四季・めぐりめぐりて

近隣の城館跡・古墳などの史跡めぐりなどをぼちぼちながらやっています

西別府氏館跡(埼玉県熊谷市)

2017年01月31日 | 100名城以外の城館跡


西別府氏の居館跡跡とされる場所を訪ねてきました。

別府氏は成田氏の一族で、成田助高の二男次郎行隆が別府に住み別府氏を名乗るようになりました。その子太郎能幸は東別府を、西別府氏初代となる
次郎行助は西別府を領し、この居館には、西別府氏初代行助から5代頼重までが居したようですが、頼重あるいはその2代後の宣重の代以降は系図の
記載がないとのことですので、その後、居館がどうなったかは、また、西別府氏がどうなったかは不明のようです。




居館跡と言っても畑の中に石碑と小さな祠があるだけで遺構らしきものは何もありません。色々な方のサイトを拝見しても所在地については、
西別府とまでしかないうえ、目立つ場所でもない場所に石碑が建っているだけのことから見つけるのに苦労しました。




付近はこんな感じですので、うっかりすれば石碑を見落として素通りしてしまいそうです。




石碑の周囲は畑です。興味ない人には畑の中に祠があるなくらいにしか思わないでしょう。




この西別府氏館跡のすぐ東にある安楽寺に県指定史跡の西別府氏の墓所があり、大小ニ基の五輪塔と三基の板石塔婆で、そのうち塔婆の一つは頼重のものとされています。
安楽寺にある墓所については後日投稿しますが、安楽寺のすぐそばに、この西別府氏館がありながらもそれぞれ別の日に訪ねるという非効率的なことをやってしまいました。
(折角ですから安楽寺も再訪しましたが・・・ここに限らずいつものことですし、1度では用が足りず再訪、再々訪することさえあるくらいですから)

散策日:2017年(平成29年)1月26日(木)

別府城跡-東別府神社-(埼玉県熊谷市)

2017年01月30日 | 100名城以外の城館跡


熊谷市東別所777・778に所在する「別府城跡」を訪ねてきました。現在、この跡地は「東別府神社」(勧請時の社名は春日神社)の境内となっています。
ここの城跡も名称についても書物によってまちまちであり、東方200メートル程の所にある香林寺のある場所を「別府城跡」とする記述もあるようです。
しかし、大方では当地を別府城跡としており、埼玉県においても「別府城跡」の名称で史跡指定しております。

成田助隆の次男次郎行隆がここ別府に住み別府氏を名乗りました。息子の代に東別府氏と西別府氏に分かれ、数代相対して領地し、それぞれ城(館)を構えました。
この別府城跡は、東別府氏が居館として築いた城館で、豊臣秀吉の天正18年(1590)の小田原攻めの際、敗軍に付いたことから家禄を没収され廃城になったとのことです。

城跡を囲む土塁・空堀は一部改変されてはいますが良好な形で遺っており、私的には、久しぶりに土塁・空堀らしい土塁・空堀に出会えた感じがします。




別府城跡を訪ねる目安となる東別府神社の社号標の石柱 右側の道路を北進すると東別府神社境内(別府城跡)に




東別府神社境内(別府城跡)出入り口  虎口跡と思われます(南側虎口)
高さはありませんが左右両側に土塁が見えます




境内に入ってすぐの左手にある東別府神社の一の鳥居




鳥居後方にある「別府城跡」の石碑




高さわずかな土塁の上に建つ「史蹟 東別府舘阯」とある石碑柱




こちらは「埼玉県指定史跡 別府城跡」の説明板
文面は、”この城跡は東別府家の館”で始まり、末尾では”東別府城も廃城になり”とあります。別府城跡なのか東別府城なのか?
上の石標では「東別府舘阯」 説明板では「別府城跡」と「東別府城」と二通りの呼び方をしています。
こうした統一性の欠如が城館名の呼び方に混乱を与えている一因でもあるようです。




