四季・めぐりめぐりて

近隣の城館跡・古墳などの史跡めぐりなどをぼちぼちながらやっています

比企歴史の丘巡回文化財展 比企の近代遺産

2021年08月31日 | 企画展・見学会

                            蔵風造りの【文化伝習館】
比企歴史の丘巡回文化財展  比企のタイムカプセル20
比企の近代遺産

全体期間 
 令和3年8月24日(火)~11月28日(日)
 ※但し8月24日(火)~8月29日(日)嵐山町ふれあい交流センター(嵐山会場)
  は緊急事態宣言発出により、開催は中止になりました。
主 催 
 比企地区市町村教育委員会連合会
 比企地区文化財振興協議会
 埼玉県立嵐山史跡の博物館

内 容
 比企歴史の丘巡回文化財展は、今年で20回の節目を迎えます。今回は「比企の近代遺産」をテーマに、身近に
残る近代の遺産から、「比企地域の近代」を紹介します。
 江戸時代の日本にとって、黒船来航は大きな衝撃でした。欧米列強との圧倒的な力の差を痛感した日本は、欧
米列強に並び、追い越すために、これまでの国の制度や生活様式を根本から作り変える大改革に着手します。欧
米由来の最新技術や文物と、日本が培ってきた技術・経験とが合わさった結果、この時代の日本にしか存在しな
い貴重な品や技術の数々が生み出されました。
 欧米列強と立ち並ぶということは、日本が世界情勢に巻き込まれていくということでもあります。度重なる不
況や国家間の戦争に直面する中で、日本に生きる人々の生活様式や道具、建造物に至るまで、目まぐるしく変化
していきました。
 現在の生活がどのように形作られ、今に至るのかを語る資料の一端は、今も身近に残されています。本展が身
近に残る近代の足跡に目を向け、先人が尽力して遺したものを後世に守り継ぐきっかけとなれば幸いです。
            《埼玉県立嵐山史跡の博物館HP 巡回文化財展「 比企のタイムカプセル 」より》


上記の通り最初の会場の予定であった嵐山会場での開催が中止になりましたので、8月31日(火)~
9月5日(日)までの東秩父村和紙の里ふるさと文化伝習館(東秩父会場)での開催が実質最初の開
催場所となりましたので、早速、初日である本日見学に行ってきました。多分見学者第1号?
展示と言っても、対象が建築物だけに実物の展示は不可能ですので写真のパネル展示です。


                                    展示の一部

この比企歴史の丘巡回文化財展  比企のタイムカプセルは、縄文・弥生・古墳時代から奈良・平安
時代、中世と下がってきてとうとう近代にまで来てしまいました
その間には、建造物や天然記念物・名勝などをテーマにした文化財展もありましたが・・・

展示内容は次の通りですが、展示対象の中で自前の写真があったもの幾つかを挿入しておきます

近代教育施設~国民教育制度の確立~


                      大河小学校腰越分校(現・埋蔵文化財整理室)【小川町】

日本赤十字社埼玉県支部旧社屋~近代建物の保管~


                            日本赤十字社埼玉県支部旧社屋【嵐山町】

橋と砂防~交通・土木の進歩~
身形神社と成福寺~神仏分離~


                                   身形神社【東秩父村】

青い目の人形~日米交流~
旧遠山家住宅~近代和風建築~
石 倉~大谷石の流通~


                              旧たばこ専売事務所石倉【小川町】

水府門樋~近代化を支えたレンガ~
玉成舎~養蚕業の進展~

 
                                 玉成舎主屋・石倉【小川町】
各市町村ごとの展示期間・会場
嵐山町ふれあい交流センター◆
 8月24日(火)~8月29日(日)

※緊急事態宣言発出により、嵐山会場での開催は中止
◆東秩父村和紙の里ふるさと文化伝習館◆
 8月31日(火)~9月5日(日)
◆東松山市埋蔵文化財センター◆
 9月7日(火)~9月12日(日)
◆鳩山町多世代活動交流センター美術展示室◆
 9月14日(火)~9月19日(日)
◆ときがわ町活き生き活動センター◆
 9月22日(水)~9月26日(日)
◆川島町役場多目的ホール◆
 9月28日(火)~10月3日(日)
◆小川町立図書館◆
 10月5日(火)~10月10日(日)
◆滑川町エコミュージアムセンター◆
 10月12日(火)~10月17日(日)
◆吉見町埋蔵文化財センター◆(入館料300円)
 10月19日(火)~10月24日(日)
◆嵐山史跡の博物館(会場:講座室)◆
 10月26日(火)~11月28日(日)

