『池のほとりで』
高校時代、よく一緒にゲームセンターに通った男が結婚した。
上野にある「池の端文化会館」で、小雨の中でジューンブライドを挙げた。
この式場はださいという先入観があったが、意外にすてきで、スタッフも親切だった。
五年ぶりに顔を合わせた同級生。女子らはすっかり大人の女性でびっくり。
二次会は若者だけで騒ぎ、三次会には新郎新婦は参加せず
いくつかの店へと分かれていったようだ。
雨はしとしと降っていたが、風は生ぬるかった。
僕が参加したグループは、当時からもペットの小鳥について語り合うような
静かな面々であった。
プロントで黒いビールをすすりつつ、ジャーマンポテトをつついて
それぞれの社会人生活を報告。
就職をしていない者もあるが、かえって熱く人生を語っている。
「バイトとかけ持ちで大変だけど、この資格を取って切りひらいていきたい」
なんと、髪結いを修行しているという。
中に、高校時代からもおとなしい、聞き役だった小野さん。
彼女は現在、ヨガインストラクターをしているという。
「えっ、それじゃあ体めちゃ柔らかいの?」
「あ、まあ普通よりはそう」
当時、僕はその子とあまり話さなかったけれど、
たまに目が合うときがあって、その純粋な瞳に吸い込まれそうだった。
どんどん夜は更けて、一人一人減っていく。
僕は、小野さんがなぜかテーブルの縁に指さきを押し当てながら
左右になぞりつづけている仕草が氣になっていて、なるべく粘ることにした。
最後の三人で店を出たときは、十二時をとっくに過ぎていた。
快活な女性、大枝さんは
「んではね~」と手を振って、常磐線のホームへ走っていった。
僕と小野さんは同じ線に乗るのだが、表示板に「最終」とある。
周りの人々が駆け抜ける。
「小野さん、走ろう!」
彼女に呼びかけたものの、表情も変えずに
マイペースに、とことこと軽い早あし。
ホームに上がってみたら、ちょうど鉄道は
明日へ向かって出発した後だった。
「うわあ~…行ってしまった。。」
彼女はにこっと微笑んで言った。
「今日は土曜日だし、暖かいから何とかなるよ」
その落ちつき具合にムッときたが、
やや憧れていた小野さんと二人で取りのこされて、
心臓はどきどきと響いていた。
「とりあえず…駅を出なきゃ」
雨は少なくて、南風がすがすがしい。
なんとなく歩いて、上野公園に入って葉桜の並木みちを歩いた。
人はちらほらで、草からは虫の声が響いている。
緑いろの薫りの中で、ふいに小野さんから
杏仁豆富のような芳香が泳いできた。
会話はなく、すいすいと進んで噴水広場に着いた。
その先はうっそうと暗い雰囲氣なので、二人は脚をとめた。
「さあ、これからどうしようか…」
噴水は停まっていて、水面にさざ波が揺れる。
久しぶりに小野さんの顔を向くと、
白く曇った空の下、変わらぬ尊いお顔であった。
「徹夜するのはよくないよ、夜はちゃんと寝ナイト。」
「漫画喫茶とか、カラオケとか?」
「かえって疲れるよ」
「…とりあえずま、公園をおりよう」
上野駅公園口のテラスを進み階段を下ると、
まだ賑々しい週末の夜。
「ビジネスホテル、とかかな・・・」
僕は独りごとのようにつぶやき、二人で線路づたいを歩いていった。
やがて辺りはしんとしてきて、小野さんの方をちらりと向いたら、
彼女も同時にこちらを向いた。
「んん?」
赤い傘の中で、薄紅色に映えてるほっぺたと
青いほど深い瞳は、じつにかけがえのない今。
「大丈夫?疲れてない?」
「私はへいきよ」
歩き歩きていくと、いつの間にか周囲にネオンが目立ってきた。
「ラブホテル街だっ!」