一の鳥居とは90度向きを変えた二の鳥居 先に見えるのが東別府神社




東別府神社 拝殿




社号「東別府神社」の扁額・・・このブログの定番ですから




境内南西隅に鎮座する「神明社」 東方を向いています
社の南側・西側に土塁・空堀があります




神明社南側の空堀・土塁




南西隅の土塁は一段と高くなっています




西側の空堀・土塁を南方から北方に




西側の土塁の上を南方から北方に




西側の空堀・土塁を北方から南方に  左側の土塁の切れたところは虎口(西側虎口)




違い虎口になっているようです




境内から虎口を




西側虎口を入ったところにある石碑 碑文は「別府城址碑」とあります




西側空堀の更に西側にある道路の端にある「別府城跡」の標柱
側面に  平安時代から室町時代にわたる別府氏の居館跡で、高さ約2mの土塁と幅約5mの堀に中世豪族屋敷の姿をみることができます。 とあり




北側の空堀・土塁を西方から東方に




北側の空堀の堀底  西方から東方に




北側の空堀・土塁を東方から西方に




同上




北側の土塁の上を東方から西方に




東側・空堀・土塁を北方から南方に
土塁と空堀の境目に排水溝が作られているため二段の土塁に変形しています
排水溝の所は「犬走り」と見立てておきましょうか・・・




東側の空堀・土塁を南方から北方に




虎口(東側虎口)




東側虎口から境内を




南側東部分の土塁上を西方から東方に




南側東寄りの土塁 だいぶ消滅しています  (この写真には碑が邪魔でした)
左側(境内南東部分)はゲートボール場になっています




境内北東部分 一応庭園になっています




北側土塁の境内側に鎮座する境内社




最後に境内を

散策日:2017年(平成29年)1月25日(水)・28日(土)

シンポジウム『関東の戦国末期を再考する』

2017年01月29日 | 講演会・講座


1月29日(日)、国立女性教育会館 講堂を会場にして開催された埼玉県立嵐山史跡の博物館主催による
   シンポジウム『関東の戦国末期を再考する』
を聴講してきました

【内 容】
 戦国時代はその名のとおり各地で戦乱が続き、勝者が支配を広げていった時代です。関東の戦国末期の大きな
節目は豊臣秀吉によって小田原北条氏が滅ぼされた天正18年(1590)にあったと言えます。今回のシンポ
ジウムでは北条氏の進出に対する、地域社会の支配層である国衆や地侍たちの動向にスポットをあて、文献史学
と考古学の双方の立場から関東の戦国末期を再考します。      (チラシ裏面から)

基調講演
  池  亨 氏 (一橋大学名誉教授)
   「河越合戦から小田原合戦まで -関東の戦国争乱終結の意味ー」
報告1
  橋本 昌広 氏 (中世史研究家)
   「北武蔵における国衆・地侍・百姓の動向 -境目の地から後方支援の場へー」
報告2 
  佐々木 健策 氏 (小田原城天守閣)
   「小田原北条氏の領国賜杯 -発掘調査からみる本城と支城ー」
報告3
  秋元 太郎 氏 (高崎市教育委員会)
   「小田原北条氏が進出した城について -出土遺物を中心に考えるー」
討論




会場の国立女性教育会館 講堂




シンポジウムの資料集(¥500)と日程表 若干予定時間に変動がありましたが

聴講結果について述べるだけの知識も能力もありませんので聴講してきたと言う事実のみにしておきます

聴講日:平成29年(2017)1月29日(日)

別府氏館跡-香林寺-(埼玉県熊谷市)

