先住民族関連ニュース

先住民族関連のニュース

先住民ルカイ族の集落、米財団が文化遺産に認定 台湾2カ所目

2015-10-17 | 先住民族関連
中央フォーカス台湾 2015/10/16 18:58

屏東県文化処提供
(ニューヨーク 16日 中央社)歴史的建造物などの文化遺産の保護・保存活動を行っている米国の非営利団体「ワールド・モニュメント財団」(WMF)は15日、緊急に保存・修復などの措置が求められている文化遺産の2016年版のリストを発表した。台湾からは台湾原住民(先住民)ルカイ族の伝統的な石の家屋が残る旧好茶集落(屏東県)が選ばれた。
1996年から2年ごとに発表されている同リストには今回、東京・築地の木造建築群など36カ国・地域50カ所が選出された。2004年には離島・澎湖の古民家が台湾で初めてリスト入りしている。
海抜約1000メートルの高地にある旧好茶集落は「ウンピョウの子孫」を自称するルカイ族発祥の地とされ、ウンピョウの故郷とも呼ばれている。WMFによれば、同地に住むルカイ族は1970年代に新好茶集落に移住。だが、2009年の「八八水害」により新集落は土砂に埋まり、さらなる移転を強いられている。
こうした事情により石の家屋は長年にわたって修理されておらず、一部は台風などにより損傷を受けているが、それでも約160棟が現在もその姿をとどめている。政府は1991年に旧集落を国の古跡として登録したが、保存の難易度は高いとされている。
文化遺産認定の報を聞いた新新好茶集落の大頭目(集落の代表)柯光輝さんは「とてもうれしい」と涙を流した。柯さんは2度の転居を経た現在でも、毎年1度は旧集落を訪れており、いつの日か再び旧集落に戻りたいとの希望を持ち続けているという。
(郭シセン/編集:杉野浩司)
http://japan.cna.com.tw/news/asoc/201510160008.aspx

