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武四郎「生涯語る」小説…月刊誌連載一冊に

2018-11-27 | アイヌ民族関連
読売新聞 2018年11月25日
「昔話聞くように楽しんで」
 「北海道」の名付け親として知られる松阪市出身の探検家・松浦武四郎(1818~88年)の生涯を描いた小説「がいなもん 松浦武四郎一代」(小学館)を、歴史小説家の河治和香さん(東京)が執筆した。今年は武四郎の生誕200年、北海道命名150年の記念の年。河治さんは「武四郎の人間味あふれる人柄を知ってほしい」と話している。
 「がいなもん」は武四郎の出身地、伊勢地方の方言で「すごい、とんでもない」という意味。武四郎は数え年の16歳で家を飛び出し、国内を放浪。後に6回にわたって蝦夷えぞ地を調査し、アイヌの人たちの協力を得て数々の地名を記録している。
 小説は、晩年の武四郎と交流のあった江戸時代の絵師・河鍋暁斎かわなべきょうさいの娘に、武四郎が思い出話をする形で進む。河治さんは「嫌みをいう老人の設定だが、近所にいるおじいちゃんの昔話を聞くように気軽に楽しんでもらいたい」と話す。
 都内の大森貝塚を発掘した動物学者エドワード・モース博士に、お気に入りの首飾りを自慢した一面や、当時の松前藩から迫害されていたアイヌの窮状を告発した義人としての姿も。河治さんは「アイヌ民族が本当に滅びると思っての行動。アイヌは文字を持たないため、記録する使命感があった」と解説する。
 小学館の月刊誌「きらら」で昨年4月号から1年間、連載した小説に加筆するなどした。四六判320ページ、1836円(税込み)。(赤塚堅)
https://www.yomiuri.co.jp/local/mie/news/20181126-OYTNT50183.html

