四季・めぐりめぐりて

近隣の城館跡・古墳などの史跡めぐりなどをぼちぼちながらやっています

大蔵館跡(埼玉県嵐山町)

2010年04月30日 | 100名城以外の城館跡






比企地方には、朝日将軍(旭将軍)と呼ばれた木曾義仲(源義仲)にかかわるところがいくつかある。
ひとつは、義仲の家臣であった者たちが義仲の霊を弔い行われるようになった流鏑馬が行われるときがわ町の萩日吉神社。
そして、義仲の父親の居館であった「大蔵館」が嵐山町大蔵地内にある。そんな大蔵館跡を訪ねてみた。
現在は、大蔵神社となっているが、館であったことを偲ばせる土塁は顕著にのこっている。
なお、大蔵館跡は、埼玉県指定史跡となっている。また、木曾義仲の生誕地だといわれるところがこの近くにあるが、今回は寄らずに終えた。

散策日:2010年(平成22年)4月30日(金)           

足利基氏館跡(埼玉県東松山市)

2010年04月30日 | 100名城以外の城館跡


某市にあるこの看板。何度も見て通っていましたが、行ったことはありませんでした。ここひと月あまり、近いところにある城(館)跡を訪ねていませんでしたから、
本日はここへと・・・本当は遠方に行けなかっただけのこと。






山際の狭い道路を走って行くも、なかなかそれらしきものがない。漸く、「足利基氏の塁跡」とある
標柱に出会う。そこは畑であった。 看板には「館跡」とある。この標柱は「塁跡」である。館跡は別のところかと更に進む。しかし、それらしきものも案内標識もない。
畑仕事をやっていた方に聞いてみたら、先ほどの場所らしい。神社境内に車をとめて先ほどの場所へ。畑と民家の間の道(?)を山(丘陵)に向かってちょっと歩くと
説明板が建っていた。そこに書かれた図を確認して丘陵へ。と言っても僅かな距離だが・・・




石積みの跡があるがこれが館跡を示す遺構か? 史跡境の杭が埋められているから、館あとの石塁かもしれない。




ほかに遺構はないのか?空堀のような跡があったが自信を持って空堀とは言えない。




上に行けば郭跡でもと上に。ものの数歩上がったところに道路が。なんとそこはゴルフ場になっていた。

これ以上は語りませんので、写真の説明板を読んでください。私としては看板に騙されたような・・・・

散策日:2010年(平成22年)4月30日(金)            

川中島合戦再び・・・あった

2010年04月30日 | まつり・イベント





26日に、「川中島合戦再び」と題して、ラッシャー板前さんが『川中島合戦戦国絵巻』に参加していたという話を書きました。ラッシャー板前さんは、上杉軍の応援で
参戦した今川義元軍の雑兵として参加したのことでした。そこで、私の撮った写真の中に、ぼっとしてラッシャー板前さんが写ったものがあるかもしれないと探してみました。
ありました。今川義元軍の先頭に立ち、旗持ちをしているラッシャー板前さんの姿が。
上の写真がオリジナルで、下は、一部切り抜いたものですが、確かにラッシャーさんです。

え! こんなことどうでもいいって・・・

投稿日:2010年(平成22年)4月30日(金)          

上田城跡(長野県上田市)

2010年04月29日 | 日本100名城


本日は、念願であった信濃国上田市にある国指定史跡で、日本100名城のひとつ『上田城跡』を攻めてきました。

「上田真田まつり」が、本日4月29日にあると思い込み予定をしていたところ、実は4月17日(土)の開催と知り、
当日向かったものの降雪のために途中で引き返して来ました。
行きそこなった所は尚更行きたくなるもの。それで、祭りこそ終わってしまいましたが、元々は、この29日に行く予定
でいたわけですから思い切って行って来ました。
ところが行ったら今度は雪ならぬ「降雨」。なんとついてないことか・・・