見学日:令和3年(2021)8月31日(火)

九月の空

2021年08月24日 | エトセトラ


高橋三千綱さん死去を知ったのは昨日のネットのニュースでした。
昭和23年(1948年)1月生まれの方ですからまさに団塊の世代の作家です。
この単行本も他の本と一緒に数年前に段ボール箱に詰めてしまいましたが、写真が撮ってありま
した。
多分、発刊になってすぐに購入して読んだと思います。
このころ夢中で小説を読み漁っていましたので、下の記事にある村上龍さん、三田誠広さん等の
作品も読んでいます。
但し、昔のことで内容は全く記憶していませんが・・・
「九月の空」というこのフレーズは、このブログでも何回か使わせていただきました。



高橋三千綱さんのご冥福をお祈りいたします 合掌

慈光寺の芭蕉句碑(埼玉県ときがわ町)

2021年08月21日 | 歌碑・句碑


 句 : あかあかと 日はつれなくも あきの風
     (あかかと ひはつれなくも あきのかぜ)

出 典: 『奥の細道』  元禄2年(1689)芭蕉46歳の時の句
所在地:埼玉県比企郡ときがわ町西平(旧・都幾川村) 慈光寺山門跡地青石塔婆群
建立日:不詳
建立者:東都宗明?



【碑陰】
  當山九十四世之時
    東都⊡⊡坊
       建之




芭蕉の句碑は、この慈光寺山門跡地青石塔婆群の中に建立されています
『青石塔婆』の名称で、埼玉県指定有形文化財(考古資料)となっています

散策日:令和3年(2021)6月13日(日)

企画展「実相 忍びの者」

2021年08月15日 | 企画展・見学会


埼玉県立嵐山史跡の博物館
 令和3年度企画展:実相 忍びの者
           命により、戦国の闇に生きた者たちがいた
 会 期:令和3年8月7日(土)~令和3年9月20日(月)
を見学してきました。

音もなく忍び入り、目的を遂げ風のように消える
戦国の世、忍びは敵城・敵陣に潜入し、乗取り、放火を行い、敵の趨勢をも左右した。
しかし、忍術や手裏剣を使う姿は後の創作といわれている。
本展では、初めて戦国の忍びの実態や特殊武器を明らかにし、その実相に迫る。

【展示内容】 ☆戦国の忍びの正体に肉薄!
       ☆忍びの里はどこに?葛西城で戦った忍びたち
       ☆羽生城で戦った忍びー「夜わざ鍛錬の者」とは!
       ☆戦国の忍びの特殊武器に迫る!手裏剣のルーツとは?
                     〈以上チラシ裏面から〉

    



博物館の入口を入ると忍びの者が迎えてくれました




国指定史跡菅谷館・県立嵐山史跡の博物館の館主とも言ってもよい(畠山)重忠公の挨拶文




今回も図録(¥400)を購入してきました

展示品の忍びに関する書物の原文は当然ながら釈文も私には読めませんでした。読み下し文があれ
ば助かったのですが、そうなると大変な手間と量の展示になってしまいますので無理でしょう。
暇を見て図録の解説を読みましょう。
展示品については個人蔵のもの等の関係から撮影は禁止されています。

※入館に際しては、新型コロナ感染防止対策の観点から、マスク着用、手指消毒、検温、入館者カ
ードの提出などが必要となります。

観覧日:令和3年(2021)8月14日(土)

女人堂・女人道(埼玉県ときがわ町)

2021年08月13日 | 官衙・国分寺・廃寺跡


名 称:女人堂(にょにんどう)・ 女人道(にょにんみち)
形 態:御堂・巡礼道
選 定:埼玉県選定重要遺跡(名称:旧慈光寺跡 昭和51年〔1976〕10月1日選定)
所在地:埼玉県比企郡ときがわ町西平(旧・都幾川村)

