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家族のケアを担う「まち」を作る北九州の挑戦、若者たちが引き付けられる理由

2024-11-30 | 先住民族関連

東洋経済 11/29(金) 11:32

福岡県北九州市にあるNPO法人「抱樸」(ほうぼく)が12月2日まで1億円のクラウンドファンディングを募っている。「希望のまち」と名付けられた複合型福祉施設を建設するためだ(創設の経緯は「北九州・暴力団本部跡地に福祉施設が建つ意義」)。希望のまちのプロジェクトには20代、30代の若者が多く携わっている。なぜ彼らはこの活動に魅力を感じるのか。

【写真】11月5日、福岡市内で開かれた抱樸のシンポジウム

■家族のケアを担う人がいない

 2026年中の開設を目指す「希望のまち」は3階建ての施設。生活困窮者のための救護施設から、子どもや家族を支援する相談室、デートで使えるようなおしゃれなレストランまで、地域の誰もが気軽に出入りできる「まち」作りを目指している。希望のまちを設立する抱樸は、1988年から36年間ホームレス支援を行ってきた。抱樸の理事長、奥田知志さんは希望のまちは「家族機能の社会化」だと表現する。

 「1980年代、一番多い家族の形は両親と子どもの核家族で、全体の約4割を占めていましたが、現代ではこの形の家族は約25%にまで減った。一方、最も多いのは単身世帯で、38%に上ります。単身では『今日は顔色が悪いね』と言ってくれる人がいない」

 これまで産業化社会は、家族にケアの役割を担わせてきた。企業の働き手である夫の体力の回復は専業主婦だった妻が担った。将来の働き手である子どもの養育もまた、多くが妻の仕事だった。

 だが、家族が多様化し女性の就労は当たり前になったことで、ケアの役割を果たす者が十分にいなくなった。家族のケアの力が痩せ細っているのだ。それにもかかわらず、ケアは家族が行うべきだとの考え方は今も根強い。単身者の場合、地域とのつながりが希薄になれば、途端に孤立し、相談相手がいなくなってしまう。

 頼りたくても誰にも頼れない人が増えている。ホームレス支援を行ってきた抱樸のこれまでの活動は、炊き出しや夜のパトロールで様子を尋ねるなど、困窮しまたは孤立状態にある人へのケアを担ってきた。

 希望のまちのプロジェクトには大勢の20代、30代の人たちが気持ちを寄せている。抱樸の職員にも若手が多い。職員たちに話を聞いた。

 Aさん(26)は、抱樸の「ひとりにしない」支援が好きだと言う。Aさんは不仲な両親の下で育った。Aさんは長女だったことから、無意識のうちに自分の家族は自分がどうにかしなければと思っていた。大学時代に抱樸の炊き出しに参加するようになった。そこでスタッフと交流している「ホームレスのおっちゃんたち」の姿と自分の親が重なった。

■「家族のすべてを背負わなくてもいい」と気づいた

 「ひとりににしない」という抱樸のような考え方をする人たちがいるのなら、自分が家族のすべてを背負わなくてもいいのだと気づいたそうだ。「急に肩の荷が軽くなった気がしました」とAさん。そしてAさん自身は抱樸に就職し、困難を抱える人たちの相談に当たっている。これが家族機能の社会化だと実感するという。

 Aさんは、抱樸の互助会で行われる葬儀に参列するのが好きだそうだ。これまで抱樸は、誰でも参加可能な互助グループを作り、日常の交流を行い、仲間が亡くなったときには皆で看取り、葬儀を行ってきた。考えてみれば、これまでは葬儀こそが家族が中心になって行う、しかも人生に不可欠な営みだった。

 Aさんは言う。「みんなで看取って、みんなで見送るというのが、筋が通っていると思います。私が知らない人の葬儀でも、担当した職員が、この人はこういういいところもあったけれど、こういう大変さもあったと涙ながらに語るのを見ると、心が温かくなります」。

