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ミラノで北海道PR 万博「北海道の日」始まる

2015-10-08 | アイヌ民族関連
北海道新聞 10/07 07:00

ミラノ万博日本館での「北海道の日」開幕を祝い鏡開きをする高橋知事(中央)=6日、ミラノ市内(舟崎雅人撮影)
 【ミラノ舟崎雅人】食をテーマにイタリア北部ミラノで開かれている「ミラノ国際博覧会(万博)」の日本館で6日、北海道の食や観光を欧州に売り込む「北海道の日」(道、道経連など実行委主催)が始まった。8日までの期間中、道産ホタテ、イクラを使ったすしや、上川管内幌加内町産そば粉を使ったそば打ちなどを料理家らが実演、来場者に食べてもらい、北海道の魅力を感じてもらう。
 オープニングステージでは、札幌市出身のゴスペルシンガーNatsukiさんが、道内の四季の移ろいを紹介した映像を背景に、1972年札幌五輪のテーマソングだった「虹と雪のバラード」を歌った。高橋はるみ知事が「総力を挙げて北海道の食、自然、文化をみなさんに届けていきたい」と開幕を宣言した。
 期間中、アイヌ民族の伝統楽器トンコリの生演奏やYOSAKOIソーランが会場を盛り上げる。また、札幌市を中心に活躍する貫田桂一シェフが和牛ステーキを作り、札幌市出身でロンドンで和食を広めている横山明美さんが、欧州の人々にお米をもっと食べてもらおうと米の研ぎ方を教える。
http://dd.hokkaido-np.co.jp/news/life-topic/life-topic/1-0187858.html


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女性が家長となる先住民の社会から、男女平等への希望の光が見えてくる(画像)

2015-10-08 | 先住民族関連
The Huffington Post 投稿日: 2015年10月07日 14時55分 JST 更新: 2015年10月07日 14時55分 JST
執筆者: Maddie Crum

一人の少女が手を腰に当て、自信たっぷりにポーズを取っている。きれいな花を一輪髪にさし、後ろに立っている。だが、彼女から何か威厳のようなものを感じる。年齢のわりに風格があり、物怖じしていない様子だ。彼女の住む地域では、少女でいることは威信につながるようだ。
この写真が撮影されたのはマレーシアのバジャオ。写真家ピエール・ドゥ・ヴァロムブリューズが撮影した4つの東南アジア社会のうちの1つだ。男女平等がすでに実現直前まで来ている、あるいは少なくとも西洋よりは進んでいる女家長制の社会を撮影することを目的としたプロジェクトである。
ヴァロムブリューズが撮影した世界の女家長制社会は、以下のような場所だ。
インド北東部のカーシー 女系中心社会で、そして妻の家に居住する文化。子供は主に母親から名前をとり家族の中では娘が相続する。
フィリピンのパラワン 昔から男性と女性が同等に扱われる、階層のないコミュニティだ。
中国南西部の摩梭 さまざまな女家長制度や妻問婚(妻方に婚舎をおき、夫がその家に通う婚姻形式)制度が存在する。
マレーシアのバジャオ 平等主義で、そして自由主義の集落だ。
ヴァロムブリューズはこうした先住民族社会を30年近く撮り続けている。彼の作品には、人類学的傾向がある。ヴァロムブリューズはかつてパリ・ディドゥロ大学にある人類学写真協会の総書記だったのだから当然だろう。そのため彼の美しい写真の数々は、男女平等の描写だけにとどまらない。それぞれの文化に根付いた伝統を時間をかけてじっくりと観察してきたのだ。
ヴァロムブリューズによると、彼はこうした撮影から、西洋社会や現在のグローバル化に影響を受けた社会の未来は明るいことを知ったという。最近発売された著書と個展のプレスリリースで、出版社のアーサッド出版は次のように書いている。「たしかに、こうした文化の中にはトレンドが逆転しているものもある。つまり、女性が社会的、精神的基盤の中心的存在になっていながら、男女平等を保ち、推奨し、完全にお互いのことを尊敬し合っている。女性の立ち位置が論争にならないため、社会の模範になる」
ヴァロムブリューズの写真は、フランスにあるギャラリー Galerie Argenticで開催される個展「Souveraines (君主) 」で見ることができる。10月13日から11月21日まで。
http://www.huffingtonpost.jp/2015/10/07/pierre-de-vallombreuse-matriarchal_n_8255220.html

