『ろまんの汗』
弱肉強食。
いくたびの戦慄を生きのこった中国大陸の人々は、
ときに野蛮なほどに、即物的な現世利益の獲得にかけているが…
二十一世紀を過ぎていまここに、新しい人種も登場している。
桃慧(トーフィー)というその乙女は十九才、吉林の人。
同じ国ではあるが、長春市で生まれそだった桃慧にとって、
上海は異国といってもよかった。
高層ビル群を見上げながら、うっすらと汗をにじませる。
(ハルビンのロシア建築のほうが優雅だと思う…)
上海は南国である。シャツをまくって腹を出して歩く男、
涼しげな、恥ずかしくなるほど軽装の娘っちが
何がしかのスイーツをなめている。
万里の長城を越えて、鉄道を乗り継いで三千里。
ヤマモモのマフィンにのどを鳴らした。
「あつぅ~」母のおさがり、青い馬乗り服は脱いでしまった。
上海駅の近く、蘇州河を南西方向へさかのぼると、
コンクリー打ちっぱなしの、蒸しあつい箱がある。
この春から桃慧の通う、上海美術大学だ。
生徒は垢抜けていて、化粧は今どき。
お嬢さま育ちなのか、脚も細くてすらっとしている。
桃慧は北の農家で育ち、体も小柄であるが
内ももがきゅんと締まって健脚だった。
「おまた!っっ」
海に面したベンチに、友達がようやっと40分遅れで着いた。
桃慧はシベリヤの風に吹かれて育ったため、
超マイペースな上海のリズムにきょとんとしつくしていたが、
ひと月経ったころには、いつでもカバンに本を備えて対応した。
美術大学の生徒は妙に理屈っぽく、メッセージのはっきりした作品をつくる。
桃慧は逆で、手のむくままに無心で製作をした。
「きみ、これは何を表現しているのかねぇ」
教授がたずねられると、桃慧は照れ笑い。
「う~ん。。万感たる思いが入っているのでしょうが…言葉にはできません」
周囲がくすくすと笑っている。
しかしもっともショックだったのは、上海の川であった。
「お父さん、これはどこの絵?」
満州の冬、花巻(ねじったマントウ)を揚げたものを
つまんでもぐもぐしながら、
七才のひとり娘、桃慧は指をさした。
美しい河が流れている。それは父が若いころに描いた上海の街。
両親はここ北の大地で、小麦と大豆を作っている。
母はロシアの血が混ざっていて、桃慧の目も奥二重に
青いひとみを灯していた。
農閑期はつららに窓を塞がれる極寒で、
娘は石灰岩の暖炉に腰かけて、お尻をあたためていた。
父はしずしずと、麻布のキャンバスに絵の具をのせる。
桃慧もいつの間にか絵を描くようになって、
高校を卒業すると、父の愛した上海へ向かったのであった。
学校にもちょっと慣れたきた初夏、
自転車通学の桃慧は蘇州川沿いを漕ぐ。
青い空に、臭う河。
(ビルを高くする前にさ、河をきれいにするのが本当の文明じゃないか)
上海の河を美しく描きたいが、まずはこの現実を何とかしたい。
「わいわい、がやがや」
にぎやかな学食でひとり、桃慧はフヨウハイをつついていた。
「河をきれいにするには…」
思案しつづけて、ご飯はさめてしまったが
ふと彼女は目を見ひらいた。
「似合わないことは、成り立たない!」
帰りみち、プールのあるホテルを訪ねた。
ポリエステルの水着が、花のように彩られている。
「これじゃあないな~」
海沿いをそのまま南へ漕いでいたら、知らない地域に入った。
旧城も近い、古い街なみが広がる。
(あれれれー?)
方角も見えない、網の目のような路地に迷いこんでいた。
「水着、水着、水着…」
呪文のように唱えながら、足にまかせてくねくねと入っていく。
おいしそうな風が流れてきた。たどっていくと、小さな店が連なっている。
「お姉さ~ん、どうですかあ?」
多様な服装の易者や道士が並んで、カナリアの美声も響いている。
ここは、占い師の集まる通りだ。
(聞くだけ聞いてみよう!)
