四季・めぐりめぐりて

近隣の城館跡・古墳などの史跡めぐりなどをぼちぼちながらやっています

斎藤氏館跡-斎藤美濃守館跡-(埼玉県毛呂山町)

2017年02月28日 | 100名城以外の城館跡


入間郡毛呂山町平山(旧・岩井)に所在する「斎藤氏館跡」を訪ねてきました。

斎藤氏の出自は三河で、斎藤別当実盛を祖とする斎藤美濃守豊長が天文4年~5年(1535~1536)頃、毛呂山に移り、堀の内に館を構えたとのことです。
斎藤氏は、扇谷上杉氏、松山城主上田氏に仕え、天正18年(1590)松山城落城とともに帰農しました。
斎藤富治は、堀の内を去り、その東に屋敷を構え「平山大尽」とよばれる豪農になりました。
屋敷跡は、今も屋敷を囲むように土塁が残っており、斎藤氏館跡の名称で県選定重要遺跡の指定を受けておりますが、現在も子孫の方がお住まいになっています。

この斎藤宅は、敷地の一部をバラ園としており、知る人も多いようです。訪問時、丁度、バラ園をやっている当主の奥様がバラ園の手入れをしているところでしたので、
土塁を見学させてほしい旨をお願いしたところ快諾いただきましたので見学させていただきました。


[

立派な長屋門です 




土塁は敷地東側を除くコの字型で遺っており、この部分は南側の東方部分です  この写真左側(敷地東側)がバラ園になっています




南側の土塁南方部分です   若干外側から




南側の土塁南方部分  内側から




西側の土塁を南方から




西側の土塁を北方から  写真の右側は空堀跡かと
この土塁の北西隅が一番高く残っています




北側の土塁を西方から




北側の土塁を東方から

もう少し色々な角度から見れば更に遺構の素晴らしさが分ったのでしょうが、敷地内をズカズカと歩くわけには行きませので外周からほんの少しだけに留めさせていただきました。
次回は、斎藤氏館としてではなく、バラ園『Garden Cafe Green Rose』として、バラを観に行きたいですね。

散策日:2017年(平成29年2月19日(日)

帝松酒蔵まつり2017・武蔵越生高等学校和 太鼓部 「青龍」

2017年02月27日 | まつり・イベント


2月26日(日)、関東灘こと小川町にあります『帝松』(松岡醸造)において、「帝松 第14回 酒蔵まつり」が開催されましたので行ってきました。
左利きの方にとってはとても楽しみ恒例のお祭り。左利きでない自身にとっても楽しみなお祭りです。
お酒は飲みませんが、武蔵越生高等学校 和太鼓部「青龍」さんの和太鼓演奏を楽しんできた次第です。




昨年は残念ながら酒蔵見学はできませんでしたが、帝松さんで、予定外の酒蔵見学を組んで下さいましたので、
「青龍」さんの演奏第1部(午前)、第2部(午後)の合間に見学することが出来ました。
以下は、「青龍」三尾演奏の模様の一部ですが、午前・午後の部を一緒にアップしてあります。


























































散策日:2017年(平成29年)2月26日(日)

越生氏館跡-越生神社-(埼玉県越生町)

2017年02月26日 | 100名城以外の城館跡


入間郡越生町越生1015に所在する越生神社を訪ねてきました。この越生神社のあるあたりが「越生氏館跡」ではないかと推定されています。
これとは別に、この越生神社から少し下がった所にある旧越生織物商工業協同組合(越生717)の建物前に、「越生氏館跡」の標柱が建てられていたという
ことから、同所付近が館跡であったのではないかとの推定説もあります。同所は現在、越生絹会館というセレモニーホールに変わっています。今でも標柱があるか
どうか確認しよとしましたが、生憎セレモニー中で確認できませんでした。何れにせよ、付近に越生氏館があったのは事実のようですし、
雰囲気的には越生神社周囲が館跡っぽいので、個人的に勝手に越生神社を館跡と言うことにして散策してきた次第です。




越生氏についてですが、黒岩氏館跡・五大尊に設置されている「児玉党越生氏の系図」パネルを使わせていただきます。黄・橙・青線は加筆です。
入西資行の三男(あるいは四男とも)有行が越生の地に居館を構え越生氏を称する(越生氏の祖)。なお、資行の長男行業(成)は浅羽氏を、次男遠弘は小代氏の祖となります。
戻って、有行の子に有弘、有頼、有平の三兄弟があり、有弘は越生氏を継ぎ、越生四郎有平の子有年は鳴瀬(成瀬)氏を、有光は黒岩氏を、有基は岡崎氏をそれぞれ興したそうです。




越生神社参道入口




土塁(?)の一角に「越生神社」の石柱が建っています



一の鳥居(?)