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経済危機のベネズエラ、金採掘で荒れる自然遺産

2018-11-27 | 先住民族関連
ダイヤモンドオンライン 2018.11.26
Photo:PIXTA
インフレ率が100万%を超えるなか、国立公園のツアーガイドでは先住民は生活できない
 【カナイマ国立公園(ベネズエラ)】絶壁の上に平らな台地が広がる「テーブルマウンテン」や世界最大の落差を誇る滝「エンジェルフォール」で知られるベネズエラのカナイマ国立公園。先住民のペモン族は長らく、この国立公園の世話役を自認してきた。
 しかし、国の経済危機によってツアーガイドとしての生活が成り立たなくなった彼らは今、金鉱を求めて地面を掘り起こさざるを得ない状況に追い込まれている。こうして広がる露天掘りの金鉱が、深刻な自然破壊を引き起こしている。
 「われわれペモン族は常にエコロジストであり、この土地の守護者だった」。近くの集落のリーダー的存在であるアブラハン・サンドバル氏(33)はこう話す。「だが状況が変わり、われわれは自分たちの居住地の破壊者になってしまった」
9月に住民が掘った穴はフットボール競技場2つ分を超えるほどの広さだった。
 ベネズエラのニコラス・マドゥロ大統領は、落ち込む石油収入を穴埋めし、同国史上最悪の経済危機を解決する手だてとして、金採掘に期待を寄せている。深刻な食糧不足で数百万人が国外に脱出する中、マドゥロ大統領はカナイマ国立公園の南北に広がる4万3000平方フィート(約4000平方メートル)を、金やその他の鉱物資源の採掘地として指定した。
 マドゥロ氏は最近の演説で「次のクリスマスの最も注目すべき、魅力的で人気の高い贈り物は、金の鑑定書になるだろう。(中略)金は価値が増すことはあっても絶対に減らない」と語った。
 同国の今年のインフレ率は130万%を超える見通しだ。公園内の集落に住むペモン族にとって金は、ほぼ無価値となった通貨ボリバルの代わりとなるものだ。集落の食料雑貨店では、店主がカウンターで金のかけらを計量し、1ポンドのコメに対して4ドル相当、1ガロンのガソリンに対し7ドル相当を徴収する。この地域ではダイヤモンドや鉱石コルタンの採掘も行われている。コルタンは精製すると、携帯電話に使われる希少金属(レアメタル)のタンタルが得られる。
 米財務省は最近、米企業にベネズエラの金採掘への参入を禁じる制裁措置を発動した。金採掘で得られる資金は、マドゥロ氏や側近らが同国最後の富を略奪し、窮地にある政権を浮揚させるのに役立つというのがその理由だ。
 国連教育科学文化機関(ユネスコ)世界遺産に指定されているカナイマ国立公園内で採掘を行うと違法になる。同公園は滝だけでなく、かつて南米とアフリカが1つの大陸だった証拠を示す地質学的に重要な岩石層でも知られる。珍しい植物や、オオアリクイやバクといった希少動物が生息するほか、5億年前からの侵食の痕が残る独特の形状のテーブルマウンテンは、ディズニーのアニメ作品「カールじいさんの空飛ぶ家」(2009年)の舞台のモデルにもなった。
 だが、新たな経済的現実が引き起こした「ゴールドラッシュ」は、国立公園に取り返しのつかない被害を与えると環境活動家は指摘する。鉱物採取用に掘られた穴には、汚染物質を含む青緑色の水が大量にたまっている。園内の河川では、金採取者がわずかな金でも抽出できるよう、すくった泥に水銀を混ぜている。彼らはこうした作業を通常は夜間に行うという。軍が率いるレンジャーの目を避けるためだ。
 「予想されるのは、この破壊行為が今後さらに激しくなるだろうことだ」。ベネズエラの環境保護団体「SOSオリノコ」は、最近ユネスコに提出した報告書の中でこう述べた。同団体はユネスコに対し、シリアの古都アレッポやイエメンのサナア旧市街と同じく、カナイマ国立公園を「危機にさらされている世界遺産」に登録するよう求めている。
 SOSオリノコは衛星画像を使った報告書で、公園内から周縁部にかけて30カ所を超える採掘場が確認されたとしている。
 一方で、ゴールドラッシュは、犯罪組織やコロンビアの反政府左翼ゲリラなども引き寄せている。こうした集団の縄張り争いで10月には17人が犠牲となった。今月発生した衝突ではベネズエラ軍の兵士3人も死亡した。
 ベネズエラ当局は公式声明で、カナイマ国立公園での採掘は禁止されており、指定した採掘地に限定すると強調している。だが、ウォール・ストリート・ジャーナル(WSJ)が先月現地を訪ねた際、ペモン族のリーダーらは政府が金採掘に代わる選択肢を提供していないとし、大半の住民は今後も金鉱石探しを続けるつもりだと述べた。
https://diamond.jp/articles/-/186515

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五輪・パラへ、アイヌ文化発信

2018-11-27 | アイヌ民族関連
朝日新聞 2018年11月26日09時43分
釧路でイベント

 アイヌ文化の多様性を伝えるイベント「カムイモシリ・アイヌモシリ」が24日、釧路市内で始まった。東京五輪・パラリンピックへ向けて、国が進める日本文化の発信事業の一つ。
 アイヌ文化は、同じテーマでも道内の地域ごとに、舞踊や音楽、工芸作品などの表現が異なるという。ステージでは阿寒(釧路)や旭川、二風谷(平取)の歌い手や踊り手が合同で、3地域の舞踊を披露した。
 監督を務めた秋辺日出男さんは公演後、「アイヌ語の『イランカラテ』は、五輪に来日する遠来の客を迎えるのにふさわしい言葉。歓迎イベントでアイヌ舞踊を大人数で踊れるなら、指導できるサブリーダーを育てておきたい」と狙いを明かした。
 会場では、アイヌの工芸品などの展示や、木製楽器・ムックリづくり体験、アイヌ伝統料理のコーナーも店開きした。25日まで。 (宮永敏明)
https://digital.asahi.com/articles/CMTW1811260100008.html?_requesturl=articles%2FCMTW1811260100008.html&rm=143

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『レッド・デッド・リデンプション2』はなぜ「現代の西部劇」なのか 映画的側面から読み解く