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ケルトへの旅(1)…ハロウィーンだれのため

2015-10-17 | 先住民族関連
読売新聞-2015年10月15日 10時45分
パブの十字架
ケルト十字架の模型に見入る鶴岡さん
 緑色に浮かび上がる石の十字架。中央に刻まれた磔刑たっけいのキリスト像を、太陽を象徴する円環が包み込む。四方へと延びる十字と円環には、聖書の物語をもとにした図像とともに、不思議な組み紐ひもや渦巻きの文様が刻まれている。
 東京・八王子のアイリッシュ・パブ「ゴールウェイ」は、店の奥に十字架が飾られている。この十字架に近いテーブルで、ケルト芸術文化の研究者、鶴岡真弓さんにお会いした。「中世アイルランドの修道院に建てられたケルト十字架の模型です。キリスト像とともに、表現されているケルトの文様。アイルランドで、キリスト教の時代になってからも、異教のケルト文化が残り、融合した証です。それは日本の神道の背景にあった自然崇拝と、仏教とが習合した歴史とも響きあっています」。鶴岡さんは十字架の前に立ち、そう教えてくれた。
 アイルランドに5世紀、キリスト教をもたらしたのは聖パトリック。土着のケルト文化を否定せず、キリストの教えを広めたとされる。アイルランドでは、妖精や自然崇拝に彩られた神話や民間伝承が伝わり、独自の文化と芸術が花開いてきた。ケルト十字架は、その寛容な文化の融合を表している芸術のひとつだ。
神秘の正体
 鶴岡さんに会う5か月ほど前、南青山のパブ「ヘルムズデール」のオーナー、村澤政樹氏らスコットランド通の3人に話を聞いた(「パイプとハギスとウイスキー」)。村澤氏は、こんなふうに話した。「スコットランドに行くと、妖精のように、人間界に存在しないかもしれない神秘的なものの存在を感じるんです。それはケルトの魂かもしれない」
 ケルト人は古代ヨーロッパのアルプス山脈以北に広く分布していた先住民族。前1世紀頃に現在のフランスのガリア地域が、ローマに征服され同化されたが、ケルト文化の末裔まつえいは現在、アイルランドをはじめ、イギリスのスコットランドやウェールズ、フランス北西部のブルターニュなどに生きている。
 村澤氏が、ケルトを深く知りたいのなら会うべきと教えてくれたのが鶴岡さん。早稲田大で美術史を学び、ケルトの伝統を受け継ぐアイルランドに留学。ケルト文化に育まれた独特の装飾美術や神話、文学を研究してきた。多摩美術大学教授であり、アートとデザインを、人文科学、自然科学と結び、人類史のスパンで考えるプロジェクトを推進する同大芸術人類学研究所の所長もつとめる。
 鶴岡さんに聞いてみたかった。ケルトの魂とは一体いかなるものなのか。そして、鶴岡さんはなぜケルトの研究へと導かれたのか――。
 ケルト文化圏の古代遺跡や中世の修道院を訪れると、風に舞う神秘的な存在を感じることがある。あるいはウイスキー造りに使われる泥炭(ピート)の香り、バグパイプの音色にふれるとき、自分の無意識の奥深くに眠るものが呼び起こされるような感覚にとらわれる。そうした貴重な経験を、言葉として取り出せないものか。そんなことを考えながら、鶴岡さんの話を拝聴した。
ギネスの黒は悲しみの色
 テーブルで向かい合い、鶴岡さんはアイリッシュコーヒー、記者はギネスビールを注文した。同じ色彩の飲み物が二つ運ばれてきた。どちらもグラスに入った黒い液体で、その頂に浮かぶ白い泡。一方はコーヒーのホイップクリーム、一方はビールの泡だ。
 「最初にギネスビールの色を見たとき、ダブリン市内を流れるリフィー川と響き合っていると感じました。20世紀の文学者、ジェイムズ・ジョイスもそのように川を眺めていたといいます。黒ビールもコーヒーもリフィー川も、みなアイルランドの深い歴史と哀感をたたえているように映るのです」と鶴岡さんは言った。
 アイルランドは12世紀のノルマン侵攻以来、イングランド王による支配がはじまり、オリバー・クロムウェルの遠征の憂き目にもさらされた。イギリスに併合される19世紀よりも遥か以前から、厳しい植民地支配に耐えてきた。イースター蜂起や独立戦争をへて1922年に自由国となるも、北アイルランドの帰属を巡って闘争が続いた。アイルランドの首都・ダブリンの中央郵便局には、蜂起で命を落とした英雄をたたえる像も残る。
 続いて運ばれてきた「フィッシュ&チップス」。「あっ、久しぶりで嬉うれしい」と笑顔を見せた鶴岡さんだったが、すぐに表情を曇らせた。「アイルランドは魚が豊富にとれ酪農も盛んな島国ですが、主要食糧のジャガイモの大飢饉が歴史に刻まれています。1840年代、ジャガイモの疫病から飢饉ききんとなり、約100万人が死に、100万人以上がアメリカなどに移民として渡ったといわれています」
 この飢饉では、食料支援を行わないなど、当時の英国政府の対応に問題があったとして、飢饉から150年後の1997年、イギリスのブレア首相(当時)がアイルランドの追悼集会で謝罪した。
 「大英帝国を築いたアングロ・サクソンの国が、繁栄と明るいグローバリズムの象徴だったとすれば、ケルト文化圏のアイルランドやスコットランド、ウェールズは、その影の部分を背負わされてきた歴史を記憶しています。ギネスを呑のみ、フィッシュ&チップスを食べるとき、帝国の影であり続けたケルト史と、大飢饉による移民史を思いだす人もいます。人間が起こしてしまう災害もあることを、忘れないためにも」
哀感と反逆
 同じブリテン諸島であっても、「大英帝国」だったイングランドよりも、憂いの歴史あるアイルランドやスコットランドのほうに、日本人はより共感してきたのかもしれない。鶴岡さんはそう考えているようだ。1900年からロンドンに留学し心を病んだ夏目漱石の胸中をこんなふうに察した。「帝国主義の雄となった大英帝国の都・ロンドンは世界の首都だった。現世的な力がすべて。弱き者ははじかれ、周縁に追いやられる。近代人の病や、陰影ある心理を描こうとした漱石には、耐えられなかったのではないか」
 その漱石は英国滞在中、スコットランド中部のピトロッホリーを静養で訪れている。鶴岡さんは、ケルト文化の風土には日本人の繊細な心に響く共通の何かがあるという。「人間が求める安らぎとは、明るい中心の場所にではなく、悲しみをもった人間を、やわらかく包み込んでくれる、野の場所にある。アイルランドの修道院の廃墟や、スコットランドのグレン(渓谷)、ジョン・フォード監督が映画に描いたウェールズの丘を吹きわたる風は、人を癒やし、憩わせてくれる」
 そして反逆の精神。ダブリンの街を記者が歩いて、印象に残ったのは、強気な物乞いのたたずまいだった。ロンドンの物乞いは終始うつむき、通行人に声をかけることはまずない。たまに金を入れる人がいれば、頭を下げて謝辞を述べるぐらいだが、ダブリンの中心街にいた物乞いは眼光鋭く、無言で通り過ぎようとする通行人に「金をくれ」と叫んでいた。記者もにらまれ、追いかけられそうになった。
 隣国の物乞いがなぜこれほど違うのかと不思議に思ったが、その後、「愛蘭土(アイルランド)紀行I 街道をゆく30」(司馬遼太郎著)によく似た話が紹介されていた。「ライフ」誌のベテラン写真家が、堂々とした態度の物乞いに圧倒され、言われるまま小銭をあげたが、そのうち小銭がなくなった。新たに会った物乞いに施しができなかったところ、その物乞いは「地獄で火あぶりの目に遭え、このプロテスタント野郎!」と毒づいたという。
 司馬氏が挿話をひいて指摘したのは、宗教観の違い。アイルランド国民の9割はカトリック。施しは当たり前だし、物乞いをしようと天国にいける。一方、宗教改革によって生まれたプロテスタント(新教)は自助の精神と勤勉を尊んだ。カトリックの信徒は神について教会にゆだねたが、プロテスタントは神に対して直に取引せざるを得なくなった。そうも対比されていた。
 悲しい歴史を背負った国で、貧しさにあえぐ人が叫ぶ。今振り返れば、ダブリンで会った物乞いは「弱いもの、貧しいものが声をあげるのは、当然の権利だろう」と体全体で訴えていたようにも思えてくる。陰と陽、影と光。アイルランドとイギリスを合わせ鏡のように重ねると、いくつもの断面が浮かび上がる。  
ハロウィーンの意味
 ヨーロッパの文明は長らく、古代ギリシャとユダヤ・キリスト教の世界観を2本の支柱とし、また、ギリシャ、ローマを源として完成したと考えられてきた。一方、ローマ帝国以前からヨーロッパ大陸にいたケルト語を話す人たちが残したみごとな装飾美術や自然崇拝の伝統、神話、習俗は時空を超え、様々な形で今に伝えられている。
 ハロウィーンの祭もその一つ。「起源は死者たちのよみがえりの節句、ケルトの万霊節でした。10月31日の夜中、病気や災害や戦争で亡くなった人々の霊が肉体をもってよみがえり、供養され、生きている人たちにパワーを吹き込む」と鶴岡さん。厳しい冬を前にした10月31日はケルトの大みそかでありお盆。古い時間が新しい時間に反転し、浄化され、明けて11月1日がお正月、1年がこの日からはじまるのである。
 後にキリスト教の聖人祭として教会の暦に取り込まれ、ヨーロッパからアメリカに渡った人たちが、もとはカブでつくられた提灯にカボチャを使うようになり、子供たちがお菓子をもらう儀礼は、派手な仮装行列となった。「現代人は、今生きている自分たちこそが主人公で、すべてのことを動かしていると思い込んでいますが、この自然や宇宙はもちろん、現世の生命力も、祖先や死んだ人たちの霊から、贈与されているものなのだという直感が、ケルトの人々にあったのです。精霊に感謝する。それは日本人の自然や祖霊崇拝にも通じています」
 そして鶴岡さんは、胸に手をあて遠くを見つめるような目で、こう言った。「人間は自然界や死者からエネルギーをもらい、日々、再生しながら生きている。この懐に、死んでいった人々への思いを抱いて、今を生かさせていただいている、と感謝しなければなりません」
 「図説 ケルトの歴史」(河出書房新社)のなかで、鶴岡さんは書いている。古代ギリシャとユダヤ・キリスト教の根底に流れるのは「世界は普遍の法則によって決定・支配されている」という強い信念だが、ケルトの世界観には、「万物は常に移ろい動き、変化を続ける」という感覚があふれている、と。
 人は、生まれて死ぬのでなく、死を抱えて生まれてくる。毎朝、死から生へ、新しい自分へと再生する。生と死は、常に反転しながら合流し、生者と死者は再生を願うことで、つながっている。そこに、合理的な思考と科学的な知識を身につけた現代人とは逆転した死生観がある。現代人が共有すべき、忘れかけていた思想がある。 
 (メディア局編集部 小坂剛)
http://www.yomiuri.co.jp/life/drink/sakaba/20151015-OYT8T50006.html