右にカーブして二の鳥居(?) 正面に社殿が見えます




越生神社社殿(拝殿) 右側にちょっとだけ写っているのが日吉神社
他にもいくつかの境内社がありますが省略しました




「越生神社と高取山」案内・説明板
こうした案内・説明板が散策に大変役に立ちますし、また、無いと寂しい限りでもあります




「越生神社と高取山」
(前段省略)
越生神社の奥宮がある高取山には中世の山城址がある。標高170mの頂上が平らに削られ、空堀と土塁で画された郭(曲輪)が数段残されている。
江戸時代の地誌『新編武蔵風土記稿』には「越生四郎左衛門屋敷跡」と記されている。越生四郎左衛門は『太平記』に登場する、南朝の北畠顕家を討ち取った武将である。
越生神社下方の平坦地付近と推定されている越生氏館背後の高取山に築かれた「物見砦」や「詰城」であった可能性がある。
一方、現存する遺構は室町期後半から戦国期のものであり、太田道真・道灌父子と長尾景春の戦いを中心とした時期のものとみる見解もある。
平成25年3月    越生町教育委員会

と、高取山城(別名:高取城 越生要害山城)についての記述はありますが、 
ここ越生神社が越生氏館跡という記述はありません。それどころか、越生神社下方の平坦地付近と推定されている越生氏館云々とあります。
やはり、越生絹会館付近に越生氏館はあったのかと思ってしまいます・・・何れも推定ではありますが。
また、南朝の北畠顕家を討ち取った越生四郎左衛門とは越生氏の誰を指すのかはわかっていないようです。




越生神社脇を通っている道路 このだいぶ先に【世界無名戦士乃墓】があります




越生神社の背後から
右に立札と標柱が見えますが、ここが高取山への登山口

痛い足を引きずりながら高取城跡を攻めてきましたので、失敗談を含めての攻城記は後日、別投稿とさせていただきます(馬鹿なことをしたので足の痛みが悪化した)




神社脇道路からみた越生町市街地の眺望 茶色の建物が越生町役場
これだけの眺望ですから館の立地には最適な場所ですね

散策日:2017年(平成29年)2月20日(月)

岡崎氏館跡-岡崎薬師-(埼玉県越生町)

2017年02月25日 | 100名城以外の城館跡


入間郡越生町大字越生字岡崎に本拠を置いたとされる「岡崎氏館跡」を訪ねてきました。
岡崎氏及び館跡についての説明は現地の案内板に書かれていますので敢えて文章にはしません(いつもの手抜き)




岡崎氏館跡とされるところは、県道飯能寄居線(30号線)から山側に入ったところにある越生町役場の西の山側200mあたりで、
越生町立図書館の裏手に当たります。付近には標識がいくつも建っていますので容易に見つけられます。
左の建物が図書館。奥の山際に見えるのが岡崎薬師




岡崎薬師
石段脇に標柱と岡崎氏館跡の説明板が設置されています(トップ写真に使ったもの)
標柱には、「越生氏分家・岡崎市館跡  鎌倉初期岡崎有基が興した岡崎氏の館跡、此処が当時の岡崎村の中心」と親切な記載あり




岡崎薬師の左隣には岡崎稲荷があります




岡崎氏館跡の説明板




こちらの説明板が元々は石段脇にあったもので、上の写真の説明板設置に伴い岡崎薬師に向かって参道左側に移されたようです。
内容は新しいものと重複する部分が多いです(説明板ごとに内容に違いがあっては困りますが)
説明文の中に、「岡崎薬師が、鎌倉、南北朝時代に各地に転戦した越生氏一族の、現存する唯一の遺跡である」との記述があり、現在あるお堂自体が往時からのものと
解釈できないでもありませんが、そこまで古い建物にも思えませんので、岡崎薬師のある場所が当時からの場所であるということなのかと推測します。




文章だけですと今一つ理解しづらいので(自身だけかもしれませんが)、黒岩氏館跡・五大尊に設置されている越生氏系図のパネルをこちらでも使わせていただきます。




薬師前から参道を振り返ってみました。岡崎氏館が高台にあったことが分ります。
写真左にある黄色の建物は郷土資料館ですが閉館されているもようです。


散策日:2017年(平成29年)2月19日(日)

黒岩氏館跡-五大尊-(埼玉県越生町)

2017年02月24日 | 100名城以外の城館跡


入間郡越生町黒岩に所在する「黒岩氏館跡」を訪ねてきました。館跡と言っても遺構等は遺っていませんが、五大尊つつじ公園一帯が館跡と言われています。

公園を入ってすぐの場所に、眩いばかりの金属製のパネルに「越生氏分家・黒岩氏館跡 鎌倉初期黒岩有光が興した黒岩氏館跡」と記された標柱が建っています。
その脇には、やはり金属製のパネルに書かれた系図と「黒岩氏本館の地」の説明板が建っています。
この金属製の説明パネルは、昨年から越生町内の史跡等に設置されており、写真もしくは図面と説明文の組み合わせになっているようです。




越生氏一族の系図  黄色の部分が黒岩氏  赤色の部分が成瀬氏  水色の部分が岡崎氏




黒岩氏・成瀬氏・岡崎氏は越生氏から派生した一族との説明がなされています




五大尊つつじ公園




五大尊明王堂




五大尊明王堂前あたりから越生町市街地を望む

散策日:2017年(平成29年)2月17日(金)

山根城跡(埼玉県毛呂山町)

2017年02月23日 | 100名城以外の城館跡


入間郡毛呂山町毛呂本郷244番地付近にある「山根城跡」を訪ねてきました。正しく言うと、山根城跡の石碑を見て来たということです。
石碑の建っている場所は、JR八高線毛呂駅から高崎方面にふたつ目の踏切である第二大師踏切の脇です。碑の建つ場所を点で捉えると、
毛呂山町岩井西地内になります。ただ、目標とする妙玄寺の所在地が毛呂本郷244番地であることからこの付近として皆さんは紹介しているようです。
さて「山根城」とは、妙玄寺にある「此のお寺のこと」と題した説明板の中に、
   
妙玄寺の南東に接して毛呂氏の館跡地である「堀ノ内」がある。
毛呂城はまた、毛呂土佐守顕季陣屋とも称した。新編武蔵風土記稿に「毛呂氏陣屋跡所の字を堀ノ内
といえり、今陸田となる。九反九畝十六歩の地なり」とある。土塁や構え堀の遺構は今ではほとんど
わからなくなったが、堀ノ内の古名は八高線の線路をはさんで今も残っている。

とあり、この地方に勢力を誇っていた毛呂氏の城館のひとつとされ、毛呂顕繁夫人の創建とされる妙玄寺もこの山根城の城域に建っています。




興味を持って行っても小さな碑ですから見落としてしまいそうです。




今は畑や住宅街となっているこの辺り一帯に山根城があったようです。
背後に見える山が流鏑馬が行われる出雲伊波比神社がある臥龍山




この寺が毛呂山町毛呂本郷244に所在するこの曹洞宗の寺院「妙玄寺」です。
同町小田谷に所在する「長永寺」の末寺で、境内に毛呂氏数代の供養塔があります。




寺について記されています




本 堂




毛呂氏供養塔の説明板




毛呂氏供養塔




同 上

散策日:2017年(平成29年)2月17日(金)

毛呂氏館跡-長栄寺-(埼玉県毛呂山町)

2017年02月22日 | 100名城以外の城館跡


毛呂山町小田谷698に所在する「毛呂氏館跡」を訪ねてきました。現在、この地には毛呂氏が開基した「長栄寺」が残るのみです。
毛呂氏は藤原鎌足の後裔が毛呂郷に移住して毛呂氏を称したのが始まりとされ、毛呂季光を祖として15代が、この毛呂氏館に居住したといわれています。
季光は、源頼朝からの信任厚く源氏一門に準ずる破格の扱いを受けたと言われる。戦国時代、天正18年(1590)秀吉の小田原攻めの際、八王子城に籠り
毛呂氏一門の多くはこの時討死した。その後、小田原本城も開城となり、400余年に亘った毛呂氏は滅び、残された妻子は他村に移るやむなきに至ったとのこと。




長栄寺山門 「金嶋山」の山号扁額




参道脇に建つ「毛呂顕季館跡」の石碑  単に毛呂氏館跡でよかったのにと思いますが




「埼玉県選定重要遺跡 毛呂氏館跡」の標柱  右側面に長栄寺に関しての簡易な説明が記されています
この長栄寺は、かつて毛呂氏の館があった所である。戦国末の大永五年、毛呂土佐守顕季は館を廃し寺を建て、
越生龍穏寺七世節庵良筠和尚を招いて開山したのが、この金嶋山長栄寺である。(以下省略)




本 堂   昭和46年の火災で焼失し、その後再建されたもの 下の鐘楼も同様




鐘 楼




本堂裏手の山林端にある毛呂氏の供養塔




「毛呂氏の供養塔」の説明板
毛呂氏の大まかな歴史が分ります




供養塔




供養塔




「毛呂氏の供養塔」の更に上にある毛呂氏館跡を目指します  親切に標識があります




人が踏み歩いた跡のとおり進みます




墓地の脇を抜けると「毛呂氏館跡」の標識があり この先が平場(削平地)になっています




平場(削平地)  さほど広さはありませんが郭跡と考えてでよいでしょう




空堀  堆積物で埋まっており浅くなってしまっています  写真では堀割状態がわかり難いかと




土 塁




本堂と反対側の山の途中にある不動堂 堂側面には木製宝刀が




鐘楼等の建物の背後にある山林が毛呂氏館跡

散策日:2017年(平成29年)2月17日(金)

小代氏館跡-青蓮寺-(埼玉県東松山市)

2017年02月21日 | 100名城以外の城館跡


東松山市正代851に所在する青蓮寺周辺を訪ねてきました。この地に「小代氏館」があった場所と言われています。

小代(しょうだい)氏については、青蓮寺境内にある小代重俊供養塔
「埼玉県指定史跡 弘安4年銘板石塔婆」
の説明板の中から一部を下記に引用させていただきます。

小代氏は、武蔵七党(横山、猪俣、野与、村山、西、児玉、丹党)の児玉党の入西資行の次男遠弘が、小代郷に住して小代を名乗ったことに始まります。
子息重康の「宝治合戦」での活躍により、重俊は宝治元年(1247)鎌倉幕府から肥後国野原庄(現熊本県荒尾市)の地頭職に任ぜられています。
当時はその地に赴かず、地頭代に所領の管理を任せていましたが、文永8年(1271)幕府から蒙古襲来に備えるため、また、領内の争いを治めるため
重俊の子息等は野原荘へ行くことを命ぜられ、小代氏一族は野原荘へ移り住んでいきます。その後、三百数十年にわたりその地で勢力を誇ったそうです。
小代氏の菩提寺となっている荒尾市の浄業寺には、一族の供養塔群が残されています。
平成16年3月  埼玉県教育委員会  東松山市教育委員会

小代氏の名はそのまま大字「正代」として、この地に今も残されています。




小代氏館は、都幾川と越辺川との間に張り出した台地の東端という地の利を得た場所に築かれていたようです。
この青蓮寺のある所が、南東端付近とされるようです。




青蓮寺境内と本堂




小代重俊氏供養塔(弘安4年銘板石塔婆)




同 上




「埼玉県指定史跡 弘安4年銘板石塔婆」の説明板
この中の一部を冒頭で使わせていただきました




御霊神社
小代氏館跡(青蓮寺)の南隣にあります。源義朝の長子悪源太源義平は、久寿2年(1155)叔父の帯刀先生源義賢(駒王丸・木曽義仲の父)を
大蔵館(嵐山町)に攻め滅ぼした時に、この地に居館を構えて居住していた。
その後家臣の小代遠弘が居住し、悪源太義平(源義平)を御霊と祀り崇敬してきたとされる。
(悪源太義平は「平治の乱」で捕らえられて、平治元年(1160)に六条河原で処刑された)




御霊神社の社号額




社 殿

散策日:2017年(平成29年)2月17日(金)

野本氏館跡-無量寿寺-(埼玉県東松山市)

2017年02月20日 | 100名城以外の城館跡


東松山市下野本662に所在する「野本氏館跡」を訪ねてきました。以下は現場に設置の説明板から

東松山市指定文化財  野本館跡  (昭和49年7月10日指定)

野本基員を初代とする野本一族の館跡です。野本氏は系図から平安時代の公卿藤原基経(836~891・堀川大臣)の家の警護をしていた片田基親の子息基員が武蔵国野本に
移り住んで野本左衛門と名のったのが、野本氏の始まりと言われています。基員は源頼朝の信任の厚かった武士で、鎌倉時代の歴史書「吾妻鏡」にも登場する人物です。
館は現在、無量寿寺の境内地となっており、本堂の北側で土塁と堀がわずかに確認できるだけとなっていますが、実際は二重の堀と土塁を廻した構造の館となっています。
外側の土塁と堀は当初からのものでなく、後世の増築によるものと考えられています。江戸時代の武蔵国の様子を書いた「新編武蔵風土記稿」の無量寿寺の項には
「寺領の外境内一万四千坪、境の廻り四方に堤を築き、堀の跡残れり」とあり、同書の「将軍塚の図」には土塁や堀の様子が描かれています。
館が造られた時期については、基員が貞永元年(1232)に亡くなっていること、また無量寿寺に残されている建長6年(1254)銘の銅鐘の拓本により、
当時無量寿寺が野本寺といわれていたことなどから、遅くても13世紀の初め頃には館が造られていたと考えられています。

平成17年3月        東松山市教育委員会




「市指定史跡 野本館跡」の標柱




山門(四脚門)




山門脇に設置されている「野本館跡」説明板




山門に掲げられている山号「利仁山」の扁額




本 堂
この写真では分らないと思いますが、大棟と唐破風の屋根瓦には「三つ葉葵」紋が使われています。当寺とどういう関係があるのでしょうか?




寺号「無量寿寺」の扁額




本堂北側にわずかに残る土塁




同 上




土塁周囲の更地は最近まで竹林だったようです  建物は野本小学校

散策日:2017年(平成29年)2月17日(金)

本田氏館跡(埼玉県深谷市)

2017年02月19日 | 100名城以外の城館跡


深谷市(旧・川本町)本田5032に所在する「本田氏館跡」を訪ねてきました。
館跡と言っても本田氏館には現在も後裔の方が住まわれており、今も「お屋敷」と呼ばれているようです。いくら旧跡とはいえ、私有地を勝手にと言うわけにもいきません。
散策の許可を頂きにお伺いしたところ、快く承諾してくれて、蔵の脇から入れますよとご親切に教えていただきました。

本田氏館については、屋敷前に設けられている説明板で代用させていただきます(詳しくは述べろと言われても述べられませんし)

写真右下の道路縁石にある絵は「畠山重忠公」です。縁石の所々に何種かのこうした絵がはめられていますが、ここに「畠山重忠公」を持ってきたのは決して偶然ではないでしょう。




畠山重忠が産まれたとされる場所、また重忠の墓とされる場所である「畠山館跡」(現在は畠山重忠公史跡公園)は、ここからほど近い(旧・川本町)畠山にあります。




旧・川本町地内の史跡跡等にはこうしたカルタが立っています。




本田家現在の屋敷裏の雑木林です。ここが郭跡でしょう  〇印の所に氏神様と碑が建っています




碑には「本田次郎近常遺跡地」と刻まれています




はっきりとはしていませんが空堀跡のようです




やはりはっきりとはしていませんが、空堀と土塁のようです

時間をかけて散策すればはっきりした遺構を写真に収めることが出来たかもしれませんが、現在も生活が息づいている場所ですので長居はできません。
館跡を確認出来たという事実だけで十分です。

散策日2017年(平成29年)2月6日(月)