新田荘(にったのしょう)とは、Yahoo!百科事典によれば、
上野(こうずけ)国(群馬県)にあった荘園で、大間々(おおまま)扇状地上に立地し、ほぼ古代の新田郡全体(現在の太田市、新田町、尾島町、境町の一部)
を荘域とする。1108年(天仁元年)浅間山の爆発によって荒廃した新田郡南西部の地を源義重(よししげ)が開発。1157年(保元2年)にこれを鳥羽
(とば)上皇建立の金剛心院(こんごうしんいん)に寄進し、ここに金剛心院を本家(ほんけ)、藤原忠雅(ただまさ)(花山(かざん)院)を領家(りょうけ)、
義重を下司(げし)とする新田荘が成立した。その後1170年(嘉応2年)には荘域は新田郡全体に拡大された。以後、義重の子孫新田一族の基盤となり、
南北朝時代に新田義貞(よしさだ)を生み出した。1170年の新田荘目録には、水田302町、畑96町、在家246宇とある。
新田義貞の滅亡後は、一族の新田岩松(いわまつ)氏が継承した。 [ 執筆者:峰岸純夫 ]
とある。 2000年(平成12年)、新田氏遺構群のうち11箇所が国の史跡に指定され、「新田荘遺跡」として保存されている。
実はこのことはあとから知ったことであり、群馬県太田市付近にある館跡を見てみようと行ったのがことの始まりであった。
まず行ったのが、太田市(旧新田町)の『江田館跡』であった。
写真のように土塁と堀が遺っているだけのものであるが、中世平城の代表的遺構であるようだ。案内板の中に「この館は、江田行義の館と伝えられています。
行義は、新田義重の子、義季の四世の孫で、新田義貞の鎌倉北条討伐に参加し、極楽寺坂口の大将として軍功をたてました。・・・」とある。
次に向かったのは、やはり旧新田町にある『反町館跡』
この反町館跡の郭内には「反町薬師」がある。また、周囲は水堀で囲まれており、土塁も遺っている。ここは、新田義貞の居住地だったとの伝説があるようだ。
堀
土塁
「新田義貞古城跡」という石碑も
更に向かったのは、旧尾島町(現太田市)にある『新田館跡』
新田館は、保元2年に新田義重によって築かれ、新田宗家累代の居館となった。 新田義重は、清和源氏嫡流の源義家三男義国の長子で、義重が
新田氏を始祖となり、弟の義康が下野国足利を領して足利氏の祖となった。現在、館跡は総持寺境内となっており、遺構は認められない。
と、何ヶ所か回ってみたら、それらが「新田荘遺跡」であったということで、何の下調べもせずに行ったものですから・・・書いていることもめちゃくちゃですね。
あゝ恥ずかしや。あとで書き直しをしましょうか?
散策日:2010年(平成22年)4月24日(土)