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

カナダ、先住民インディアンの事務所が不審者に襲撃

2015-10-17 | 先住民族関連
Sputnik 日本-2015年10月15日 15:24
カナダのブリティッシュコロンビア州、ブリッジ・リバー市で先住民族のインディアンの事務所を不審者が襲撃し、10人に怪我を負わせた。CTVテレビの報道では、襲撃した不審者は死亡している。
ネイティブアメリカンは「ジェノサイド」を受けたか、女子大生の授業締め出し問題が世論で注目
CTVの報道によれば、不審者は事務所に押し入り、ハンマーで職員を打ち始めた。警察が現場に駆けつける前に事務所の職員らは不審者を捕らえ、縛った。その後、犯人は意識をなくし、死亡した。負傷した10人のうち、2人は重症。
ブリッジ・リバーの先住民の指導者、スーザン・ジェイムス氏は「これは正真正銘の悲劇。種族全体がショックを受けている」と語っている。ブリッジ・リバー市はブリティッシュコロンビア州最大の都市バンクーバーの北東260キロに位置する。
http://jp.sputniknews.com/incidents/20151015/1035049.html

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

台湾大学で先住民「セデック族」の特別展 生活の様子詳細に

2015-10-17 | 先住民族関連
中央社フォーカス台湾-2015/10/15 12:08

民族衣装を身にまとうセデック族の若い女性たち=南投県政府提供
(台北 15日 中央社)台湾大学人類学博物館は16日から、台湾原住民「セデック族」の特別展示を行う。実際に使われていた文物を陳列し、集落での暮らしを紹介する。
セデック族は長年タイヤル族の支族として認識されていたが、2008年4月に独立が認められた。
今回の展示では「ガヤ」と呼ばれる各家庭で年長者が若者などに伝承する生活の規範に焦点を当てた。同館では「理解を深めてほしい」としている。11月30日まで。
(編集:齊藤啓介)
http://japan.cna.com.tw/news/asoc/201510150004.aspx