2018-11-27 | 先住民族関連
リアルサウンド 11/26(月) 17:34配信

 開拓時代が終わるアメリカの無法者として、荒野を馬で駆け銃を撃ち合うなど、西部劇の主人公になりきって遊べる大ヒットゲーム、待望の続編『レッド・デッド・リデンプション2』。前作からコンセプトやゲームシステムに大きな変更はなく、より複雑で詳細に作り込まれた、ワイルドな西部の世界がまるごと楽しめるのが魅力だ。
 ここでは、そんな『レッド・デッド・リデンプション2』を、操作性やゲームバランスではなく、「西部劇」としてどうなのかという視点で、映画史やゲームの描写を例に挙げながら、本作のより深い楽しみ方を提案していきたい。
 ゲームを開始するとすぐに始まるのは、強盗計画に失敗した、主人公アーサー・モーガンとギャング団、その妻子たちが、雪山を超えて新天地に逃亡しようと難儀するエピソードである。「西部劇」といえば、多くの人々がイメージするのは、タンブルウィード(草のかたまり)が転がる荒野や、サボテンが散見される砂漠地帯や岩場などの乾いた景色であろう。しかしここでは、いきなりロッキー山脈と思われる雪景色の高地が舞台となり、吹雪や寒さが主人公たちを襲うという、意外性を狙った試みがみられる。
 最近では、クエンティン・タランティーノ監督の映画『ヘイトフル・エイト』(2015年)が、同様の舞台で西部劇の世界を描き、強い印象を残した。このような映画の元祖といえるのは、幌馬車隊が厳しい自然のなか様々な苦難を越えて西部へ西部へと進んでいく、ジェームズ・クルーズ監督のサイレント映画『幌馬車』(1923年)である。
 『幌馬車』は冒頭、このような字幕とともに始まる。「アメリカの血は、開拓者の血である。未踏の自然から輝かしい文明を切り拓いた、獅子の心を持った男たち、そして女たちの血である」…『幌馬車』や、大陸横断鉄道を敷設する『アイアン・ホース』(1924年)など、単なる娯楽映画だと考えられていた西部劇は、やがてアメリカの建国につながっていく「開拓精神」が重ねられることで、力強いダイナミズムやカタルシスが与えられることになった。これこそが、それ以降の西部劇の「核」となる部分となっていく。
 『レッド・デッド・リデンプション』シリーズに描かれる世界のベースにあるのが西部劇映画だということは言うまでもない。本作の冒頭で『幌馬車』で描かれたような厳しい山越えをフィーチャーしているのには、西部劇の根本精神に立ち戻り、新たに一から、本質的に「西部劇」をゲームのなかで作り上げようという、強い意図が感じられるのだ。
 そもそも「西部劇」とは多くの場合、開拓時代のなかで、警察の手が足りず強盗などの犯罪が横行したり、拳銃による決闘などが行われていたアメリカを舞台に描いた映画ジャンルのことだ。アメリカやイタリア映画、TV番組で、ジョン・ウェインやヘンリー・フォンダ、クリント・イーストウッドなどの西部劇スターが生まれ、スーパマンなどの新しいヒーローが現れるまで、アメリカはもちろん日本を含めて、西部の英雄は子どもたちのあこがれの存在だった。
 だがそんな西部劇も、時代とともに姿を消していき、現代で以前のような意味での西部劇映画が作られることはほとんどなくなった。それは、現代のグローバルな価値観のなかでは描かれる思想が時代遅れであり、倫理に反する部分もあまりにも多いからだ。アメリカの歴史をそのまま描いてしまうと、「開拓精神」などと言って胸を張ることができなくなってしまう。『駅馬車』(1939年)などで先住民が野蛮な襲撃者として登場するなど、男女差別や人種差別が激しい描写を、現代の文化のなかでヒーローとして表現したり、カタルシスを発生させることは難しい。『マンディンゴ』(1975年)や『ジャンゴ 繋がれざる者』(2012年)のように奴隷制度による悪魔的描写や、奴隷制終了後も継続する階級的なシステムの上であぐらをかいていた白人たちを描いた作品は、白人が作り白人が消費してきたアメリカ映画史のなかでは例外的である。
