■ 国指定史跡 滝山城跡
城 名:滝山城(たきやまじょう)
別 名:―
形 態:平城
時 期:大永元年(1521)
築城主:大石定重
城 主:北条氏
遺 構:本丸・中の丸・二の丸・堀・土塁・虎口・馬出など
指 定:国指定史跡(昭和26年〈1951〉6月9日指定)
続日本100名城123(平成29年〈2017〉4月6日選定)
現 状:都立滝山公園
所在地:東京都八王子市高月町
戦国の名城「滝山城跡」を訪ねて来ました。最初に訪ねたのは続日本の100名城に選定される遥か前の2009年12月の
ことでした。
このころは駐車場がなく、某施設の駐車場止めさせていただき徒歩で2㎞前後(測ったわけではありませんので、もっとあっ
たか、それとも少なかったかはわかりません)の道を行って攻城し、また2㎞の道を帰って来るという苦労をしました。
その後、駐車場が整備されたことを知り、再攻城をと思っているうちに続日本100名城に選定されました。どうせならスタ
ンプラリーが始まってからにしようと延び延びになっていましたが、漸く再攻城となりました、
これだけの大規模な縄張りを持つ滝山城ですから隅から隅まで散策したら何時間を要すことでしょう。主要部を歩いただけで
も優に2時間を超えてしましました。
滝山城跡入口 ここが大手口です
滝山城跡入口看板脇に設置されている「都立滝山公園」案内板 案内パンフレットも備えられており登城に先立ち資料が手
に入るのは大変親切なことです。
ここに限らず散策路の所々にも案内板が設置されパンフレットがおかれています。
天野坂
天野坂に沿う堀跡
小宮曲輪
「都立滝山公園」標柱と案内板
「コの字形土橋」を撮ったつもりなのですが・・・
三の丸を囲む空堀
南馬出(記憶不確かですが)
大馬出
行き止まりの曲輪
信濃屋敷跡
刑部屋敷跡
刑部屋敷跡前から見た大池
千畳敷①
千畳敷②
弁天池跡方向を見ていますがはっきりとは分りません
角馬出 千畳敷側から撮ってみましたが草叢ではっきりしませんね 角馬出は写真右側です
二の丸脇の空堀(記憶不確かですが)
中の丸①
中の丸②
この建物は元「国民宿舎滝山荘」の一部で、現在は地域の活動や、イベント時の滝山城跡情報発信の場として活用されており、
続日本100名城のスタンプが置かれています。
中の丸③
中の丸④
公衆トイレが設置されています 案内板もあります
中の丸と本丸を結ぶ「木橋」
中の丸に敵が押し寄せてきたら本丸へ半分程引き込むことができたと思われる・・・引き橋(曳橋)
木橋(引き橋)の本丸側は桝形虎口となっている
木橋を渡ってすぐの所にある陶製の説明板 日差しの加減で見づらいです
木橋を大堀切から見上げています①
木橋を大堀切から見上げています②
本丸南側桝形虎口
本丸①
本丸② 「史蹟 滝山城跡碑」と「瀧山城本丸址の碑」
「史蹟 滝山城跡碑」
「瀧山城本丸址の碑」碑文
此の城は関東の名城といわれ 天文五年(一五三六)北条氏康、同二十一年(一五五二)上杉謙信 永禄十二年(一五六九)武田
信玄の諸豪からの猛攻を受けている大永元年(一五二一)始めて 石定重之を築き 定久之を受け ついで北条氏照の居城となった
尚 この城の城下町は八王子市の発祥地である。
本丸跡に鎮座する霞神社
井戸
「滝山城」は、大永元年(西暦1521年)に武蔵・守護代の大石定重が築城し、後に大石氏の養子になった小田原北条氏・四代
氏政の弟の氏照が拡張・改修したとされてきました。しかし、近年の研究により、北条氏照は油井領を支配していた大石綱周
の養子になり、「浄福寺(油井城)」(八王子市下恩方町)に居住し、その後、永禄10年(1567年)までに滝山城を築城して
移転したと考えられてきています。
(特定非営利活動法人 滝山城郭群・自然と歴史を守る会発行パンフレット『戦国の名城(国指定史跡)滝山城跡』より抜粋)
再攻城日:平成30年(2018)5月20日(日)