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自由を奪われて行ったアイヌ/吉村久夫

2015-10-08 | アイヌ民族関連
Kigyoka.com ベンチャー企業のためのメディア-2015年10月06日
企業家倶楽部2015年10月号  歴史は挑戦の記録 vol.10

蝦夷とアイヌの関係
 蝦夷とアイヌは同じでしょうか。同じ時もありました。しかし、後には別のものになりました。蝦夷とアイヌの関係は時代と共に変わって行ったのです。その変遷は同時にアイヌが自由を奪われて行く過程でもありました。
 中世の十三湊が栄えていた時代のことを考えてみましょう。アイヌは和人と混在して暮らしていました。そして蝦夷島、つまり北海道に住むアイヌは自分の収穫物を自由に船で運んできて、湊の市場で物々交換しました。
 東北は縄文文化が栄えました。各地からいろいろな人が移住してきました。アイヌの先祖たちも居ました。アイヌ語の地名がたくさん残っているのが、そのなによりの証拠です。蝦夷は勇猛な人のことでした。最初「えみし」と呼びました。蘇我蝦夷という大臣もいました。
 大化改新の後、大和朝廷は城柵を設けて、蝦夷の同化策に乗り出しました。城柵が奥地に進むにつれて、蝦夷は「えぞ」と呼ばれるようになりました。そして最後には蝦夷は北海道のことを意味するようになったのです。
 こうして北海道で狩猟を生業とし、独自の言葉と文化を守って生活する蝦夷は自他共にアイヌと呼ばれるようになって行ったのです。この間に、多くの蝦夷が稲作を習い、和人と混血するなどして大和の国民となって行きました。
蝦夷とアイヌの関係
交渉相手は松前藩
 北海道の蝦夷は歴史的に大きな役割を演じてきました。なにしろ北方世界とつながっていたからです。鎌倉時代の末期には、中国の元が樺太南部に侵入しました。その余波で、蝦夷内部に抗争が生じ、それがまた安東氏の惣領職争いを誘発しました。この津軽大乱が鎌倉幕府の屋台骨を揺るがすことになりました。
 その後しばらく経って1457年(長禄元年)、コシャマインの蜂起がありました。北海道南部を支配していた安東氏の12の館が襲撃され、うち10が陥落するという騒ぎでした。鎮圧した主役は安東氏ではなくて武田信広改め蠣崎季広でした。この蠣崎氏がやがて松前氏となり、徳川家康から黒印状を交付され、アイヌとの交易独占権を公認されたのです。
 以後、アイヌの交渉相手は、近世大名となった松前氏ということになりました。松前氏は治める知行地を持つ大名ではありません。収入はもっぱらアイヌ交易です。他に鷹や砂金の収入がありました。砂金といえば1620年(元和6年)頃には、万を越す人が北海道へ渡ってきていたといいます。松前藩は自前の鷹狩場、砂金採掘場を持っていました。
 いずれにせよ、松前藩の収入の中心はアイヌとの独占的交易です。直接の収入の他、商人たちからの税収もあります。そこでアイヌは松前藩の交易方針に振り回される事になりました。勝手は許されなくなったのです。そこから松前藩とアイヌとの軋礫の歴史が始まりました。
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吉村久夫( よしむら・ひさお)
1935 年生まれ。1958年、早大一文卒、日本経済新聞社入社。ニューヨーク特派員、日経ビジネス編集長などを経て1998年、日経BP社社長。現在日本経済新聞社参与。著書に「進化する日本的経営」「本田宗一郎、井深大に学ぶ現場力」「二十一世紀の落とし穴」など。
http://kigyoka.com/news/magazine/magazine_20151006.html

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