ときがわ町(旧・都幾川村)西平にある天台宗の寺院「都幾山一条法華院慈光寺」は、1300年の
歴史を持つ埼玉最古の寺院で、坂東三十三観音霊場第九番札所になっています。
観音堂や本坊とその周囲は何度が訪ね歩きましたが、『女人堂』については通りすぎていました。
今回はその女人堂と女人道を散策してみました。

女人堂とは女人禁制の地で、女性が参籠 して読経や念仏をすることができるよう結界の外に設けら
れた堂。




大野東松山線(県道172号)を堂平山方向に進み「宿」交差点を右折し慈光寺方向に行くと少しし
たところで追分になります。
左を進むと霊山院に通じ、右が慈光寺坂ですが、上まで行けば合流しますのでどちらから行っても
霊山院・慈光寺に行けますが・・・




この左側の道を行ったことがなかったので少しだけ歩いてみました




慈光寺川に架かる橋のたもとに「八臂弁財天(はっぴべんざいてん)石仏」があります




八臂弁財天石仏の背後から女人堂方向を




大きな「女人堂」石碑  右にある石標には「九丁目」と刻まれていますがこれは何を意味するの
でしょうか?
ここは「山の上り初めの一町(一丁)にあり」と言われる場所なのですが
【新編武蔵風土記稿】による慈光寺の縁起(平村)には、「慈光寺 慈光山の上にあり、麓より登
ること九丁餘なり、・・・」とあるそうですのでこれと関係あるのかも知れません




『女人堂』境内




石造物  中には「光明真言」と刻まれたものもあります




【国宝「慈光寺経」装飾法華経提婆多品】説明板

2段目に
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 諸説伝承によると、この女人堂も平安初期において、女人禁制のため、慈光坂途中に建立されて
いました。女人信仰の御堂として世々、増改築や移設もされ、この地元住民の遠きし親達の誠実な
祈り尊き志により護られ維持されてきました。
 このたび、山頂の慈光寺に伝来する国宝「「慈光寺経」の内、金泥文字の剥落はあるもののほぼ
完全な姿で伝えられてきた「装飾法華経提婆多品第十二」を拡大陶窯焼成して、諸衆の祈念に、と
りわけ女性の幸せのために掲立しました。
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とあります




『女人堂』
上掲の【国宝「慈光寺経」装飾法華経提婆多品】説明板にあるよう、元々、女人堂は慈光寺坂途中
に建立されていたものが時を経てここに移設されたとあります。いろいろと調べてみると、
女人堂の創立は、宝永5年(1708)・ 再建 文化3年(1806) で  
現在の地に移転したのが 明治30年(1897) とのことです




扁額【女人堂】  慈光寺第百〇六世大僧正頼憲 揮毫




格子の隙間から堂内を覗かせていただきました
厨子の背後に掲げてあるのが「装飾法華経提婆多品第十二」を拡大陶窯焼成したもののようです




【入比坂東三十三ヶ所観音札所 一番都幾山女人堂】
入比坂東三十三所観音霊場とは、入間郡越生町・比企郡(ときがわ町・鳩山町・嵐山町)にある
33寺院を巡る観音霊場で、享保年間(1716-36)に開創したといわれます




慈光坂を上がって行って暫くすると【僧坊跡】と刻まれた石標がある平場があります
その名の通り僧坊があった場所で慈光寺には隆盛時には75の僧坊があったと言われます
特にこの付近に多くあったようで、僧坊跡とみられる平場が見られます

「現慈光寺を中心に一山七五坊の痕跡が明らか。約150haの範囲に130ヶ所余りの削平地が僧坊跡
として雛壇造成されている。平安時代から江戸時代までの遺物が山内に散布する。ところにより礎
石あり」ということから
『旧慈光寺跡』の名称で 昭和51年(1976)10月1日 埼玉県選定重要遺跡に選定されています




【都幾山慈光寺案内図】 (一部加筆してあります)
本坊下の駐車場に設置してあるもので、元禄10年の絵図面を基にしたようですが、当時の参道と
現在の参道(車道)では若干の相違があると思われます
山一帯に僧坊等があったのがこの絵図からも窺い知れます
なお、(県指定重要遺跡)と書かれていますが、これは正しくはありません
埼玉県の文化財(史跡関係)の指定区分は「県指定史跡」、「県指定旧跡」があり、その下位に
「県選定重要遺跡」がありますが県指定重要遺跡というのはありませんので、上にも書いたように
「県選定重要遺跡」が正しい呼称です
まあ、案内図ですし、一般の方はそこまで気にはしないでしょうが・・・




元々の『女人堂』があったと伝わる場所です
色々と調べた結果、ここが女人堂のあった跡地の平場だろうと思うに至りましたが、正直、自信は
ありませんでした




女人堂があったと思われる平場を歩いていて見つけました
この写真では汚れがないように見えますが、見つけたときは落葉や泥がこびり付いていましたので
落葉をのけてティッシュペーパーで拭いたものの汚れは落ちませんでした。幸いウエットティッシ
ュも携帯していましたのでそれで拭き落とし文字が読める状態にしたものです(どうでもいい話でした)




【浄土院年仏堂跡・伝女人堂跡】
「伝」とはありますが、ここが探していた女人堂跡で間違いなかったようです
絵図の左側のお堂の上に 女人堂 とあります




『修建畠山重忠君断碑記』
石標【浄土院年仏堂跡・伝女人堂跡】の近くに建立されていました
碑文は読めませんでしたが、題額の文字を拡大してみたら何とか畠山の文字が読めましたので間違
いないと思います




浄土院年仏堂跡・伝女人堂跡の平場の西側に石段の参道があります。これが旧来の慈光寺への参道
のようです




参道の傍らにあるおおきな『百万遍念仏供養塔』
後ろに見えるのは「聖徳太子」碑




旧参道の石段を上り切ると「参道」と刻まれた石標が建っていて、現在の参道(車道)にでます




目の前は「慈光寺青石塔婆群」で、歴代住職の供養として建てられた9基の板石塔婆(1基は現在
本堂に安置)と墓石が並んでいます  
この青石塔婆群(9基)は 『青石塔婆』の名称で 昭和30年(1955)10月1日 埼玉県指定有形
文化財(考古資料)に指定されています
ここは慈光寺の山門(仁王門)跡で、明治時代の初期に山中の僧坊跡から移設したものと考えら
れるとのことです




この絵図は、青石塔婆群の中にある「慈光寺山門跡の板碑群」説明板の中にあるものですが、説明
文にある通りこの場所には女人禁制の結界があり、女性は結界を避けて女人道を登って坂東観音霊
場九番慈光寺観音堂へ向かったようです




青石板碑群と道路を挟んだ西側にある「女人道」登り口




登り口にある【女人道】と刻まれた石標




女人道を少しだけ登ってみました 
登り切ると焼失した釈迦堂跡前に出るようですがそれは折を見てまた歩いてみましょう

♪ 紀の川は 別れの川よ
  恋のくるいを 流す川
   高野の峯を 女人はめぐる
   世捨ての人の 面影浮かぶ
   好き好き好きの 女人道
田川寿美さんの『女人道』の唄い出しです
高野山を舞台にしたもので本投稿や慈光寺とは関係ありませんが、数え切れないほど聴いています

散策日:令和3年(2021)6月14日(月)・15日(火)

下横田の百庚申(埼玉県小川町)

2021年08月10日 | 史跡・遺跡・文化財


名 称:下横田の百庚申( しもよこたのひゃくこうしん)
別 称:-
種 別:石造物群
時 代:江戸時代末期
指 定:小川町指定史跡(名称:下横田の百庚申 平成14年〔2002〕3月13日指定)
所在地:埼玉県比企郡小川町下横田

数基の庚申塔が同じ場所に並んで建っていることはよくあります。しかし、それは元々は別の場所
にあったものを道路拡張などの事情で一ヶ所に集められたものがほとんどでしょう。
初めから同じ場所に建立した100基もの庚申塔を見たことはこれまでにありませんでしたが、今回
そんな場所を訪ねてみました。
と、書いたものの、平成22年(2010)2月、群馬県安中市の「後閑城跡」を攻城した時に、本郭に
百庚申があったのを思い出しました(この本郭でカメラ1台壊してしまったのであまり思い出した
くなかった・涙)




