智恵子抄 「山麓の二人」 高村光太郎
二つに裂けて傾く磐梯山の裏山は 険しく八月の頭上の空に目をみはり
裾野とほく靡(なび)いて波うち 芒(すすき)ぼうぼうと人をうづめる
半ば狂へる妻は草を藉(し)いて坐し わたくしの手に重くもたれて
泣きやまぬ童女のやうに慟哭(どうこく)する
―わたしもうぢき駄目になる 意識を襲ふ宿命の鬼にさらはれて のがれる途(みち)無き魂との別離
その不可抗の予感
・・・・・わたしもうぢき駄目になる
涙にぬれた手に山風が冷たく触れる わたくしは黙つて妻の姿に見入る
意識の境から最後にふり返つて わたくしに縋(すが)る
この妻をとりもどすすべが今は世に無い わたくしの心はこの時二つに裂けて脱落し
闃(げき)として二人をつつむこの天地と一つになつた。
「・・・・わたしもうぢき駄目になる」、この一句に、千恵子の震える魂そのも
のの、慟哭を聞いたような気がする。
私達の未来には、夢や希望に満ちふれれ光が差し込んでいる一方で、時
に思いも掛けない運命が待ち受けていることがあるものです。
自分の力ではどうする事も出来ない、どうしても超えることの出来ない大き
な壁が・・・・・千恵子にも、どうしても取り返すことの出来ない意識が、自分
の中から急速に薄れて行く中で、「・・・わたしもうぢき駄目になる・・・」と、
自身の全人格が壊れ去って行くことを思い、どれほど悲しみ、苦しんだこと
だろうか。
私は、この詩集を読む度に、この一句のところまで来ると、「今頃姉は
どうしているのだろうか。 たとえ意識の向こう側にあっても、元気でいるの
だろうか」と、想いを巡らす一方で、元気な頃を思いえがき、私を認知さえ
出来なくなっている今を思うと、ついつい、訪ねることを躊躇してしまう。
子供の頃から人一倍利発で、社交的で、饒舌で面白く、私を殊のほか可愛
がってくれたのも、この長姉である。
アルツハイマーと痴呆症を併発し、施設での生活が、もう随分長くなる。
数年前に訪ねた時は、「〇〇〇だけど分かる」と言うと、分かっていると云う
ものの、気持ちは、まだ娘時代を霞みの向こうで回想している様な仕草を
見せていた。
だが、今は母弟・姉妹や子供やの顔すら分からなくなってしまっているのだ
が、向かい合って手の温もりを伝えながら、話し掛ければ何かを感じてくれ
るだろうか。
やっぱり、近く会いに行こう。
~貴方にとって、今日も良い一日であります様に~
雨に濡れたハマナスの花