 「開拓」とは、違う言い方をすれば「侵略」や「破壊」となる。アメリカ先住民、奴隷や被差別者としての黒人、そして白人であっても虐げられてきた女性たちからすれば、ヨーロッパから入植してきた白人、そして男性たちは簒奪者であり虐殺者であり搾取者であり差別者であり虐待者なのだ。
 『真昼の決闘』(1952年)や『大いなる西部』(1958年)は、そんな残忍で野蛮な西部の荒れた世界のなかで、比較的現代的な公平性を持っている主人公が孤独な戦いを余儀なくされる、ある意味でディストピア的要素を持った西部劇である。これらの作品は西部劇の世界を否定することで、娯楽映画として成立しているといえよう。そのような時代の流れに対し、あくまで西部劇の世界や開拓精神をおおらかで価値のあるものだと主張し、時代を逆行させるカウンターとして撮られたのが、『真昼の決闘』同様のシチュエーションを異なったアプローチで表現した、ハワード・ホークス監督の『リオ・ブラボー』(1959年)だった。ここでは保守的なジャンルである西部劇にも、リベラルと保守の区分けができることを意味している。
 では、『レッド・デッド・リデンプション2』はどうなのだろうか。それは、本作のメーカーであるロックスター・ゲームスの代表シリーズ『グランド・セフト・オート』を見れば理解できる。この作品は、アメリカの犯罪者の世界を誇張して、偏見あるステレオタイプで悪趣味な描写をプレイヤーに提供している。そしてそんな不謹慎な世界をまるごと俯瞰して笑うことで、暴力や欲望にまみれた社会に皮肉を浴びせるということもできる、二重的な構造になっている。だから『グランド・セフト・オート』は、あるプレイヤーによってはただの「暴力ゲーム」であり、あるプレイヤーにとっては戯画化された暴力への皮肉な批判として機能することになる。
 『レッド・デッド・リデンプション2』の世界では、プレイヤーが操作するアーサーが町や草原などを歩いているだけで、様々なイベントが発生する。銃撃に遭ったり、酒場で乱闘することになったり、娼館でトラブルに巻き込まれたり……。酔っ払った男が馬に蹴られて突然死するのを目撃することもある。さらには黒人奴隷の酸鼻な最期を暗示している部分も見られる。ここでも、プレイヤーは描かれる暴力や野蛮さをそのまま味わうことができるし、そんな様々な暴力が肯定される描写を、「開拓精神」と呼ばれてきたものへの批判として捉えることもできるのだ。このような二重構造を持つことで、あらゆる暴力が存在する「西部劇」が現代的な意味を持つことができる。
 しかし本作はあるキャラクターが宣言する「世界は今日も美しい」という言葉が象徴するように、ハワード・ホークス監督の『赤い河』(1948年)、『リオ・ブラボー』、ジョン・フォード監督の『捜索者』(1956年)同様、それでもなお西部のおおらかさや、大自然のなかでの人間の営みの魅力を肯定しているように見える。
 自由に行動できる広大なオープンワールドのなかで、キャラクターたちの楽しい合唱にひたったり、バルビゾン派の絵画を想起させる詩情に満ちた風景を眺めながら時を過ごし、自身の髭や馬、銃のメンテナンスにひたすら快感を感じることもできる。そして制作者の意図すら超えて、町の入り口付近の地面に刻まれた、圧倒的リアリティによる馬車の轍(わだち)や、馬のひずめの跡を見て、プレイヤーが人生を想うことすら可能なのである。
 このように本作はゲーム作品でありながら、西部劇映画の歴史を一つずつ負い、さらにはその先に行こうとする、真に「現代の西部劇」といえるものになっていると感じられる。だから本作を最大限に楽しもうとするなら、西部劇映画をまず観ることが必要である。そしてこのゲームに懐疑的な西部劇映画のファンもまた、プレイしてみることを強く薦めたい。『レッド・デッド・リデンプション2』は、ゲームファンと映画ファンを媒介するだろう、大きな可能性を持った「西部劇」なのだ。
小野寺系
https://headlines.yahoo.co.jp/article?a=20181126-00010030-realsound-ent

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