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

アウシュビィッツで想う~沖縄とベトナム

2015-10-17 | ウチナー・沖縄
ハフィントンポスト-2015年10月15日 11時55分
 アウシュビィッツ訪問を決心した。7月、ベルリンで国際学会に出ての帰途に初めてポーランドを訪れた。前日にポーランドの古都クラクフに入り、いよいよ見学の朝、アウシュビィッツ博物館前の入り口で中谷剛(なかたに・たけし)さんに迎えていただいた。中谷さんは博物館所属の唯一の日本語公式ガイドだ。10人くらいの日本人が彼を取り囲む。
 「はい、ここが収容所の入り口。収容所といっても、7割くらいの子どもや妊婦、老人らは働けないので、すぐガス室で殺されました。働けそうな3割だけが強制労働をさせられ・・・」。本やテレビで知ってはいたが、いざ実際に足を踏み入れると鳥肌が立つ。
 「ナチスはユダヤ人が劣った民族だとして、地上で苦しみながら生活するよりは殺して解放したほうがよい、などと勝手な話をこしらえて殺したのです。その数150万人・・・」
 それは、太平洋戦争で、日本が西欧列強の植民地から、アジアの民族を解放してあげようという大東亜共栄圏の話と何だか似ていないか。大きな戦闘がなかったベトナムでさえ、日本軍の食糧や物資の調達先になったおかげで、諸説あるなか、数万人規模から最大では200万人が餓死したと言われている。

アウシュビッツを案内する中谷さん(右)=田口雅弘さん撮影
 「なぜこんなことができたか。ワイマール憲法のもとで民主的な選挙で3割の票を得ただけのナチスが、日和見的な他の党を取り込んで過半数を得て、どんどん法律を作ったからです。ここで行われた蛮行はすべて法律にのっとったものでした」
 うーん、これもどっかの国の話と似ていないか。
 このごろの日本は、今までになかった新しいタイプの法律がどんどん作られようとしている。「関係法令に則(のっと)って粛々と進める」のは、筆者の住む沖縄でつくられようとしている辺野古の新米軍基地とおんなじだ。
 「一民族を完全に撲滅するのが目的でしたから、子どもも妊婦もどんどん殺されました。上官の命令に従っただけだと、現場のドイツ兵に罪悪感はありませんでした」
 説明を聞きながら、またベトナムのことが思い浮かんだ。日本が輸出する原発の立地場所に住む先住民族、チャムの人が言っていた。「(ベトナムで多数を占める)キン人の共産党幹部がねえ、こんなひどい暴言を吐いたんですよ。原発が事故をおこしても、チャム人は人口が多いから少々減ってもいいでしょ、なんてね」
「自分たちと違う存在」だから
 太平洋戦争末期に捨て石にされたという沖縄も、どうだろう。うちなーぐちの使用を禁止する。日本軍がガマに逃げ込んだ一般市民に集団自決を強要する。スパイの疑いをかけて住民を殺す、等々。
 「自分たちと違う存在」だったからこそ、沖縄を「捨てる」ことができたのか。そして、本土の政治家は、普天間の移設先は沖縄以外にはないと断言する。違う人々の住む場所だからなのか。
 自分たちと違う人々を「民族」単位に押し込めて、数だけで認識する。そこにはひとりひとりの人生や命への視点はまったく欠如している。だから機械的に殺せるし、危険なものも押し付ける。個人対個人で付き合ってみれば、無二の親友や生涯の伴侶だって見つかるかもしれない、同じ人間なのに・・・
 アウシュビィッツと、そこから3キロ離れたビルケナウの2カ所の収容所を、たっぷり3時間半ほどかけて案内してもらった。5キロくらい歩いたような気がする。
 最後に中谷さんはこう言った。
 「おかげでよくわかりました、ありがとう、これからもがんばってください、とだけ言って帰っていく人が多いです。皆さんはここで学んだことをどうぞ行動につなげてください」
 なるほどその通りだ。沖縄に帰ったら、またせっせと辺野古へ通うことにしよう。それから、ベトナムへの原発輸出についても情報発信を続けようと思う。アウシュビィッツの悲劇にまでは至らなくても、そこに通じる「プチ・アウシュビィッツ」が、どうやら世の中には多いようだから。
AJWフォーラム英語版論文
(2015年10月13日「AJWフォーラム」より転載)
http://www.huffingtonpost.jp/michiko-yoshii/okinawa-vietnam_b_8298308.html

