エコノミスト2024年12月2日 有料記事
「亡くなってしまったので、姉にはもう何も届きません」 撮影=中村琢磨
映画監督 藤野知明/134
ふじの・ともあき 1966年札幌市生まれ。北海道大学農学部卒業。住宅メーカー勤務後、95年日本映画学校映像科録音コース入学。千葉茂樹監督に出会い、ロシア・サハリンの先住民ウィルタ、ニブフに関するドキュメンタリー映画「サハリンからの声」(96年)の制作に参加。作品に「八十五年ぶりの帰還 アイヌ遺骨 杵臼コタンへ」(2017年)など。現在、「アイヌ先住権とは何か?」のほか、ウィルタに関するドキュメンタリー映画を制作中。
ある日、事実でないことを叫び始めた姉。しかし、両親は姉を受診から遠ざけた。なぜなのか。もっといい方法はなかったのか。映画監督・藤野知明さん自身の20年にわたる家族の記録が、ドキュメンタリー映画として公開される。(聞き手=井上志津・ライター)
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「統合失調症の姉と、認めない両親の記録です」
── 12月7日公開のドキュメンタリー映画「どうすればよかったか?」は、統合失調症の症状が表れた藤野さんの8歳上の姉と、彼女を病気とは認めず精神科の受診から遠ざけた両親の姿を記録しています。姉と両親の姿を最初に記録しようと思ったのはいつですか。
藤野 初めて私が家の様子を記録したのは1992年です。姉は当時33歳、私は大学生で、医学生だった姉が統合失調症と思われる症状で救急車で運ばれた時から9年後でした。就職でもう家を出るから記録しておこうと思い、姉が居間と応接間を行き来しながらしゃべり続け、父がなだめている様子をウォークマンで録音しました。ビデオカメラは持っていませんでした。今回、その音を映画の冒頭に使っていますが、当時は作品にするつもりはまったくありませんでした。ただ記録用だったんです。
── お姉さんの最初の症状はどんなものだったのでしょう。
藤野 夕飯後、私は隣の部屋にいたのですが、ベッドに寝ていた姉が突然大声で「パパがテレビの歌合戦に出て歌っていた時、応援しなくてごめんね」といった、事実でないことを叫び始めたのです。それまでの姉は勉強ができ、絵とピアノがうまく、中学校では生徒会の副会長をしていて、私にとっては雲の上のような存在でした。両親は共働きの医者、研究者で、食事はお手伝いさんが作っていましたが、姉は年の離れた私をかわいがり、面倒を見てくれました。
── 両親は藤野さんに「姉は勉強ばかりさせた両親に復讐(ふくしゅう)するため、統合失調症のようにふるまっているだけだ」と説明しますが、藤野さんは信じましたか。
藤野 父は「お姉ちゃんを診た医師は『まったく問題ない』と言った」と私に説明しましたが、その後も症状は頻発したので、そんなはずはないだろうと感じました。けれど、父は医学部を出た研究者で私より知識があるし、事実と違うことを言うはずがないとも思っていました。私が疑っていることを姉が感じて興奮させてしまったらいけないので、私は大学ではボート部に入り、家に寄り付かなくなりました。
実家の玄関に鎖、南京錠
「どうすればよかったか?」は、映像制作を学んだ藤野さんが2001年から20年間、札幌市にある実家へ帰省するたびに撮影した両親と姉の姿、藤野さんと家族との対話の記録だ。統合失調症なのかどうかを確かめたいと思う藤野さんと、かたくなに姉の精神科受診を拒む両親。そして、藤野さんがある日、実家に帰ると、玄関に鎖と南京錠がかけられ、姉は家に閉じ込められていた──。 統合失調症は幻覚や妄想などの症状を特徴とする精神疾患で、10代後半から30代で発症することが多いといわれる。原因はまだ解明されていない。藤野さんの姉は21年、肺がんのため62歳で亡くなった。映画に通底するのは、家族でありながら分かり合えないもどかしさ、そして、もっといい方法はなかったのかという自問だ。
── お姉さんが統合失調症だと思ったのはいつですか。
藤野 私が大学4年生の時です。専門書をじっくり読み、姉は統合失調症で、両親の「ストーリー」は事実と違うと思いました。姉を受診させるべきだと両親に言いましたが、両親はやっぱり認めませんでした。私は自分が嫌になり、小学生以降の自分の写真や教科書やノートを捨てました。両親の言うことを黙って聞き、素直に勉強していたころの自分が許せなくなったんです。
── 両親はなぜ病気を認めなかったのでしょう。
藤野 当初は恥じて隠しているのだと思っていました。でも今は、当時はよく効く薬がまだなかったので、受診しても治療が期待できないと判断したのではないかと思っています。もう一つの理由は、病院に行くと通院歴が残り、姉が医師になったり研究者になったりする道が閉ざされてしまうから、自分たちでこっそり治そうとしたのかもしれない。今はこれが一番近い気がしています。
── 藤野さんは01年からビデオカメラで家族の撮影を始めましたが、なぜでしょうか。
藤野 92年に録音してから何も記録していなかったので、やはり残しておいた方がいいだろうと、今度はカメラで撮りました。作品にするつもりはこの時もまったくなく、いつか受診できた時に医師に見せられるかもという程度でした。それまでは私が両親と話をする時、ケンカになることが多かったのですが、カメラがあるとお互い、丁寧にしゃべったりしてなぜか冷静になるんですよね。だから、落ち着い…
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