン11F

が開講されましたので聴講してきました。

この東京講演会は、関西を中心に活動している奈良文化財研究所(奈文研)の調査・活動内容の成果を、広く東日本の皆さん
にも紹介しようと始められたもので、今回が10回目とのことですが、初めての聴講でした。




講演会資料(¥500・購入は任意)
この資料の内容に沿って講師の先生方の講演がありました




海野氏は、この講演会の告知があった時点では奈良文化財研究所の職員でしたが。9月に退職し、この10月から現職。




有楽町朝日ホールのある有楽町マリオン




日比谷見附跡
余裕を持って出かけたら早く着きすぎてしまいましたので、近くの日比谷公園まで・・・2、3歩足を踏み入れただけですが




心字池




仙台藩祖 伊達政宗 終焉の地
ここが仙台藩の外桜田上屋敷のあった場所で、政宗は江戸参勤の折、寛永13年(1636)5月、ここで70歳の生涯を終えた。

と、ほんの僅かな散策をして会場に戻ったときは既に長い列ができていました。早々に定員に達する申し込みがあったようで、
会場内は満杯でした。早めに申し込んで正解でした。

聴講日:平成30年(2018)10月13日(土)