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「夷酋列像」展、安倍首相夫人が鑑賞 北海道博物館

2015-10-17 | アイヌ民族関連
北海道新聞 10/15 06:05
 札幌市厚別区の北海道博物館で開催中の「夷酋列像(いしゅうれつぞう)」展(北海道博物館、北海道歴史文化財団、北海道新聞社でつくる実行委員会などが主催)を14日、首相夫人の安倍昭恵さん(53)が訪れ、江戸時代後期に描かれた精密な絵画を鑑賞した。
 夷酋列像は、松前藩家老で画人蠣崎波響(かきざきはきょう)(1764~1826年)が、アイヌ民族の首長ら12人を描いた作品。長く行方不明だったが、1984年にフランスのブザンソン美術考古学博物館で11点が見つかった。
 夷酋列像展では、全国各地にある模写本や蝦夷錦(えぞにしき)などの交易品なども含め、計約130点を展示している。11月8日まで。観覧料は一般千円、高校・大学生500円、中学生300円。(続きは登録)
http://dd.hokkaido-np.co.jp/entertainment/culture/culture/1-0190640.html

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

安田巌城の功績後世へ 孫の弘さん24日帯広で講演

2015-10-17 | アイヌ民族関連
十勝毎日新聞 2015年10月14日 13時58分

 【帯広】十勝最初の歴史書で管内各市町村史の基にもなっている「十勝史」を記し、歌人としても活躍した安田巌城(やすだ・がんじょう、1863~1928年)について、巌城の孫の安田弘さん(81)=帯広市在住=が24日、とかちプラザで開かれるセミナーの中で講演する。巌城は同じ年代に活躍した依田勉三らと比較して謎の部分が多く、弘さんは自宅に残る資料を当たるなど研究を続けてきた。弘さんは「巌城について対外的に語るのは最初で最後になると思う」と話し、巌城の功績に光が当たることを望んでいる。
 巌城は福岡県生まれ。兄は新聞「日本」を創刊し、「九州日報」(現西日本新聞の前身の一つ)で社長兼主筆、衆院議員も務めた福本日南。
 巌城は福岡藩の役人として北海道に赴任した父や、北海道開拓を志した日南の意志を継ぎ、篠路村(現札幌市)に移住。道庁の視学官として十勝地方の視察などを行った。台湾勤務などを経て、1904年に河西支庁第二課拓殖係として帯広に赴任。アイヌへの教育の必要性を訴え、第二伏古尋常小学校の設立に奔走するなどした。自身もアイヌ語や文化を研究。当時の河西支庁長から委嘱され、数年かけて執筆した「十勝史」はその後、各市町村史として利用された。
 「巌城は自分の功績をひけらかすことや、お金の話を極端に嫌った」(弘さん)といい、十勝史には著者の名前が登場しない。こうした巌城の考えを尊重する意味もあり、家族も自宅に残る巌城の資料を、郷土史研究の第一人者だった木呂子敏彦さん(2005年死去)ら一部を除いて公開していなかった。
 このため、弘さんは巌城の功績が埋もれることなく後世に残していけるようにと自身で研究を続けた。弘さんの最近の調査では、長年不明となっていた十勝史の序詞を書いた人物が、明治天皇の側近で、帯広-釧路間の鉄道開通を受け、視察のため帯広に滞在していた藤波言忠であったことが分かるなど、新たな発見もある。
 24日のセミナーは大津・十勝川学会の研究セミナーとして開かれ、講演で弘さんは研究の成果や巌城の足跡について語る。午後2時から。参加費は一般500円、会員は無料。問い合わせは同学会事務局(015・579・5801、豊頃町教育委員会内)へ。

<安田巌城>
 1863年福岡県生まれ。本名は安田直(なおし)。父の実家である安田家の養子となる。早稲田学校(現早稲田大学)で学び、同校で指導者となった後、北海道へ移住。帯広赴任後は「十勝史」や「十勝地名解」を執筆。依田勉三や晩成社、二宮尊親らとの交友もあり、開拓期の先駆者12人による七言絶句の寄せ書きにも名を連ねている。
http://www.tokachi.co.jp/news/201510/20151014-0022029.php

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

白老・地引き網漁200人が体験「ヨイショ」

2015-10-17 | アイヌ民族関連
室蘭民報 【2015年10月14日(水)朝刊】
 一般社団法人白老モシリ主催の地引き網漁体験が10日、白老港第3商港区で行われ、子どもや大人約200人が「ヨイショ、ヨイショ」と声を合わせながら網を引いた。
 自然のあらゆる神に感謝の気持ちを伝えるアイヌの儀式「カムイノミ」の後、2手に分かれて網を引いた。網に入っていたのはサケやヒラメ、マツカワ、スケソウ、イシガレイなど。子どもたちは「入っている、入っている」「すごい」と歓声を上げながらさわったり手に持つなどして感触を確かめていた。
 子どもたちは大人の指導を受けながらサケの解体を体験したり、輪投げや弓矢を放つ遊びに興じていた。昼食はイクラご飯、チマチェプ(サケのくし焼き)、オハウ(サケ汁)。参加者たちはアイヌの伝統食に舌鼓を打っていた。
(富士雄志)
http://www.muromin.mnw.jp/murominn-web/back/2015/10/14/20151014m_08.html