桃慧は引き返して自転車を停めると、
占者たちを観察しながらゆっくり歩いた。
そのうちの一人に目に留まる。
平凡そうなおじさんだが、妙に安定感がある。
(この人は、魔人に違いない…)桃慧は直観した。
さっそく前の椅子に座ると、目的を告げた。
「…そのための、ふさわしい水着を探しているのです」
鳥たちも息を飲むなか、魔人が口をひらいた。
「手芸屋があるから、自分で作ったほうがいいよ」
「なるほど~!」
古びた手芸屋の入り口には、組みひもにたくさんの鈴が結ばれていた。
「ちりりりーん♪」奥からゆっくりと、白髪のおばあさんが出てきた。
「何か欲しいの?あなた」
桃慧が訳を話すと、老婆は奥に消えていった。
店内には丁寧に刺し子された布が飾られ、机の上には編みかけのレースが置かれている。
「あー、面倒くさい、面倒くさい」
何かを持って、おばあさんが戻ってきた。
こころ洗われるような、薄水色のシルクの反物が置かれた。
「わあ、これを水着にしたらすごい!…だけど高そう」
「これ…うんっ、あなたにあげるわ!」
「えええっ!!!」
「河を、よろしくね!」
翌日、風呂敷で巻いたシルクを持って学校へ行き、
服飾科に相談して旧館にある足踏みミシンを借りた。
「う~ん、このすてきな布を切るのはもったいない…」
端の処理だけして、四角い布のまま水着にできないものか。
帰宅後も、夜ふけまで水着の結び方を試行錯誤。
体をうごかして汗びっしょり、服を脱ぎすて裸になっていた。
なかなか決まらない。
(水に入ったら、はずれちゃいそう…)
部屋には、ふるさとの胡弓の民謡がながれている。
ふと壁を見やると、若いころの母が馬に乗っている写真。
桃慧が受け継いだ、スリットの大きい馬乗り服を着ていて
腰には帯を巻いている。長時間馬に揺られても、胃下垂にならないためである。
やっと霧が晴れた。
「帯…じゃなくて、そう、ひもを組み合わせよう!」
古アパートのランプが、いっぱしの水着すがたの桃慧を照らす。
「おしゃぁー☆」
自分へのご褒美に、エッグタルトをほおばった。
次の日曜日の朝、桃慧は近所のカナリアで目が覚めた。
「えっちらさっさー」準備体操をして家を出たら、
そこから野良猫が先導してくれた。
なぜか信号も次々と青にかわる。
桃慧は母の騎馬服を着ているが、ズボンを履いていないので
チャイナドレスの長袖版に見える。
(ついに来た!)
青い満州服を脱いで柵にかけると、
ぴょんと乗り越え、川の際に立った。
シルクの水着は薄水色で、白い肌はやや紅潮している。
(いくぞ!)
護岸の縁を蹴って、あかるい体がきらんと跳ねる。
そこから真下へ、とぽーーん落下。
「ブクブクブクッ…うへえ」
足裏がヘドロに触れると、また浮き上がってきた。
「汚いだろぉ~?おおーい」
橋の上から、通りがかりのおじさんが呼びかける。
水面ではたまらん臭いが漂うけれど、
桃慧は平泳ぎしながら微笑んでいた。
見物客が次第にふえて、声援をおくる者、あきれて眺める者、
観光客は写真を撮っている。
いよいよ、警察もやってきた。「そこで待ってなさい!」
小舟が近づいてくると、「人魚を捕らえないで!」
野次馬が盛り上がっている。
舟に引き上げられたとき、桃慧のシルクがちょっと下がって
片方の乳が覗いたが、手ばやく直し、岸にいる人たちに訴えた。
「私の泳ぐこの河が、汚ないわけはないでしょう☆」
一艘の小舟が、蘇州河を下っていく。
橋のらんかんにもたれながら、桃慧は半分乾いた髪を解いている。
「革命が、はじまるかな…」
この日彼女を見た人たちも、大多数は
ほどなく忘れてしまったが、ほんの数人だけ、
川に対する意識が変わった。
油を下水に流すのをやめて、川を目にするたび
美しくあれと願う。そして言いかえるのだ。
「あの娘の泳いだこの河が、汚ないわけがなぁーい!」
| Trackback ( 0 )
|