 その人のありのままの姿を語り、皆で悼む。それは素敵な見送り方に思える。

■「なんちゃって家族っていいな」

 Sさん(34)は、希望のまちのプロジェクトに携わっている職員の一人。やはり両親は不仲で、離婚をした。自分がそれぞれの面倒を見なければならないと思っていたそうだ。大学を卒業後、非正規の仕事を転々とした。うつ状態になっていた頃、居場所づくりの仕事に携わるようになった。

 「私たちの世代は、空気を読むのが上手です。親を喜ばせなければいけないと思って生きている。正解をいつも探している。でも、活動の中で(ホームレス状態を経験したことのある)おっちゃんたちとしゃべっていると、自分は自分でいいのだなと感じます。他人だけど悪態をつきつつ心配し合っている姿に、『なんちゃって家族』っていいなと思います」

 さらに次のように続ける。

 「私たち20代、30代は、見通しのよい未来は描きにくい。希望のまちに関わることで、自分でも社会が変わるきっかけのお手伝いができるのではないかと期待感を持っている人が職員の中に多いように感じます」

 奥田さんは、希望のまちプロジェクトのために、YouTubeやシンポジウムでこの活動に関心をもつ作家や思想家、精神科医、ミュージシャン、アーティストなどと討論を重ねてきた。それぞれのジャンルで社会のあり方を問いかけてきた人たちと語り合う。多様な立場の人たちが、このプロジェクトに触発される一方、相互に影響を与えている。

 11月5日、福岡市内で抱樸のシンポジウムが開かれた。登壇者は奥田さんのほかに、食と農業の思想やドイツ近現代史の研究者である藤原辰史さん(京都大学人文科学研究所准教授)、アーティストのコムアイさんとそのパートナーで映像作家の太田光海さんの3人だ。

 3人の話からは、人が緩やかに出会い、おだやかにつながることで、暴力的な苦しさを乗り越えていけるかもしれない場が、世界のあちこちにあることを教えられた。それは希望のまちが目指している場と同じだ。

 藤原さんは、半月前に訪れたドイツのルール地方で、移民の子どもたちの居場所を訪ねた話をした。ルール地方は、かつての北九州市と同じように、石炭と鉄産業で栄えた町だ。

 子どもたちが過ごす施設の中心がキッチンで、写真付きのレシピが張り出され、子どもたちは自由に食べたい食事を作り、そばにいる人に食べさせてあげるという仕組みになっているそうだ。お互いに食事を作って食べさせることが、子どもたちの力になるのだという。

 藤原さんは著作『縁食論』で、日本の子ども食堂について次のように書いている。「子ども食堂に見られるような家族の絆を超えた食のあり方は、人と人の交わる公共空間を活発化し、さらに創造していくポテンシャルを内包している」。

 家族の中に閉じ込められていたケアを「食」という観点から外に開いていく。そこに、新しい人のつながり方の可能性が生まれる。

 映像作家の太田さんは、ドキュメンタリー映画『カナルタ 螺旋状の夢』の撮影で、1年間、アマゾンのエクアドル側に入り、先住民族のシュアール族の家庭に寄宿していた日々を振り返った。大自然と向き合って暮らす薬草に詳しい男性が、自分の五感を使って新しい薬草を見つけ、仲間と家を建て、食物を分け合って生活をしていく。ドキュメンタリー映画では、自分の感覚を信頼し、判断し、常に新しく生活が創造されていく、人の持つ根源的な力が描かれる。

■コムアイ「死んでもいいかもしれないと思っていた」

 コムアイさんは小学生の頃、「死んでもいいかもしれない」と思っていたと語った。学校と家の往復で、地域の人と話すこともないのが寂しかったという。それが中学3年生になって、ボランティア団体に顔を出すようになって変化していった。色々な人の話を聞くようになり、人生は面白そうと思ったそうだ。

 格差と分断が進行し、メディアを通じて戦争という暴力に誰もが日常的に触れる時代だ。力がなければ生きられないのではないか。そんな恐怖と不安が日常化している。荒れ果ててしまったかのような時代のなかで、人々が出会い、つながりることで、新たな希望のまちが生まれる。

杉山 春 :ルポライター

https://news.yahoo.co.jp/articles/9c9af24600977bb4a77d2fad3cda28df887a0747?page=1

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