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

発掘現場や出土品見学、講演 厚真シンポジウム厚真シンポジウム

2015-10-17 | アイヌ民族関連
苫小牧民報  (2015年 10/13)

出土した常滑焼中世陶器などを展示
 厚真シンポジウム「遺跡が語るアイヌ文化の成立―11~14世紀の北海道と本州島―」が9~11日の3日間、厚真町内で開かれた。厚真シンポジウム実行委員会科学研究費・研究基盤(B)「平泉研究の資料学的再構築」が主催し、厚真町教育委員会が共催、北海道博物館、日胆地区博物館等連絡協議会、厚真町観光協会などが後援。参加者は遺跡発掘現場や出土品の見学、町内の遺跡をテーマにした発表などを通じて、厚真の遺物について理解を深めた。
 町内の宇隆地区で1959年に出土した陶器(つぼ)がその後の調査で、主に岩手県の平泉地域で見つかることが多い、12世紀の常滑焼中世陶器と判明。道内での発見は初めてで奥州藤原氏と北方交易、仏教が北海道に伝わった時期を解明する貴重な資料と見られている。このため、2014年秋に宇隆1遺跡発掘調査団が発見場所付近を改めて調査。シンポジウムの開催はこれがきっかけとなった。
 初日は町内の桜丘チャシ跡、ショロマ1遺跡、宇隆1遺跡を巡る遺跡見学会。2日目は町総合福祉センターを会場に、午前に町内の遺跡からの出土品の展示と見学、午後からシンポジウムを開催した。シンポジウムでは実行委員会の代表で東北大学大学院の柳原敏昭教授による問題提起の後、昨秋の調査団長となった平泉町役場の八重樫忠郎氏が「宇隆1遺跡の意味」と題して発表。厚真に経塚が設けられていた可能性が高く、12世紀中葉には平泉と深い関係があった、厚真は流通ターミナルの可能性が高いことなどから中世初期のダイナミックな交易が見え始めているとした。
 この後、町教育委員会の乾哲也学芸員による「厚真川上流域の遺跡空間」や「ヲチャラセナイチャシ跡の評価」「擦文~アイヌ文化期の物流」「東日本の集落・館・漆器・鉄器」をテーマとした発表などがあった。3日目は同センターの奈良智法学芸員の「アイヌ墓の成立」や「列島の墓制」を主題とした発表の後、討論が行われていた。
http://www.tomamin.co.jp/20151031082

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ラッピングトラック初制作 走って観光PR 登別・白老の実行委

2015-10-17 | アイヌ民族関連
北海道新聞 10/13 16:00
 【登別、白老】登別市、白老町の観光資源をデザインしたトラック2台がこのほど完成し、11日に登別市内で関係者にお披露目された。2台は「走る広告塔」として道内各地を巡り、両地域の魅力をPRする。
 両市町や地元のトラック業者などでつくる官民組織「トラックラッピング実行委員会」(沼崎孝則代表)が、登別市・白老町観光連絡協議会の資金協力を得て、本年度初めて制作した。
 2台は、沼崎代表が社長を務める光輪ロジスティクス(登別)の8トン車と、松崎商事(白老、松崎徳己社長)の10トン車。荷室の側面に、アイヌ民族博物館があるポロト湖畔のイラストや、登別温泉のシンボル・湯鬼神(ゆきじん)の写真などを色鮮やかに描いた。道央圏を中心とした輸送業務で使用する。
 11日のお披露目には、実行委メンバーら約50人が出席。沼崎代表は「トラックを見た多くの人に、登別と白老へ足を運んでもらえれば」、絵柄を考案した登別市のアートディレクター井元耕さんは「一度見たら忘れないインパクトを大切にした」と話した。2台のミニカー計50台も来場者に配った。
 実行委は道内の観光イベントで2台を展示することを検討中だ。(石川泰士)
http://dd.hokkaido-np.co.jp/news/area/doo/1-0189839.html