2017年01月28日 | 100名城以外の城館跡


熊谷市東別府799に所在する「香林寺」を訪ねてきました。この香林寺は、別府小太郎清重が、父義重を供養をするために建立したと言われ、別府氏館跡にあります。
成田助隆の次男次郎行隆が別府に住み別府氏を名乗った。息子の代に東別府氏と西別府氏に分かれ、数代相対して領地し、それぞれ城(館)を構えました。
この投稿では、この香林寺の場所を「別府氏館跡」としましたが、名称については定まったものがなく、著書やWebによっては色々な呼び方がされています。
付近には、この香林寺を含め別府云々と言われる城館跡が3ヶ所あり、名称が統一されておらずややこしい状態になっています。




「曹洞宗福聚山香林禅寺」の寺号標石柱  右は香林寺の駐車場




こちらにも古い寺号標石柱があります この寺号標石柱の右側も交差点まで香林寺の墓所です




六地蔵尊




この道が参道でしょう
寺号標、六地蔵尊のある位置から察するにこの辺り一帯が館域であったのでしょう




山門  風格ある堅固な門です




山号「福聚山」の扁額




山門(正門)閉まっていましたので右に行くともう一つの門(通用門?)があり、この前も広い駐車場になっています




この門から境内にお邪魔させていただきました




鐘楼




阿弥陀堂




山門(正門)から本堂への石畳の参道  鍵の手になっている参道です
ここで写真を撮らせていただいているとき、住職さんが来られましたので挨拶をさせていただき、色々とお話を聞かせていただきました。




本堂
金剛組さんの手による建築とのことでしたが、建築にまつわるお話も




寺号「香林寺」の扁額
扉の硝子に刻まれているのは香林寺の寺紋  帰宅後調べてみましたら「六つ槌」と言う紋のようです 別名「土井水車」とも




本堂を斜めから




本堂前に植えられた松
建久8年(1197) 源頼朝が来山した時の御手植松の跡に碑(明治4年建立)があると教えていただきました




これがその碑ですが、苔むしており文字も読めない状態です
教えていただかなければ碑であることさえも気付かなかったでしょう




境内の白梅がほころんでいましたので本堂をバックに・・・

境内周囲には堀跡や土塁と言った遺構と思われるものは見当たりませんでした(細かく散策すれば遺構らしきものがあったのかもしれませんが)。住職さんのお話ですと、
今は田畑や住宅地となっている付近一帯が館域跡のことですから、既に遺構はなくなっているのではないかと、またもや素人が根拠のない推測をしてみました。

散策日:2017年5平成29年)1月25日(水)

※ 1月30日追記:香林寺にある別府義重・清重親子の墓の写真を撮っていませんので後日撮りに行きましょう(訪問時、墓の存在について全く考えもしなかったという愚かさ)

武田信俊館跡 -輪禅寺-(埼玉県小川町)

2017年01月27日 | 100名城以外の城館跡


比企郡小川町上横田地内に所在する曹洞宗の禅寺「一機山輪禅寺」を約6年半ぶりに訪ねてみました。(前回は平成22年(2010)8月17日・火)

この輪禅寺は、武田信玄公の甥である川窪(武田)新十郎信俊が、天正3年(1575)長篠合戦で討死した父信実(信玄の異母弟)の冥福を祈るために造営したと
伝えられています。武田家は天正10年(1582)天目山の戦いで織田信長軍によって滅亡しましたが、信俊はその直前に夫人と母を伴い甲州を脱出し信州に
身を潜めていました。その後、徳川家康の家臣となり、甲斐の川窪を領したことから川窪と姓を改める。天正19年(1591)甲斐から比企・賀美二郡に知行地を
改められ、1610石の領主として金窪(児玉郡上里町)に赴任、慶長13年(1608)父信実の追福と一族の菩提寺とするため、既にあった安養寺を廃し、新たに
輪禅寺を建立しました。山号の一機山・寺号の輪禅寺は、信実の法名「輪禅師殿玉輪一機大居士」に因んでいます。信俊の孫の代に川窪姓から武田姓に複しましたが、
これは将軍家光の命によるところです。武田氏一族の墓域は、墓地の一番高いところにあり、本堂を見下ろすような状態で、52基あまりの墓石・供養塔があります。