城 名:滝山城(たきやまじょう)
別 名:―
形 態:平城
時 期:大永元年(1521)
築城主:大石定重
城 主:北条氏
遺 構:本丸・中の丸・二の丸・堀・土塁・虎口・馬出など
指 定:国指定史跡(昭和26年〈1951〉6月9日指定)
続日本100名城123(平成29年〈2017〉4月6日選定)
現 状:都立滝山公園
所在地:東京都八王子市高月町
戦国の名城「滝山城跡」を訪ねて来ました。最初に訪ねたのは続日本の100名城に選定される遥か前の2009年12月の
ことでした。
このころは駐車場がなく、某施設の駐車場止めさせていただき徒歩で2㎞前後(測ったわけではありませんので、もっとあっ
たか、それとも少なかったかはわかりません)の道を行って攻城し、また2㎞の道を帰って来るという苦労をしました。
その後、駐車場が整備されたことを知り、再攻城をと思っているうちに続日本100名城に選定されました。どうせならスタ
ンプラリーが始まってからにしようと延び延びになっていましたが、漸く再攻城となりました、
これだけの大規模な縄張りを持つ滝山城ですから隅から隅まで散策したら何時間を要すことでしょう。主要部を歩いただけで
も優に2時間を超えてしましました。
滝山城跡入口 ここが大手口です
滝山城跡入口看板脇に設置されている「都立滝山公園」案内板 案内パンフレットも備えられており登城に先立ち資料が手
に入るのは大変親切なことです。
ここに限らず散策路の所々にも案内板が設置されパンフレットがおかれています。
天野坂
天野坂に沿う堀跡
小宮曲輪
「都立滝山公園」標柱と案内板
「コの字形土橋」を撮ったつもりなのですが・・・
三の丸を囲む空堀
南馬出(記憶不確かですが)
大馬出
行き止まりの曲輪
信濃屋敷跡
刑部屋敷跡
刑部屋敷跡前から見た大池
千畳敷①
千畳敷②
弁天池跡方向を見ていますがはっきりとは分りません
角馬出 千畳敷側から撮ってみましたが草叢ではっきりしませんね 角馬出は写真右側です
二の丸脇の空堀(記憶不確かですが)
中の丸①
中の丸②
この建物は元「国民宿舎滝山荘」の一部で、現在は地域の活動や、イベント時の滝山城跡情報発信の場として活用されており、
続日本100名城のスタンプが置かれています。
中の丸③
中の丸④
公衆トイレが設置されています 案内板もあります
中の丸と本丸を結ぶ「木橋」
中の丸に敵が押し寄せてきたら本丸へ半分程引き込むことができたと思われる・・・引き橋(曳橋)
木橋(引き橋)の本丸側は桝形虎口となっている
木橋を渡ってすぐの所にある陶製の説明板 日差しの加減で見づらいです
木橋を大堀切から見上げています①
木橋を大堀切から見上げています②
本丸南側桝形虎口
本丸①
本丸② 「史蹟 滝山城跡碑」と「瀧山城本丸址の碑」
「史蹟 滝山城跡碑」
「瀧山城本丸址の碑」碑文
此の城は関東の名城といわれ 天文五年(一五三六)北条氏康、同二十一年(一五五二)上杉謙信 永禄十二年(一五六九)武田
信玄の諸豪からの猛攻を受けている大永元年(一五二一)始めて 石定重之を築き 定久之を受け ついで北条氏照の居城となった
尚 この城の城下町は八王子市の発祥地である。
本丸跡に鎮座する霞神社
井戸
「滝山城」は、大永元年(西暦1521年)に武蔵・守護代の大石定重が築城し、後に大石氏の養子になった小田原北条氏・四代
氏政の弟の氏照が拡張・改修したとされてきました。しかし、近年の研究により、北条氏照は油井領を支配していた大石綱周
の養子になり、「浄福寺(油井城)」(八王子市下恩方町)に居住し、その後、永禄10年(1567年)までに滝山城を築城して
移転したと考えられてきています。
(特定非営利活動法人 滝山城郭群・自然と歴史を守る会発行パンフレット『戦国の名城(国指定史跡)滝山城跡』より抜粋)
再攻城日:平成30年(2018)5月20日(日)