二の丸通りと二の丸橋




東虎口櫓門

「上田真田まつり」は既に終えた。桜の花も盛りは過ぎたであろう。でも、祭りを見に行ったら城見学どころではなく、人の頭の見学になってしまったで
あろうから、考えようで城攻めには好都合であった。真田氏二代の居城であった国指定史跡である上田城跡を目指しての道中は霧雨小雨の状態であった。
城跡駐車場に着いた頃には小雨はやんでいたが、どんよりした肌寒い気候であった。城廻で歩けば身体も温まるだろうと、早速、城攻め開始。
何枚かの写真をデジカメに収めている内にポツポツときた。そのうち雨傘なしではいられない状態になり、傘をさしてデジカメを操作するも、レンズに
水滴が付いてしまうし、ぶれてしまう。
漸くのことで訪れた上田城跡である。悪天候の中ではあったが撮れるだけの写真を撮っていこうとするも、雨には勝てなかった。
まあ、一通りは撮れたからと上田城跡を離れることに・・・ホントは撮りそこなったところがいっぱいあった。




櫓門と石垣と桜と




真田石




雨の本丸堀




北虎口の石垣




西櫓




真田井戸




真田神社




真田赤備えの兜




本丸跡

と、何枚かの写真をアップさせていただきました。ここで見なくも上田城はあまりにも有名ですから色々なサイトで素晴らしい写真を見ることが出来ますが。
また、真田氏や上田城について語る必要もないでしょうから省かせていただきます。
実は、この上田城跡をあとにしたあと、某所に向かいました。このことは、また後日・・・

散策日:2010年(平成22年)4月29日(木)         

江田館跡・反町館跡・新田館跡(群馬県太田市)

2010年04月28日 | 100名城以外の城館跡


新田荘(にったのしょう)とは、Yahoo!百科事典によれば、

上野(こうずけ)国(群馬県)にあった荘園で、大間々(おおまま)扇状地上に立地し、ほぼ古代の新田郡全体(現在の太田市、新田町、尾島町、境町の一部)
を荘域とする。1108年(天仁元年)浅間山の爆発によって荒廃した新田郡南西部の地を源義重(よししげ)が開発。1157年(保元2年)にこれを鳥羽
(とば)上皇建立の金剛心院(こんごうしんいん)に寄進し、ここに金剛心院を本家(ほんけ)、藤原忠雅(ただまさ)(花山(かざん)院)を領家(りょうけ)、
義重を下司(げし)とする新田荘が成立した。その後1170年(嘉応2年)には荘域は新田郡全体に拡大された。以後、義重の子孫新田一族の基盤となり、
南北朝時代に新田義貞(よしさだ)を生み出した。1170年の新田荘目録には、水田302町、畑96町、在家246宇とある。
新田義貞の滅亡後は、一族の新田岩松(いわまつ)氏が継承した。 [ 執筆者:峰岸純夫 ]

とある。 2000年(平成12年)、新田氏遺構群のうち11箇所が国の史跡に指定され、「新田荘遺跡」として保存されている。
実はこのことはあとから知ったことであり、群馬県太田市付近にある館跡を見てみようと行ったのがことの始まりであった。
まず行ったのが、太田市(旧新田町)の『江田館跡』であった。





写真のように土塁と堀が遺っているだけのものであるが、中世平城の代表的遺構であるようだ。案内板の中に「この館は、江田行義の館と伝えられています。
行義は、新田義重の子、義季の四世の孫で、新田義貞の鎌倉北条討伐に参加し、極楽寺坂口の大将として軍功をたてました。・・・」とある。

次に向かったのは、やはり旧新田町にある『反町館跡』






この反町館跡の郭内には「反町薬師」がある。また、周囲は水堀で囲まれており、土塁も遺っている。ここは、新田義貞の居住地だったとの伝説があるようだ。









土塁




「新田義貞古城跡」という石碑も

更に向かったのは、旧尾島町(現太田市)にある『新田館跡』








新田館は、保元2年に新田義重によって築かれ、新田宗家累代の居館となった。 新田義重は、清和源氏嫡流の源義家三男義国の長子で、義重が
新田氏を始祖となり、弟の義康が下野国足利を領して足利氏の祖となった。現在、館跡は総持寺境内となっており、遺構は認められない。