国道254号線小川バイパスを寄居方面から東松山方面に進行、高谷交差点を過ぎて少しすると輪禅寺入口の看板が見えます。道路反対側には小川消防署があります。




あとは標識通り進めばすぐに(1分くらい)輪禅寺前に着きます。駐車場もありますから、車の方でも安心です。




「曹洞宗 輪禅寺」の寺号標と山門 山門には、山号「一機山」の扁額が掲げられています。




山門前に設置されている説明板  6年半前に訪れた時のものから新しいものに変わっていました。墓石数の記載がなくなっただけで内容はほとんど変わっておりません。




境内




本堂




寺号「輪禅寺」の扁額




本堂左手にある石段を上って墓所に行きます




フェンスに囲まれた武田氏一族の墓域




川窪武田家初代信実の墓  信実の墓は甲斐・恵林寺にもあるようですので、これは供養塔でしょう?




武田家累代霊廟改修記念碑
武田氏10代にわたる墓石が長年の風雨により傾いたりしていたものを地元の方の篤志などにより昭和60年(1985)に整備し直したという説明文が刻まれています。
墓域を囲むフェンスはこの時に設けられたものと思料します。




整然と並んだ墓石 ① とても全部を紹介することはできません




整然と並んだ墓石 ②




整然と並んだ墓石 ③




武田家一族の墓域は本堂の屋根くらいの高さにあることが分ります




本堂裏の土塁?  別の所でも書きましたが、お城好きな方は、土の盛り上がりを見るとどうしても土塁と言うことにしたいようですが・・・




形状から土塁跡ではないかと思われている方が多いようですが、ここ輪禅寺は低い丘陵に建っています。丘陵の一部を削平し、そこにお堂もしくは館を
建立したと考えられますので、削平されなかった部分が土塁のように残った(実質的には土塁の役目をなす)のではと素人が勝手に考えてみました。




境内山門付近維咲いていたロウバイ




同じく白梅

散策日2017年5平成29年)1月23日(月)・25日(水)

斎藤実盛館跡 実盛塚(埼玉県熊谷市)

2017年01月26日 | 100名城以外の城館跡


熊谷市(旧妻沼町)西野444に所在する「斎藤実盛館跡 実盛塚」を訪ねてみました。しかし、今回もすんなりとはいかず、2度ほど場所を聞いて漸くと言う有様でした。

斎藤別当実盛  天永2年(1111)?~文治元年(1185)

最後まで平家への忠信を貫いた「智」の武将

平安時代末期に活躍した武士。久寿2年(1155)、源義平が叔父源義賢を討った大蔵館(嵐山町)の戦いでは、義賢の子で2歳の駒王(後の木曽義仲)を保護し、
木曽に送り届けたといいます。保元の乱、平治の乱では。源義朝につき活躍をしました。その後は、平家との結びつきを強くし、平家領である長井荘の荘官となったようです。
治承3年(1179)には、妻沼聖天山を開いたとされます。源平の合戦(治承・寿永の乱)では、一貫して平家方につきます。治承4年(1180)の富士川の戦いでは、
「東国の案内者」として、東国武士について進言したといいます。寿永2年(1183)、篠原の戦いで、味方が落ちていく中ただ一騎踏みとどまり、幼い頃助けた
木曽義仲軍に討たれます。黒髪に染めた実盛を見た義仲は、さめざめと泣いたと伝えられます。実盛の子、宗貞・宗光も、平家への忠誠を貫きました。
実盛の言により、平清盛の嫡孫平維盛に妻子の警護を命じられ、子の平六代に最後まで仕えたとされています。




