最近のテレビ番組は(NHKを除いて)あまりお金をかけないで手軽に済まそうとする傾向が目立つように思う。
たとえば、是非は別としてクイズ番組やお笑い番組などがやたらに多くなった気がするのもそう。
その大きな一環だと思うがTBSが製作したドラマ「JINー仁ー」は昨年の11月頃に放映されて大好評を博したが、この全10話をそっくりこの27日~28日にかけて2日間ゴールデンアワー〔19時~23時)に再放映したのには驚いた。
明らかに時流に乗った安上がりの「手抜き」事例ともいえるが、見方を変えるとよほどの自信作ということなんだろう。しかし、つい、娘と一緒にず~っと観てしまったがやはり面白かった。
さて、そこで今日は大晦日。
つい前置きが長くなってしまったが、自分もそれにあやかって、今年1年間の投稿の中からアクセスが比較的多かった「ブログ」をそっくり掲載させてもらうことにしたものの、いずれも再読に耐えない「駄作」ぞろいで選考に一苦労。
結局、以下のとおりになりましたが”あしからず”~。
長年、混迷の度を深めてきたオーディオ装置の改善もどうやら一段落し、今年あたりはこれまでやや敬遠してきたバッハの音楽に深入りしてみようかというのが年頭でのひそかな目標。
そこで、少しでも耳に馴染ませるため正月早々クルマのCDチェンジャーに「マタイ受難曲」を入れて運転しながら聴くことおよそ3週間あまり、果たして途中経過やいかに。
それが結構いい線をいっているのである。
随所に現れる清らかな、ホントに心を洗われるような美しい”調べ”にジンとくることがしばしば。運転中なのに~。
これは明らかに耳に馴染んできた証拠でなかなかいい徴候!
自宅のオーディオ装置で正対しながら聴くといかにも退屈でかた苦しい限りの音楽が随分と身近になる。
「ながら聴き」の効用というのはホントにバカにならない。こうして「マタイ受難曲」にめどがたつとさらに欲が出てきて、つい先日には、湯布院のA永さん宅に勝手に押しかけてバッハのもうひとつの代表曲「ミサ曲ロ短調」(リヒター、コープマン指揮の2セット)をお借りしてきた。
そのうち「マタイ受難曲」と入れ替えてこれもクルマに収納しようと思っているが、どうやら今年の目標に対して少しばかり明かりが見えてきた感じ。
しかし、つらつら考えるのにクラシック歴およそ40年にもなるのに、モーツァルトやベートーヴェンの音楽はスット胸に入ってくるのに、バッハの音楽はどうしてこうも時間がかかって”てこずる”ものなのか。
おそらく自分だけかもしれないが、同じクラシックの中でも異質というか孤高というか、ひときわ高い山を感じる。
こう書いてきてふと思ったのが、バッハとドストエフスキーとは似たような存在ではなかろうかということ。
「音楽界のバッハ=文学界のドストエフスキー」。
もちろん、自分の勝手な思い込みに過ぎないが両者ともにその分野で絶対的な存在感を誇り、何回もの試聴、精読に耐えうる内容とともに後世に与えた影響も計り知れない。
片や「音楽の父」、片や「20世紀以降の文学はすべてドストエフスキーの肩に乗っている」(加賀乙彦氏)と称されるほど。
さて、こういう”ややっこしい”バッハの音楽についてモーツァルトの音楽と比較することで分かりやすく解説してくれた本がある。
「モーツァルト 二つの顔」〔講談社刊)
著者の磯山雅氏(1946~)はバッハ研究を第一とし、モーツァルトの音楽を愛される学識経験者。
本書の第9章「モーツァルトとバッハ」で、イメージ的な私見とわざわざことわった上で両者の音楽の本質的な違いについて、独自の考察が展開されている。
以下、要約。
☆ モーツァルトのダンディズム
バッハは真面目かつ常に正攻法で誠実に問題に対処する。一方、モーツァルトは深刻さが嫌いで茶化すのが大好き。
問題をシリアスに捉えてはいるのだがそう見られるのを好まないダンディズムがある。
☆ 神と対峙するバッハ
バッハの音楽には厳然たる存在の神が確立されており、音楽を通じて問いかけ、呼びかけ、懺悔し、帰依している。「マタイ受難曲」には神の慈愛が流れ出てくるような錯覚を抱く。
モーツァルトにはこうした形での神の観念が確立していない。その音楽の本質は飛翔であり、疾走である。神的というより霊的と呼んだ方がよく、善の霊、悪の霊が倫理的規範を超えて戯れ迅速に入れ替わるのがモーツァルトの世界。
以上、「ごもっとも」という以外の言葉を持ち合わせないほどの的確なご指摘だと思うが、バッハの音楽はどちらかといえば精神的に”タフ”な人向きといえそうで、これはドストエフスキーの文学にしてもしかり。
道理で、両者ともに自分のような”ヤワ”な人間を簡単に受け付けてくれないはずだとイヤでも納得。