臆することなく口にした小野さんに、
僕は緊張して、「ウン」と小さく応えた。
不意に折しも、おばさんが道路をななめに横切って近づいてきた。
「お二人さん!部屋あるよ。安くするよ~」客引きのようだ。
「えっ…」僕が横を向くと、小野さんは無邪氣に微笑んだ。
「泊まっちゃおっか?」
広大な寛永寺の墓地と線路をはさんで、
鶯谷にはラブリーな旅館が林立している。
夜中に元氣な骨太のおばさんに付いていったら、
シャロムというホテルは満室、
近くのシャロムⅢも一杯で、ようやくシャロムⅡに入れた。
「わたしはね、こういうお店初めて」
平常心を保とうと、僕は鼻から腹式呼吸を繰り返している。
カギを回しドアを開けると、中の部屋は暖色のみかん色で、かつほの暗いムーディー仕掛けだ。
たまらない緊張を保ったまま、ぎこちなく行動し、二人はもちろん別々に
入浴や着替えをこなしていった。最後は、僕が転げ落ちるほど距離をあけてベッドに寝た。
いざという時にまじめになってしまう(育ちのよい???)僕は
結局朝まで、何のアクションを起こせなかったが、
果たしてこれでよかったのだろうか?
小野さんは耳を真っ赤にして寝ていて、その熱がこちらへじんじん伝わってきたからだ。_
翌朝、目がさめると見知らぬ天井でカーテンの外は薄明るい。
小野さんは既に起きて髪を解いている。
「おはよ~」
水筒のお茶をグラスに注いでくれた。
窓から上野の森が見える。
「まだ早いけど、朝の散歩に出ようか」
雨のやんだ静かな朝。路地を抜けて言問通りを進む手に引き出物。
「また上野に行こう」
線路が見えた角を曲がると、昨夜の道に戻った。
まだ陽は射さないが、雲間から青空が覗く。
健脚の小野さんだが、何となく淋しそうに見えた。
僕は歩きながら、彼女の手を握ってみた。
カラスのよく鳴く中、二人は無言のまま
しっかり手をつないでいた。
ところがしばらくして、余りの熱さにとうとう手を離し、
お互いに顔を合わせて笑った。
「あっつ~~」
上野駅よりも手前で、長い坂を上がる。
すき通るような彼女の頬と微風にそよぐ黒髪は
この世のものとは思えなかった。
「おおーーー」
坂を上り切ると、樹々のこんもりふくらむ上野の森。
キジバトも歌っていて、今日は晴れそう。
葉桜の道を散歩しながら、僕は二人分の紙袋を持ち
小野さんは三毛猫を撮影したりしていた。
途中で右側の石階段を下りてみると、眼前に緑の海。
不忍池に広がる蓮の葉だった。
「すごーい」
葉っぱを動かすと、雨のしずくがぽぽろんと揺れる。
蓮を背にアジサイの花も咲く、とっておきのスポットを発見した。
「すごくすてきー」「小野さん、ここをバックに撮ってあげる」
二人は柵をまたいで入り、僕は
胸の鼓動を抑えながら丁寧に小野さんを撮った。
その姿に天使を見て、僕は妄想を抱いた。
実現は困難だが、惜しい!
「ああ~~~」
「どうしたの?」
「絶対無理だけど、思いついちゃった」
ぴかあとお日さまが差してきた。
「あの、冗談だけどさ、小野さんのヌードをここを撮ったら
世界一美しいと思ったの」
彼女は目を見ひらくと、いたずらそうな笑みを浮かべて
「いいよ!」
マサカッと思いながらも僕は周りを見渡した。今しかない!
「はいっ」小野さんの声に
胸に太鼓を打ち鳴らして振り返ると、
上半身をはだけた彼女が手ブラしている。
「あ、じゃ、撮るから!せーの」「っ☆」
すばやく元に戻り、はしゃぎながら二人は駆け出した。
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