堤の右側を流れる川は「福川「と言うようです。




正直、遺構らしきものは全くありません。小さな塚の上に板碑が建っているだけです。




案内板を見ると、県指定史蹟を解除され、現在は市指定史跡となっているようです。
市町村指定史跡から都道府県指定史跡に あるいは都道府県指定史跡から国指定史跡はよくあることですが、たまにはこうした逆に解除もあるわけでして。




石碑には「長井庄斎藤別當實盛舘阯」とあります




板碑の文字は読み取れません




でもこうして分かるように説明板が建てられています。




灯籠型の箱の中には、2種類のチラシがありましたのでありがたく1部づつ頂いてきました。斎藤別当実盛公に対する知識がまた増えそうです。
冒頭の斎藤別当実盛公についての紹介は、この左側のチラシ(資料)の文面から引用させていただきました。
能の「実盛」とは、この斎藤別当実盛公のことだと初めて知りました(と言っても能を観たことはありませんが)
たとえ遺構に巡り合えずとも、こうした心遣いは遺構に出会えたくらい、いやそれ以上の嬉しさがあるものです。
また、管理をして下さる「斎藤別当実盛館跡史跡保存会」さんには感謝です。
今回の資料を参考にまた斎藤さんめぐりでもしましょうか。

散策日:2017(平成29年)1月21日(日)

国宝 妻沼聖天山 『本殿』(埼玉県熊谷市)

2017年01月25日 | 神社仏閣


妻沼聖天山の本殿は平成15年より平成23年の8年間を要して保存修理工事が施され、外壁は創建当初の華麗な色彩が復元されました。
この妻沼聖天山本殿は、平成24年7月9日に国宝指定されました(名称『歓喜院聖天堂』)




本殿拝殿の正面は自由に観ることが出来ますが、拝殿正面以外は塀で囲まれており、奥殿の極彩色の彫刻を外から観ることはできません。




と、言うことで入場(拝観)料700円を支払って見学(拝観)することに・・・700円と言う額が高いか安いかは本人の考え方次第でしょう




A4版サイズのパンフレットを頂きました。あれ 入場券の半券は?
何となんと、このパンフレットが入場券の半券を兼ねていたのです。入場券の半券と言うとどうしても小さな紙片と言うイメージがありますので。




奥殿の三方は透塀(玉垣)で囲まれています。




透塀越しに見た奥殿南面です




南面の彫刻です
位置(壁面東西南北)、建造物の各部の名称(腰縁、破風、羽目、蟇股、木鼻、肘木・・等)と彫刻の名称(例:玉を持つ龍)とを合わせて写真の紹介が出来ればよいのでしょうが、大変な作業(本音は面倒だから)ですので写真(ほんの一部)のみを載せておきます。実際の彫刻はこの写真以上のものであることは断るまでもないことですが。
















































さて、700円は高かったか安かったかは本人のみ知るところとしましょう。

拝観日:2017(平成29年)1月21日(日)

妻沼聖天山(埼玉県熊谷市)

2017年01月24日 | 神社仏閣


熊谷市(旧妻沼町)妻沼に所在する通称「妻沼の聖天さま」と言われる【妻沼聖天山歓喜院】を初めて訪ねてみました。その存在については以前から知っていた
ところであり、付近は何度も通りかかっていましたが何故か参拝することもなく今日まで過ぎていました。妻沼聖天山歓喜院は日本三大聖天のひとつされる。

妻沼聖天山は、寺伝によれば治承3年(1179)に、長井庄(熊谷市妻沼)を本拠とした武将斎藤別当実盛が、
守り本尊の大聖歓喜天(聖天)を祀る聖天宮を建立し、長井庄の総鎮守としたのが始まりとされている。