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

巨大熊は「妖怪」だった? 江戸時代に描かれた「鬼熊伝説」

2015-10-17 | アイヌ民族関連
リアルライブ-2015年10月13日 15時30分

 9月26日、北海道紋別市にてヒグマが捕獲の後処分され、そのあまりの大きさに話題となった。
 紋別市では8月頃から主に飼料として用いられるデントコーンの食害に悩んでおり、地元の猟友会所属のハンターが仕留めた。その体重は実に400キロ。ニュースでも流れたが、クレーンで吊り下げられた巨大ヒグマの姿を見て驚いた人もいるのではないだろうか。ちなみに地元で長年ハンティングを行っている熟練の猟師でも「見たことがない」ほどの巨体だという。
 まるで未確認生物か何かのような規格外の大きさを誇る巨大ヒグマだが、実は日本には古来から巨大クマの伝説が各地に残っており、中には立派な妖怪とみなされ恐れられているものもあるのだ。
 江戸時代の書物「絵本百物語」には見た目は普通の熊(挿し絵ではツキノワグマに似た姿で描かれている)だが、馬を軽々と担ぐ怪力と巨体を誇る「鬼熊」という妖怪が紹介されている。それによると、木曽(長野県)では歳経た大型の熊は後に人のように後足で立って歩く「鬼熊」になると考えられていた。
 「鬼熊」は夜更けになると里に下りてきて、牛馬を引きずり出して食らうとされ、小さな獲物ならば手のひらで押しただけで死んでしまうという。力の強さは人の何倍もあり、差し渡しが六、七尺(約1.8~2メートル)はある岩を投げ落とす様が目撃されたこともあったという。このときの岩を十人がかりで動かそうとしてみたが、少しも揺るがなかったとあるので鬼熊の力は相当なものがあったのだろう。
 ちなみに鬼熊の捕獲方法も伝わっており、鬼熊の巣穴に大木を井桁に組み藤蔓で穴をふさぎ、隙間から様々な木を入れ、鬼熊を次々に巣穴の奥に押し込んでいく。最終的には押し込まれた木で後ろが詰まって行き場がなくなり、巣穴の入り口に出てくるので、そこを槍で突き鉄砲で仕留めるとされていた。
 江戸時代、享保年間に捕獲された鬼熊の毛皮は六畳分もあったそうで、まるでUMAのような妖怪だといえる。
 北海道でも、人を襲うヒグマは鬼熊と別の名前で呼んで恐れていたり、またアイヌの人々は人よりはるかに大きく力の強いクマを「キムンカムイ(山の神)」、人に害をなすクマを「ヌプリケスンプリウェンクル(山裾の悪者)」と呼んで恐れていたという。
 今回紋別で捕獲された巨大ヒグマのように、規格外に大きかったり、非常に凶暴なクマをみた昔の人々の想像力が妖怪「鬼熊」を想像したのかもしれない。
文:和田大輔 取材:山口敏太郎事務所
http://npn.co.jp/article/detail/86476270/


  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ひと)野口栄一郎さん ロシア・タイガの森を先住民と守る

2015-10-17 | 先住民族関連
朝日新聞 2015年10月14日05時00分

 ロシアを広く覆う森林「タイガ」。そのうち、沿海地方の約1万2千平方キロの原生林を守る活動に、20年間取り組んできた。
 京都市出身。早稲田大を卒業後、国際環境NGOに入る。1995年に初めて現地を訪れ、アムール川支流にあたるビキン川の美しさに心を奪われた。先住民族ウデヘに出会い、狩猟採集の生活様式…
http://www.asahi.com/articles/DA3S12013794.html

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

下院公聴会で苦境訴え 南マット・グロッソの先住民

2015-10-17 | 先住民族関連
サンパウロ新聞-2015年10月13日

公聴会の様子(Foto: Agência Brasil)
土地紛争で暴行や殺害も
 マト・グロッソ・ド・スル州(南マ州)の先住民と地主の間の対立について議論する連邦下院議会の人権委員会が7日に開かれ、グアラニ・カイオワ族のバルデリセ・ベロン酋長が先住民の直面する苦境を訴えた。8日付アジェンシア・ブラジルが報じている。
 同酋長は、「我々の土地は、先住民のための土地ではない。我々は自分達の土地から追い出されたのだ。これらの属地は、既に終了した先住民保護サービスによって創設されたもので、先住民への保護サービスにはならなかった。我々にとってこれらのエリアは、抑圧された、自治もない限定された場所となっている。現在我々は、南マ州の大土地所有者達による暴力や脅迫、迫害、殺人の恐怖を抱きながら生活している。我々は、この悲しみと助けを求める叫び声を伝えに来た。もう辛抱できない」と訴えた。
 先住民達は、大農園主や警察、地元の政治家達から絶えず攻撃を受ける犠牲者となっていると主張する。攻撃者からは銃器やゴム弾で攻撃されたり殴打されたりしているという。特に境界線が、土地紛争の大きな問題の一つとなっている。
 国立先住民基金(Funai)のジョアン・ペドロ・ゴンサルベス・ダ・コスタ会長は、この紛争解決のために、双方が合意する必要があるという。そのため、かつて南マ州で研究と調査を行っていた6つの調査グループを再び派遣する事にしたという。
 連邦検察庁のコーディネーター、デボラ・ドゥプラッチ氏は、南マ州の農生産部門及び政府代表がこの討論会に招待されていたにもかかわらず出席しなかった事に関して、「議論を拒否した事は、民主的な討論を拒否したという事になり、これらの民族が伯国社会で重要視されるようになった事を拒否した事になる」と強調している。 
 先住民宣教師協議会(Cimi)のジルベルト・ビエイラ・ドス・サントス代表は、南マ州で過去12年間に、390人以上の先住民のリーダー達が殺害され、700人以上の先住民達が自殺したと述べている。同州内の先住民の乳幼児死亡率は、全国平均より100倍も高いという。
2015年10月10日付
http://saopauloshimbun.com/archives/46717