と、何ヶ所か回ってみたら、それらが「新田荘遺跡」であったということで、何の下調べもせずに行ったものですから・・・書いていることもめちゃくちゃですね。
あゝ恥ずかしや。あとで書き直しをしましょうか?

散策日:2010年(平成22年)4月24日(土)         

世良田東照宮(群馬県太田市)

2010年04月27日 | 神社仏閣






寛永21年(1644)、三代将軍徳川家光公は、世良田が徳川氏の先祖の地ということから、日光東照宮古宮(元和年間造営の奥宮)を移築し、家康公をお祀りしました。
奉斎にあたり家光公から御神領200石が寄進され、、以後、幕府の手厚い保護を受け、徳川家代々礼敬を尽くされました。東照宮の御鎮座は文化・経済の発展を助長し、
世に「お江戸見たけりゃ世良田へござれ・・・」と謡われました。       〔拝観時に頂いた「世良田東照宮のご案内」の中の【由来】を転記引用〕

東照宮は、現在でも全国に約130社を数えるという。そんな中から、群馬県太田市(旧尾島町)世良田にある「世良田東照宮」を訪ねてみました。由来については上記のとおりです。




拝殿




本殿と唐門




本殿
拝殿、唐門、本殿いずれも国の重要文化財に指定されている。拝殿については外からも見れるが、
本殿・宝物館については、拝観料を払って中に入らないと見られませんでしたので拝観料300円を払って・・・・




宝物館の展示品の一部
拝観料を払って中に入ったものの、ゆっくり見ることなく出てきてしまい後になって悔やんでいる始末です。




大鉄燈籠(国の重要文化財)





4月4日には、「葵祭り」があり、仙波東照宮のある川越市から「川越藩火縄銃鉄砲隊」がここ世良田東照宮に赴き火縄銃の演武をしています。
このことは、前日、鉄砲隊の方から聞いて知っていたのですが、4日は他のところに出かけたため「葵祭り」は見られずでした。

因みに、日光東照宮・久能山東照宮・仙波東照宮をもって「日本三大東照宮」と称されるそうです。※ 但し 3つ目は数カ所が名乗っていますが

散策日:2010年(平成22年)4月24日(土)           

白井城跡(群馬県渋川市)

2010年04月26日 | 100名城以外の城館跡






『白井城』は、利根川と吾妻川の合流点に突き出した台地の自然の要害を利用した築かれた平山城/崖端城である。
この『白井城』跡は、群馬県渋川市(旧子持村)白井にあり、群馬県指定史跡となっている。

築城は、不明なるも15世紀前半と思われ、関東管領山内上杉家の重臣であった長尾景仲が築城したといわれている。(歴史についてはいつもの通り省略)








本丸(主郭)です。三方は高く盛られた土塁に囲まれ、一方は吾妻川に面した断崖となっている。




「枡形」




「笹郭」




「空堀」








「二の丸」跡 「三の丸」跡 「北郭」跡で、今は畑になっておりますが、住宅等が建って郭のあとかたもなくなっているところに比べたら十分でしょう。
「二の丸」と「三の丸」の間にある空堀も遺っていますし。




本丸と二の丸の間にある「三日月堀」 




「帯郭」




本丸跡の桜の花が綺麗だったものですから「おまけ」にアップしてみました

「白井宿八重ざくら祭り」見学と併せて行って来ましたが、どちらが主目的だったか・・・

なお、昨年5月から城郭・城跡(館、陣屋も含め)めぐりを始めて、この白井城は46箇所目で、偶然にも、4・6(しろ・・白・・城)=白井(白い)城(しろ)=白井城 でした。


散策日:2010年(平成22年)4月25日(日)            

川中島合戦再び

2010年04月26日 | まつり・イベント


本日16:53からのテレビ朝日の番組「スーパーJチャンネル」の中で、【川中島合戦再現! 歴女も集結】というのがあり、思わず観てしまいました。
そうです。今月18日に笛吹市で行われ、私も見に行った『川中島合戦戦国絵巻』の状況です。ラッシャー板前さんも参加(雑兵役でしたが)していたという
ことは、他の人のブログで知っておりましたが、その様子が流されました。 数分の放送ではありましたが、自分の目で見てきたものを再びテレビの映像で見て、
あの興奮を再び思い起こしました。

投稿日:2010年(平成22年)4月26日(月)           

白井宿八重ざくら祭り 武者行列2010

2010年04月25日 | まつり・イベント






「白井」・・・・・ついつい「しらい」と読んでしまうが、ここは「しろい」とのこと。 そんな「白井宿」(渋川市・旧子持村)で、
本日、『白井宿八重ざくら祭り』があり、武者行列もあるとのことでしたので、また、愛馬にひとりまたがり(いつものことだが)行って来ました。
「道の駅こもち」が武者行列の出陣場所。私が到着した時、既に馬場(?)はいっぱいで、遠く離れた特設の馬場に繋ぐ羽目に。
写真は、出陣前の武将たちですが、右の写真の武将の甲冑は手作りの甲冑です。触らせていただきましたが、紙製とは思えぬ出来映えです。








大将長尾景仲の「えいえい おー」の勝鬨のあといざ出陣。良く見ると武将の数が圧倒的で雑兵(足軽)が少ない。子供の女武将もあれば、手作り甲冑の少年武将も。
まあ、実際の戦があるわけではないし、足軽よりは武将の方が格好いいですからね。武者行列は、土蔵つくりの街並みがのこる白井宿へと進んで行きました。












これが白井宿です。白壁の屋敷と八重ざくら並木。八重ざくら並木の下を「白井堰」が流れる。そして、つるべ井戸が・・・
武者行列があるこのお祭りのときは八重ざくらが満開になっているとのことであったが、今年は満開の木は数本でした。








いくら満開の八重ざくらが少ないとは言え、八重ざくら祭りを観に行ったのですから八重ざくらの写真も撮らねばと何枚か。
白馬にまたがった景仲公の背後(横かな)の八重桜が満開なら更に絵になったのですが。え! 景仲公は手綱を持っていないって。
そんな細かいところに気付かなくもいいんです。何処のお祭りでも、実際に手綱を操る武将はおりませんので。








凛々しい武将のお顔です。中乃町の屋台の人形は、「長尾景仲公」ですね。上乃町の屋台には「上杉謙信公」が。当然でしょうね。
白井長尾氏は、上杉謙信を主としていましたから。逆に言えば白井長尾氏は謙信の重臣であったということですね。

ここ白井宿は、まつりでないとき、一度ゆっくり歩いてみたいと思ったそんな町でした。

散策日:2010年(平成22年)4月25日(日)           

おおたの芝桜

2010年04月24日 | 花・鳥・風景


予報どおり晴天に恵まれた本日は、群馬県太田市まで「芝桜」を見に行ってきました。
昨年は、埼玉県秩父市の「羊山公園の芝桜」を見ておりますので、2年続けて同じところよりは別のところということで、
前々から話に聞いていた太田市の芝桜を初めて見に行ったというわけです。丁度、「おおた芝桜まつり」の開催中で、
沢山の方が芝桜を見に来ておりましたし、バスツアーの客も何組かあったようです。

中央広場では、本日のイベント「八木節だんべえ&よさこいソーランinおおた3rd」が開かれておりました。

相変わらずの写真ですが何枚かアップしておきます。



















散策日:2010年(平成22年)4月24日(土)