歓喜院本坊本堂近くの駐車場から道路(聖天様南通り)を横切っていくと仁王門前に出たので、参道の一番端(聖天前交差点)まで行ってから歩き始めました。




最初の門は、「貴惣門」




貴惣門




貴惣門の説明板  国指定重要文化財 建築物  




正面屋根下の彫刻




仁王像と思われますが網でよく見えません  なお、右側の像は修理中とのことで空になっていました




貴惣門を側面から見ますと破風を三つ重ねた状態が分ります




貴惣門の背面




貴惣門背後から中門方向に延びる参道  何やら右手に見えますが・・・




妻沼聖天山を開基した斎藤別当実盛公の銅像です   やっとお会いできました
斎藤別当実盛公のことはあちらこちらでお名前が出てきますので存じ上げていました。特に木曽義仲公とのお話は有名です
この銅像は、老武者(この時73歳)と見られる事を恥じて髪を染めて出陣すべく、手鏡を見ながら白髪を黒く染めている姿とのこと。




折角お会いできたのでアップで




更に、角度を変えて




中門の左前に設置されている「武州めぬま聖天山図」




中門の手前右側にある 護摩堂




中門 (四脚門) 




熊谷市指定文化財の説明板




数々の霊場・札所になっているようで門扉の両脇には沢山の木札が




仁王門




仁王門  少し斜めから




妻沼聖天山ご案内の看板




お水屋(手水舎)  手と口を清めてお詣りします




聖天山所蔵文化財の一覧を記した案内板




仁王(金剛力士)像  「ウン」形




仁王(金剛力士)像  「ア」形





仁王門に懸かる山号「聖天山」の扁額




仁王門を背面から




大師堂




本殿(聖天堂) 石舞台  お札・お守りお受所(社務所)




お札・お守りお受所(社務所)




石舞台越しに仁王門背面を




石舞台越しに本殿(聖天堂)拝殿を




本殿(聖天堂)拝殿 ①




本殿(聖天堂)拝殿 ②




本殿(聖天堂)拝殿 ③




本殿(聖天堂)拝殿 ④




国宝 歓喜院聖天堂 の説明板




本殿(聖天堂)拝殿の彫刻




本殿(聖天堂)拝殿側面
本殿(奥殿)の彫刻を見学するのは有料です 依って後ほど




鐘楼




夫婦の木  上部




夫婦の木  根元部




欅と榎が互いに寄り添っている




軍茶利の瀧




平和の塔 ①




平和の塔 ②




平和橋と平和の塔




トイレ壁面に貼られている 「利根川の先陣」図




参道両脇の道路には色々なお店が並んでいます まさに門前町




妻沼聖天山から約150mの所にある 歓喜院本坊本堂  山門




本堂




「歓喜天」とある扁額




境内社

できる限りの写真を使ってみましたが、何枚もの写真を使っても紹介しきれません。

参拝日:2017年(平成29年)1月22日(日)

本庄城跡(埼玉県本庄市)

2017年01月23日 | 100名城以外の城館跡


本庄市にある本庄城跡を訪ねてみました。本庄市役所のそばにあることは分っていたのですが、中々見つけられずいつもの予備調べ不足を今回もやってしまいました。
更に、場所探しのために2度も立ち寄ったそんな市役所も実は城跡の一部であることや、他にも城跡域の場所があったにも気付かず、1度では用が足りないのはここに限ったことではありません。




城山稲荷神社の鳥居  城山と付くのであるから城があったのは間違いないということで




「本庄城趾」の石碑




本庄新八景の標柱
歴史を今に伝える本庄城址の城山稲荷神社 とあり、更に、 この地の豪族本庄氏が弘治2年(1556)に築城・・・と短い説明も




本庄城跡の案内板  判読しずらいので文面を転記します(漢数字は算数字に置き換え)