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

先住民アミ族のミス台湾、世界大会で「ディスコクイーン」に選ばれる

2015-10-17 | 先住民族関連
中央社フォーカス台湾-2015/10/13 11:37

陳海琳さん(左5)=トロント台北経済文化弁事処文化センター提供
(トロント 13日 中央社)今年7月にミス台湾に選ばれた台湾原住民(先住民)アミ族の陳海琳さん(21)が、今月7~8日にカナダ・トロントで開催された世界大会「第42回ミスグローブ」に台湾代表として出場し、「ミス・ディスコクイーン」の称号を手にした。
歌とダンスが得意な陳さんは、ステージ上で先住民の楽曲と流行音楽に民族ダンスをあわせたパフォーマンスを即興披露。観客から大きな喝采を浴びた。
陳さんは、同大会を通じて美しい先住民文化を紹介し、世界に台湾の特色ある風土を伝えられればと語った。
グランプリのミスグローブにはフィリピン代表が選ばれた。
(張若霆/編集:名切千絵)
http://japan.cna.com.tw/news/asoc/201510130001.aspx

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「慰霊・研究施設」建設反対集会― アイヌ民族と戦争(東京・原宿)

2015-10-17 | アイヌ民族関連
レイバーネット日本-2015/10/17 10・17
10・17「慰霊・研究施設」建設反対集会 ― アイヌ民族と戦争 ―
日時 10月17日(土)18時開場
会場 千駄ヶ谷区民会館 渋谷区神宮前1-1-10
    JR山手線原宿駅(竹下口)・徒歩約6分 東京メトロ明治神宮前駅(2番出口)・徒歩8分
講演 川村シンリツ・エオリパック・アイヌさん(プロフィール参照)
    「ちちんぷいぷい」DVD(2007年・毎日放送製作)上映
主 催・「北方領土の日」反対!「アイヌ新法」実現!全国実行委員会
    (略称・ピリカ全国実)・ 関東グループ
共 賛・東大のアイヌ民族遺骨を返還させる会
資料代・1000 円
【 川村シンリツ・エオリパック・アイヌさんプロフィール 】
 1951年旭川市近文コタンに生まれる。「シンリツ エオリパック アイヌ」は、おばのユーカラ伝承者の故砂沢クラさんが命名。「先祖を大事にする人」という意味。26歳で川村カ子トアイヌ記念館館長になる。1985年、旭川では28年ぶりのイオマンテ(熊送り)を行う。旭川アイヌ語教室やチカップニアイヌ民族文化保存会などの活動の中心的存在。現在、旭川アイヌ協議会会長。『アイヌ民族の団結と権利奪還にむけた共同宣言』(2013年9月)のよびかけ共同代表。
安倍内閣は、昨年6月「アイヌ民族の復興等を促進するための『民族共生の象徴となる空間』」について閣議決定し、現在内閣主催の「アイヌ政策推進会議」で最終的な審議が進められています。
 「象徴空間」には国立のアイヌ文化博物館や民族共生公園、「慰霊・研究施設」が2020年(「慰霊・研究施設」は2018年)に開設されようとしています。「象徴空間」は、アイヌ民族が長年要求してきた先住民族としての諸権利を無視し、ただ文化保存に切り縮めたものであり、特に「慰霊・研究施設」には「明治」から戦後まで旧帝国大学などが略奪してきた2000体近いアイヌ民族の遺骨や副葬品がなんの謝罪も賠償もないまま一括集約され、遺骨は「研究材料」とされます。先住民族の先住権・自決権・遺骨に関する権利などを明記した2007年「先住民族の権利に関する国連宣言」に反する「慰霊・研究施設」は、川村さんをはじめ多くのアイヌ民族が反対し、コタン(郷土)への返還を要求しています。
 ピリカ全国実・関東グループでは特に東大(遺骨198体保管)に対する取り組みを、「東大のアイヌ民族遺骨を返還させる会」と共に進めています。川村さんの講演や討論を通じて「慰霊・研究施設」反対の議論を深めていきたいと思います。
 安倍政権は戦争法案を強行採決し、いよいよ「戦争国家」へと労働者・人民を動員しようとしています。天皇を頂点とした「単一民族国家」論に基づく民族排外主義・ナショナリズムから私たちは自由ではありません。日本国家・「国民」への同化・統合を拒否し闘うアイヌ民族と真に連帯し私たち自身の主権を獲得していく方途を探りたいと思います。多くの皆さんの参加・賛同を訴えます。
連絡先・ピリカ全国実・関東グループ
〒 150-0013 渋谷区恵比寿4-19-5 ホワイトハイツ鈴木103 TEL&FAX 03-3446-9058
http://www.labornetjp.org/EventItem/1444456927219staff01

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする