水上陽平流の表現でいろいろな事を書いています。本館は http://iiki.desu.jp/ 「氣の空間」
第十一章(2)
無苦集滅道
最初の「苦諦」。
人生は「苦」である、という後ろ向きの真実。
真実は何処にでもあるから、後ろ向きのもあるのだ。
決して、真実は一つでコレしか無い、などと思わないでね。
性格が暗い人が唱える・・・。
ラテン系は「苦」だなんて思わないぜ。
四苦プラス四苦で「四苦八苦」がある。
生・老・病・死が全て「苦」だとしていた。
ブッちゃん(仏陀)が出家する最初の疑問題だ。
そもそも、最初からブッちゃんは間違えていた。
この頃はブッちゃんではなく、シッちゃん(シッタルーダ)だった。
苦も楽も愉も嬉も快も、本人が選ぶ道だろ。
生老病死は避けられない人生ではあるけど、
そこに苦を最初から付けるのは・・・暗い性格だ。
やがて、シッちゃんはラテン系になる。
その時にブッちゃん(仏陀)となったのだ。
四苦八苦を強調するのは、出来損ないの弟子達だ。
(過去のプログは本館 「氣の空間・氣功療法院」です。)
第十一章(1)
無苦集滅道
またまた仏教用語だ。
「苦集滅道」を「四諦」という。
四つを諦める、という意味じゃないぜ。
まぁ、それでも理屈は付けられるけどなぁ。
理屈なんて、どんな事でも付けられるもんだ。
何しろ、人に真理の判断能力は無い。
宗教は言いたい放題なのさ。
サンスクリット語の音読みを漢字に当てはめたのだ。
般若(パーニャ)とか波羅蜜多(パーラミタ)と同じだ。
だから漢字の意味は無い。
サティア(真実)を諦と当てはめた。
四つの真実(真理)という意味だ。
だが、真理ばかり多くてなぁ・・・
精神世界は真理や真実が好きだなぁ・・・。
まぁ、四諦にはいろいろな意味を込めてある。
真理を僅かな文字に託すんだもの、無理もあるさぁ。
というわけで、一応、無理を説明しないと先に進めない。
ゲンちゃんも多くの文字を書くのがメンドウだったのね。
つい、仏教用語を多用して心経を書き上げたのだ。
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第十章(13)
無無明亦無無明尽 乃至無老死亦無老死尽
「無明だから不安もあるよなぁ。
迷いも不都合もあるよなぁ。
だからといって、無明を無くそうとしなくていいぜ。
そんな事に人生を費やすと、人生が無駄になる。
オレもな、嘗て悟りを得ようと修行した。
そして、やっと、それらの努力は間違いだと気づいたのさ。
大切なのは、無明の中で生きる事なんだぜ。
それには無明にこだわらないことだ。
更に、無明を愉しむ事だ。
無明を愉しむとは、人生を愉しむ事だぜ。
愉しむってのは、一時一時を大切にするって事さ。
難しい事ぁ、無ぇだろ。
それが、無無明って事だ。
愉しめるなら、人生、何回やってもいいだろ。
それが、無老死尽って事だ。
何度生まれ変わって、無明の中で生きてもいい。
そう思えるようになるのが、智恵ってもんだぜ。
小難しい理屈じゃ無ぇんだよ」
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第十章(12)
無無明亦無無明尽 乃至無老死亦無老死尽
ワシ的訳。
「先の事は分からねぇだろ。
それを無明っていうんだ。
いろいろ迷ったり苦しんだりするだろ。
それらには原因があるんだ。
とりあえず、十二個の影響があると思ってくれ。
一応、まとめて十二因縁っていうんだ。
おっと、そんな事ぁ覚えなくていいぜ。
無明から始まって最後は老死になるけどな、
老死から、また無明につながるんだ。
そうして、何度も生まれ変わって人生を体験するんだ。
先が分からねぇ人生だから、いろいろ体験できる。
何でも分かって、何でも見切っていたら人生しなくてもいい。
つまりな、
生きているって事は、無明の闇だから意味があるんだ。
迷って、苦しむ事ぐらいで人生を嫌になるんじゃねぇぜ。
無明だからこそ、嬉しさも愉しさも気持ちよさも味わえる。
無明や老死から離れたら、生きている実感も無ぇのさ。」
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第十章(11)
無無明亦無無明尽 乃至無老死亦無老死尽
「無明」の中で生きている。
十二因縁の世界内で生きている。
それは大前提だ。
ならば、どう生きるか。
それが経なのだ。
ブッちゃんは「無」というコツをくれた。
「こだわるなよ」と笑顔で言った。
その先には「愉しめよ」がある。
無明を愉しむ。
無明は愉しめる環境なのだぜ。
愉しむ事が道(経)となる。
無明だから、全てが経験となる。
無明だから、生きる力がある。
先が分からないから、生きられる。
無明は、生かしてくれる環境なんだぜ。
苦しみを含めて、生きる力となるんだぜ。
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第十章(10)
無無明亦無無明尽 乃至無老死亦無老死尽
通常は「無明」を最初から「間違い・悪」と決めている。
ロクデナシだ!無能だ!役立たずだ!
ヒ、ヒドイわ・・・
無能愛好会に贔屓するワシは「無明」を弁護する。
無明や無能やロクデナシなら、ほぼ全人類が当てはまる。
自分は有能だと思っていたら、それは無知か厚顔だ。
心の中を覗けば判る。
今までの人生を振り返れば判るはず。
だから・・・人は、可愛いのだ。
だから、有能だと思い込んでいる人は、可愛くない。
無明は、この世界(物質・肉体世界)の基本環境だぜ。
無明から抜け出したら、この世界にはいられない。
抜け出る事が素晴しいかどうかは、別な話だ。
抜け出てみなければ判らない。
少なくても、この世で生きている限りは無明を肯定しようぜ。
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第十章(9)
無無明亦無無明尽 乃至無老死亦無老死尽
誤解された解説がある。
「無明」が生きている事を苦しめる。
そこから続く十二因縁が迷いや苦しみを産む。
未来の「老死」は更に来世の「無明」へと続く。
この悪循環を断ち切るには正しい道を歩かなくてはならない。
それには、○○教が一番。
さあ、いらっしゃい!
・・・・・
ブッちゃんは宗教(組織)をしたいのじゃないぜ。
苦しみから解き放たれる、我々の顔の変化が観たかった。
その笑顔が好きだったのだ。
だから「正しい道を歩みなさい」などと言わない。
大丈夫だぁ、と言ったのだ。
「老死」は十二因縁の最初の「無明」に続く。
「老死尽」は続き続ける十二因縁の全てを表す言葉だ。
それに「無(こだわるなよ)」を付けた。
気にしなくても大丈夫だぁ。
十二因縁の中で暮らしていても大丈夫だぜ。
お前ぇ等は、愛されているぜ。
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第十章(8)
無無明亦無無明尽 乃至無老死亦無老死尽
「無老死尽」をどう訳すか?
というより、ゲンちゃんはどういうつもりだったのか?
これも難しいわけじゃない。
ヒネクレていても、基本は優しさだ。
誰の為に書いたか、を忘れなければ明白になる。
「十二因縁」なんて書いたけど心配するなよ。
全部、気にしなくていいからな。
無明に尽きても大丈夫なんだ。
だから十二因縁全部も大丈夫だ。
ゲンちゃん(玄奘)はブッちゃん(仏陀)とシンクロしている。
ゲンちゃんの書いた心経は、ブッちゃんの言ったことだ。
ブッちゃんは十二因縁の仕組みを説いたのではない。
十二因縁なんか、気にしなくていい、と説いたのだ。
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第十章(7)
無無明亦無無明尽 乃至無老死亦無老死尽
マトモな人は「老死尽」の訳に困っているようだ。
「老死も無く、老死に尽きる事も無い」・・・
老死に尽きるという言葉はないだろうなぁ・・・。
ここにもゲンちゃん(玄奘)のオチャメ心がある。
イタズラ坊主の心経だぜ。
「無無明乃至無老死」
通常ならこれでいいはず。
「無明尽」なら何とか訳せる。
「無明に尽きる・最後まで無明だ」でいい。
だけど「老死尽」は訳せない。
十二因縁の最後の「老死」だ。
最初の「無明」へと続く。
老死に尽きる、では続かない・・・。
心経は「イイカゲン」でないと訳せないのだ。
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第十章(6)
無無明亦無無明尽 乃至無老死亦無老死尽
「老死」は十二因縁の最後の言葉だ。
人は無明で生まれ、老死まで続いて迷う存在だ。
だから無明から脱却しよう!
というのは無茶な話だし、宗教組織の商品言葉だ。
無明から脱却したフリの教祖やその他はいる。
本当に無明から脱却したら、人間でいられない。
「悟り」を得たら、人間ではいられない。
そんな事は当たり前なのになぁ・・・。
「悟り」を商品にして商売するんだもんなぁ・・・。
頭いいよなぁ・・・・
頭の悪い衆生達、ケモノ達、妖怪達。
騙されるくらいで落ち込むなよ。
ブッちゃんは、その為に話をしてくれている。
「般若」はその為に書かれているのだ。
頭のいい、悪いと幸せは別次元なんだ。
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