本庄城跡     所在地 本庄市本庄3-5
本庄城は、弘治2年(1556)本庄宮内少輔実忠により築城されたといわれている。本庄氏は、山内上杉氏に属したが、永禄10年(1567)に後北条氏に攻められて落城し、
後北条氏に攻められて落城し、後北条氏に属したが、実忠の子隼人正(はやとのしょう)の代に至って天正18年(1590)豊臣秀吉の関東攻めにより落城した。徳川家康の
関東入国に伴い、信濃国松尾の城主小笠原信嶺が1万石を賜って新城主となったが、慶長17年(1612)その嗣子信之の代に古河城へ移封され、本庄城は廃された。
元禄13年(1700)の城跡検地帳には3町4反5畝29歩(約3.4ヘクタール)と記されている。その区域は、現在の本庄簡易裁判所から八坂神社にかけての地域で、
北側は元小山川が流れ、南東は久城堀で切断された自然の要害であった。なお、小笠原信嶺夫妻の墓は、開善寺にあり、本庄城跡は昭和33年本庄市指定の文化財となっている。
昭和61年3月     埼玉県  本庄市




城山稲荷神社 御由緒




何か殺伐とした雰囲気の城跡のようですが、春は桜の名所として華やかな雰囲気に変わるようです。




城跡にしては狭いとこの時は感じましたが、実はここはほんの一部のようでした。




鳥居のある場所と反対側から




フェンスの向こうに見える建物は本庄市役所  この辺り一帯が城跡のようです




石段を下りたら窪地になっていました  両端は土塁でしょうか 切岸でしょうか?




この上は先程の平場(市役所方向)のようです




城山稲荷神社の説明板




天然記念物指定のケヤキと城山稲荷神社社殿




城山稲荷神社のケヤキの説明板




城山稲荷神社社殿




社殿裏は元小山川  本庄城は段丘に築城されたことが分ります




公園となっている本庄城跡の一部




同上


あまりにも見落としの多かった本庄城跡でした。機会あれば再訪を・・・時間に余裕を持って

散策日:2017年(平成29年)1月21日(土)

金窪南城跡-陽雲寺-(埼玉県上里町)

2017年01月22日 | 100名城以外の城館跡


上里町金久保地内に「陽雲寺」と言う曹洞宗の寺院があります。ここは、明応元年(1492)に大畠氏が築いたとされる金窪南城跡と言われているようです。
享禄元年(1528)には陽雲寺がこの地に創建されたとされ、城としての機能は短期間で失われたようです。
この陽雲寺に武田信玄の室の墓があるとのことから訪ねてみました。




県道392号線にある寺号標(左)と山号標(右)の石柱




土塁跡  ①




土塁跡  ②




土塁跡  ③




土塁跡  ④




参道から見た本堂




畑時能の墓




畑時能供養祠と銅鐘についての説明板




鐘楼




銅鐘




陽雲寺の説明板




文化財一覧掲示板




鞍間太郎坊大神




陽雲寺所蔵文化財の説明板




本堂




寺号「陽雲寺」の扁額




大棟の鬼瓦には武田菱が  住職は武田信玄の子孫が代々務めている




山門  直進したところに鞍間太郎坊大神がある




山門前の石碑  武田信玄室三條夫人御霊廟 の文字が読み取れる




墓地の一角にある武田信玄の夫人とされる墓所




武田家遺臣招魂碑




玉垣で囲まれた墓所




武田信玄夫人とされる者の墓

同墓の人物は没年等から信玄夫人(三條夫人)とは別人の墓ではないかと言われている
三條夫人の墓は山梨県甲府市の円光院というところにある
「円光院」という寺号は、三條夫人の法号に因んでいるなど




残念ながら「伝武田信玄夫妻画像」や陽雲寺所蔵の文書の実物を見ることはできませんので、何かあるのではないかと「上里町図書館・資料館」まで足を伸ばしてみました。

模写やレプリカとまではいきませんが写真をパネルにしたものが展示されていました
文書も同様に  ※ただし何れも写真はありません


武田信玄夫人とされる墓の疑問点や、城跡としての金窪南城についてももっと考察が必要かもしれませんが今回はこの程度でご勘弁を・・・

散策日:2017年(平成29年)1月20日(金)・21日(土)