国道254号小川バイパスを嵐山町方向から寄居町方向に向かいJA埼玉中央小川農産物直売所の約
200m手前の路端にある『百庚申』の標柱




山道を上ります さほどの坂ではありませんが雨上がりの道のためぬかるんでいて歩きづらい




『百庚申』の標柱のある登り口から300m程(坂道のうえ雨上がりの道でしたので体感的には500m
位に感じましたが)歩くとゴルフ場小川カントリ―クラブのフェンスに突き当たります
フェンス前に『下横田の百庚申』の説明板が設置されています




『下横田の百庚申』説明板
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               下横田の百庚申
                            大字下横田
                             【平成14年3月13日町指定史跡】

 十干十二支の組み合わせで60日に一度めぐってくる庚申の日に、その夜を眠らずに過ごして長寿を願う
信仰がある。これは夜になると、人の体内にいる三尸の虫が体内を抜け出して、天帝にその罪科を告げて
寿命を縮めるという中国の道教の信仰に由来するもので、日本では平安時代から行われている。庶民の間
に広まるのは江戸時代になってからで、三尸の虫は人が眠らないと抜け出せないとされており、講中の仲
間が集まって誦文を唱えたり飲食、歓談をして一夜を明かす庚申講、庚申待と呼ばれる行事が行われるよ
うになった。その供養の証として、講中や個人によって庚申塔が盛んに建てられた。
 下横田の百庚申は、嘉永2年(1846)に地元下横田講中を中心に、近隣の村々の者によって建立された
もので、稲荷社に向かって一列に100基並んでいる。こうした百庚申は大字青山地内でも確認されており、
ともに大字下里地内で産出する緑泥片岩によってつくられているなど、近世の信仰のモニュメントとして
資料的価値も高い文化財である。

 小川町教育委員会

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嘉永2年(1846)とありますが、1846は間違いで正しくは1849年です




左側が登ってきた道でVの字を折り返すように右側に百庚申が並んでいます
庚申塔は、土塁状の土盛りの上に建立されています




一番手前にあるものだけ向きが違っていますが、これは庚申塔ではなく「百庚申入口 八和田郷土
文化会」と刻まれた標識の石碑で、後世のもの
明治22年(1889)4月1日、俗にいう明治の大合併で、下横田村など八ヶ村が合併して「八和田村」
が出来ましたので、それ以降となります。
因みに、八和田村は、昭和の大合併で昭和30年(1955)に小川町などと合併し、現在は小川町の一
部となっています




形に違いはあれど「庚申塔」或いは「嘉永二年九月吉日 庚申塔」と刻まれています
所謂、青面金剛の庚申塔は1基もありませんでした




『奉崇百庚申』と刻まれた大きな石碑




【裏面】
嘉永二己酉年九月吉日  下横田村
       講中  21名の名が刻まれており、そのうちの3分の2に当る14名が「田中」姓
           石工 下里村 とあり緑泥片岩の産出地と同一




土盛りの上に一列に並んで建立されている庚申塔
数が多いことを表すとき「百〇〇」「八百〇〇」「千〇〇」などと言いますが、ここの百庚申塔は
そうした「百」ではなく実際に100基あるようです。私が数えませんでしたが、実際に数えた方が
いるようです
元々、百庚申塔は基本100基ですから・・・




右奥に見えるのが稲荷社の鳥居




この右に傾いた庚申塔が列最後の庚申塔です




稲荷社




ヤマユリが咲いていました 
キキョウも咲いていて写真も撮ったのですが今回は掲載をパス

散策日:令和3年(2021)7月13日(火)

多武峯の芭蕉句碑(埼玉県ときがわ町)

2021年08月07日 | 歌碑・句碑


句 : 梅が香に のっと日の出る 山路かな
    (うめがかに のっとひのでる やまじかな)

出 典:『炭俵』 元禄7年(1694)春  芭蕉51歳の時の句
所在地:埼玉県比企郡ときがわ町西平(旧・都幾川村) 武藤家
建立日:文化9年(1809) 元は小川町上古寺の梅松院にあった
建立者: 梅松院




