北海道新聞 12/12 16:00
近江国(現在の滋賀県)にあった住吉屋西川家は、江戸期に松前藩の御用商人だった「商社」。アイヌ民族と交易する場所請負を経て拠点を広げた。
小樽の忍路、高島、堺町に構えた店で1887年(明治20年)前後に編まれた「西川商店日記」は、滋賀大と小樽市総合博物館に計213冊残る。同博物館の所蔵は14冊。業務報告のほか当時の暮らしぶりも書き込まれ「つい『読まさる』んです」と学芸員菅原慶郎さん(32)は言う。
85年(同18年)春の高島分店日記には、ニシンが取れ始めたのに15センチも降雪があったと記される。干してあった魚も覆われ「漠タル雪原ヲ望ムカ如シ」と、漢詩調に喪失感がのぞく。
4年後、住吉神社例大祭当日の堺町分店日記には「オコハヂ川橋詰ニ高サ六間の大鳥居ニ模シタル者ヲ組立、是ニ四百余個ノ球燈ヲ建テ」とあり、高揚感が伝わる。
当主だった十代目貞二郎は趣味人。伝記に、懇意の文人画家富岡鉄斎の体を気遣い道産の熊皮を贈ったとある。工夫好きで、孫にマッシュポテト入りまんじゅうなどを食べさせ、迷惑がられもした。
小樽へ来た時は苦手な乗馬の最中に草履が脱げ、通りすがりの人に「拾え」と横柄に言ってあきれられた。尊大でも憎めない姿は日記の伸びやかさと重なり、「社風」を思わせる。
95年(同28年)の火事で堺町の店を失ったのを機に、西川家は小樽市街地を退く。店周辺は今や市内一の観光名所。1世紀以上も前の勤勉な人々の姿を重ね、眺める楽しみもある。(中井理依)
https://www.hokkaido-np.co.jp/article/373959
近江国(現在の滋賀県)にあった住吉屋西川家は、江戸期に松前藩の御用商人だった「商社」。アイヌ民族と交易する場所請負を経て拠点を広げた。
小樽の忍路、高島、堺町に構えた店で1887年(明治20年)前後に編まれた「西川商店日記」は、滋賀大と小樽市総合博物館に計213冊残る。同博物館の所蔵は14冊。業務報告のほか当時の暮らしぶりも書き込まれ「つい『読まさる』んです」と学芸員菅原慶郎さん(32)は言う。
85年(同18年)春の高島分店日記には、ニシンが取れ始めたのに15センチも降雪があったと記される。干してあった魚も覆われ「漠タル雪原ヲ望ムカ如シ」と、漢詩調に喪失感がのぞく。
4年後、住吉神社例大祭当日の堺町分店日記には「オコハヂ川橋詰ニ高サ六間の大鳥居ニ模シタル者ヲ組立、是ニ四百余個ノ球燈ヲ建テ」とあり、高揚感が伝わる。
当主だった十代目貞二郎は趣味人。伝記に、懇意の文人画家富岡鉄斎の体を気遣い道産の熊皮を贈ったとある。工夫好きで、孫にマッシュポテト入りまんじゅうなどを食べさせ、迷惑がられもした。
小樽へ来た時は苦手な乗馬の最中に草履が脱げ、通りすがりの人に「拾え」と横柄に言ってあきれられた。尊大でも憎めない姿は日記の伸びやかさと重なり、「社風」を思わせる。
95年(同28年)の火事で堺町の店を失ったのを機に、西川家は小樽市街地を退く。店周辺は今や市内一の観光名所。1世紀以上も前の勤勉な人々の姿を重ね、眺める楽しみもある。(中井理依)
https://www.hokkaido-np.co.jp/article/373959