元は小川町下古寺の梅松院に建立されていたが、梅松院が火災で焼失したため多武峯(とうのみね)
の武藤家の庭に移された
写真中央の木の根元

いつの頃移されたかは分りませんが、武藤家はかつて修験道場でありましたし、梅松院も修験寺で
あったようですのでそのつながりかも知れません

このように(武藤家に移されて現存しているが)かつて小川町にあった「梅が香に のっと・・・」
の句碑を小川町の婦人会は再建しようと平成3年に小川町内の春日公園に碑の形こそ違え「「梅が香
に のっと・・・」の句碑を建立しました。




芭蕉の句碑
高さ50㎝ほどの自然石を利用したもの




上の写真の芭蕉句碑はこの高台にあります

散策日:令和3年(2021)6月13日(日)

多武峯瓦塔遺跡 ②(埼玉県ときがわ町)

2021年08月05日 | 史跡・遺跡・文化財


名 称:多武峯瓦塔遺跡(とうのみねがとうせき)
形 態;瓦塔遺跡
時 代:奈良末期~平安期と推定
指 定:埼玉県指定史跡(名称:多武峯瓦塔遺跡 付 出土瓦塔片 一括 昭和34年〔1959〕3月20日指定
所在地:埼玉県比企郡ときがわ町西平(旧・都幾川村)

『鳥居』 稲荷鳥居でしょうか?
ここからいよいよ多武峯神社の神域です 多武峯神社・瓦塔遺跡を目指して




神額「多武峯神社」




鳥居を潜ったた先の参道は痩せ尾根のように両側は崖です




通常、社殿は鳥居の正面にありますがここ多武峯神社は違っていました
山の中腹を回り込むようにしていきますが、右側は断崖絶壁です 落ちたら・・・
中腹を削って参道を造ったようです




左側の斜面には大きな岩盤が所々に露出しています




ここから見えるのは椚平方向でしょうか?




多武峯神社の登り口まで来ました
鳥居から見て峰の反対側 それとも90度くらいでしょうか まったく見当がつきません




瓦を使った階段です




大きな覆い屋に覆われた多武峯神社の社殿 覆い屋も社殿の一部といった感じの造りです




『多武峯神社の由来』説明板
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    多 武 峯 神 社 の 由 来
 多武峯神社は、慶雲3年(706)に藤原鎌足の遺髪を大和国多武峯(やまとのくにとうのみね)から遷
して祀ったのが始まりとされています。その後、同所に福聚寺(ふくじゅじ)観音堂が建立されました。
観音堂は三間四面の朱塗りの堂宇であったと伝えられ、南北朝時代の頃に火災に遭い、再建されています。
明治2年(1869)に多武峯神社と改称されましたが、明治40年(1907)に再び山火事により延焼し、現
在の社殿は大正15年(1926)に建立されたものです。
 神社名になっている「多武峯」は「塔の峯」とも称されています。それは、社殿のある峯の形が塔のよ
うに見えること、あるいは往古瓦塔があったと伝えられることからです。その証拠に大正13年、社殿の
北西側にある塚から瓦塔、瓦堂、須恵器杯等の破片や14世紀作と考えられる蔵骨器、片口鉢が出土して
います。多武峯神社の瓦塔は、県内出土の瓦塔の中でも最古に分類されるもので、九世紀頃と推定される
貴重なものです。塚の上には、文亀4年(1504)銘の五輪塔も祀られています。
 また、かつては社殿西側には、文安2年(1445)銘の十三仏板碑や長禄5年(1461)銘の六観音・六地
蔵板碑など、都幾川村(現・ときがわ町)を代表する板碑も十数基立ち並んでいました(現在は武藤家東
側に移動)これらのことから、多武峯神社は、古代・中世の文化財が多数発見された貴重な遺跡でもあり
ます。
 神社の祭典は、郡村誌には3月15日と記されています。その後4月15日に変更となり、現在は5月
30日に行われています。なお、社殿は標高368mに位置していますが、南側は高さ99丈といわれる
断崖絶壁となっており、その中腹には椀貸し伝説が残る「竜宮の穴」と呼ばれる横穴があります。
  平成16年3月
                                     都幾川村教育委員会

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上掲説明板の中の写真をアップで   今、この頂上に立っているわけですネ




『社殿』




社殿を斜め後ろから




覆屋の北西側に玉垣が見えます 多武峯瓦塔遺跡の五輪塔を囲繞する玉垣です




大正13年に、瓦塔、瓦堂、須恵器杯等の破片や14世紀作と考えられる蔵骨器、片口鉢が出土した塚




『史蹟 多武峯瓦塔遺跡』石碑
昭和34年〔1959〕3月20日 埼玉県指定史跡指定に




塚の上に祀られている文亀4年(1504)銘の五輪塔




同上




同上




裏側(東側)から
塚の右側(北側)は断崖です




『瓦塔』とは瓦製の小塔を言い、この【埼玉の瓦塔】の表紙写真にあるようなものを言います。
この表紙写真の瓦塔・瓦堂は埼玉県美里町の東山遺跡から出土したもので『国指定重要文化財』
に指定されています。
ここの塚(多武峯瓦塔遺跡)から出土した瓦塔片もこの【埼玉の瓦塔】に掲載されています。

散策日:令和3年(2021)6月13日(日)・14日(月)

多武峯瓦塔遺跡 ①(埼玉県ときがわ町)

2021年08月03日 | 史跡・遺跡・文化財


名 称:多武峯瓦塔遺跡(とうのみねがとういせき)
形 態;瓦塔遺跡
時 代:奈良末期~平安期と推定
指 定:埼玉県指定史跡(名称:多武峯瓦塔遺跡 付 出土瓦塔片 一括 昭和34年〔1959〕3月20日指定
所在地:埼玉県比企郡ときがわ町西平(旧・都幾川村)

一度は訪ねてみたいと思いつつも山の上にあると言うことで躊躇していた多武峯瓦塔遺跡・多武峯
神社を訪ねて来ました。「多武峯」は「塔の峯」とも称されています。
多武峯神社の瓦塔は、県内出土の瓦塔の中でも最古に分類されるもので、9世紀頃と推定される貴
重なものとのことです。塚の上には、文亀4年(1504)銘の五輪塔も祀られています。




多武峯神社への登り口 2kmも山道をかと思うとちょっと不安です
多武峯瓦塔遺跡は多武峯神社の社殿裏にある鎌足墓と伝わる塚の周辺から古代の瓦塔が出土した遺
跡ですので神社に行かないことには始まりません




「全長寺」登り口です ここまで来ても未だ半分弱 




高台に見えるのが観音堂(現・多武峯神社)を管理していた武藤家の屋敷のようです




この場所は三叉路になっていて広い場所です




『多武峯』とあります  デマントバス停・ときがわ町乗合いタクシーの乗降所でもあるようです




右手の山際に説明板が建っています




『多武峯の文化財』説明板
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    多 武 峯 の 文 化 財
 武藤家のあるこの地域を多武峯といいます。これは、慶雲3年(706)に大和国磯城郡多武峯(奈良県
桜井談山神社)から藤原鎌足の遺髪を移し、祭神として祀った多武峯大権現が始まりとされています。そ
の後、この地に聖観音を本尊とする福聚寺観音堂が建立されたといいます。また、観音堂領として慶安2
年(1649)徳川家光より5石の朱印状が下されています。
 この観音堂を管理していたのが武藤家(当時、藤原姓)であり、江戸時代には慈眼坊と名乗る修験道場
でした。慈眼坊は、京都聖護院を本山とする天台系修験の本山派に属し、関東地方の本山派修験の大先達
であった入間郡越生郷、山本坊の配下として、外秩父地方の副先達を務めていたといわれています。さら
に元禄6年(1693)には、聖護院門跡から常陸国筑波郡(茨城県)の内50箇村の年行事職を認められて
います。
 武藤家の母屋は17世紀に建設され、護摩堂を配するなど往時の修験道場の家屋形態をよく保存してい
ます。
 明治2年(1869)の布告により修験は廃止されます。神仏分離により観音堂は多武峯神社に改称、慈眼
坊は姓を武藤に改め神職となりました。
 このような経緯の中で武藤家は、多武峯の始まりを示唆する瓦塔片をはじめ修験道に関係する数多くの
貴重な文化財を所蔵しています。また、多武峯には、天狗や竜宮の穴などの伝説も伝わっています。

     主な文化財
 瓦塔片と蔵骨器  奈良~平安時代初期(県指定文化財)
 板  碑  群  14世紀~16世紀
 天文五年銘鰐口  一口  室町時代(村指定文化財)
 役 行 者 絵 巻   一巻  江戸時代(村指定文化財)
 徳川幕府朱印状  観音堂領五石 九通 江戸時代


   平成15年3月
                                  都幾川村教育委員会
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※都幾川村は玉川村との合併により現在は ときがわ町 となっていますが説明板の表記のままとしました 以下同じ




説明板の右にある『行水所』
今は使われていないようですが、かつてはここで修験者が水を浴びたのでしょう




『行水所』碑




武藤家屋敷の門です
多分これまでにも数多くの人が場所等を尋ねていると思うと尋ねるのは迷惑かと分りつつも、丁度
門を入ってすぐの庭にいた奥さんに多武峯の場所と句碑の場所をお聞きしたところ、句碑のある場
所まで案内してくれ、多武峯は行き方まで丁寧に説明してくださいました(多謝)




武藤家屋敷の東側にある板碑群の覆屋




元は武峯神社の社殿西側に立ち並んでいたという板碑のようで断片も含めると31基あるそうです




枇杷の木の向こうに見えるのが『多武峯』




この右側の道を下って行くと教えていただきましたので教えていただいたとおりに




右側に多武峯への入り口(登り口)がありました




『多武峯神社沿革の概要』説明板の背後は深い沢になっています




『多武峯神社沿革の概要』説明板
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    多武峯神社沿革の概要

 往古からこの地を武州多武峯と称し、日本三多武峯の一として知らる。多武峯神社の御祭神は大職冠藤原鎌足
公で今から千二百数十年のむかし即ち慶雲三丙午年(706)の3月、大和の国多武峯談山から公の慰霊を当山に還
し武藤家の守護神として祭らる。
 以来文人武人の信仰殊に篤く、南北朝に降って神社山麓に火災起りその類焼を蒙り全山灰塵に帰してしまったの
であるが、当山第三十八世一峯法印別当の世、時の中納言である藤原房郷大願主となって、当地竜ケ谷の工匠森川
金八に命じ、三間四面朱塗りの殿堂を再建したのである。時正に正慶2年8月15日(1333)
 明治維新に至るまで行基菩薩の作である聖観音と相殿であったが、徳川三代将軍家光公以来代々五石余の朱印状
を賜わり当地が観音堂領となっていたのである。世の人当山を称し観音山と言い鬱蒼とした原生林に覆われた神域
は天狗の山とも言われている。
 明治40年1月19日の夜再び火災に逢い社殿は焼失し山容は見る影もない形相となったのであるが、大正15
年2月当山第六十四世代現在の神社を再建した。
 神秘の山多武峯は断崖の絶壁、龍宮の穴等人跡未路の聖地もあり独特の風光に参詣の人々の心を強く打つものが
ある。なお当山山頂に閼を廻らし文亀2年建立(463年前)の五輪搭があるがこれは祭神鎌足公の墓でありこの塚
から奈良朝末期作の瓦塔の破片古壺等の出土品多数あり昭和34年3月多武峯瓦塔遺跡として埼玉県指定史蹟に指
定されたのである。
    多武峯御詠歌
 はるばると 登りて聞けば 百鳥の
      声もみのりも かたらびの峯

  昭和39年4月15日 第六十四代 武藤昌蔵 記

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※古い説明板につき判読できない文字もあり、もしかしたら転記した文字に誤りがあるかもしれません




『天狗の泊り木  大桧跡』碑
沢に架かる土橋を渡った右側の斜面にあります
先の説明板にもあったよう天狗伝説もあるようです




右手にある岩壁  直角に近い状態で聳え立っています




横から見ると刃物でスパッと切ったようように真っ平らです
先に進むと深い崖下に落ちそうですので・・・

多武峯瓦塔遺跡 ② に続きます

散策日:令和3年(2021)6月13日(日)・14日(月)