パオと高床

あこがれの移動と定住

ヴァルター・ベンヤミン「フランツ・カフカ」西村龍一訳(ちくま学芸文庫『ベンヤミン・コレクション2』)

2008-02-21 14:30:53 | 海外・エッセイ・評論
カフカの困難とベンヤミンの困難が呼応しあい、「世界の年齢」を「シシュフォスが岩を転がすように転がしていく。」ようだ。
ベンヤミンは、暗がりにあるもの、忘れられたもの、その束の間に属する身振り、細部から、星の光の及ばない、光らない星の、星座の地図を描き出していく。「フランツ・カフカ」にあってもそうだ。誠実さと強い感応力で、カフカの寓話を読み、寓話を復権する。特殊から普遍へ、普遍から特殊への往還運動を見定めていく。このエッセイは、徹底的にカフカの小説の引用がコラージュされている。これはベンヤミンのスタイルのひとつである。引用はコラージュされ、モンタージュされた部分は全体への思考を誘い出して中断する。そこに、ベンヤミンの警句や比喩が待ち伏せる。思考の、それこそ沼沢が読者を迎え入れるのだ。僕らはそこに、字義を変換された、さまざまな「希望」を感じ取れるだろうか。それは、常に現在が孕む抜き差し難さと歴史が隠し持っている秘密の出会いにかかっているのだ。

この本は、あとがきで、編訳者の浅井健二郎という人が「エッセイの思想」について触れている。「エッセイは、当初からそれであったところのもの、すなわち第一級の批評形式なのである」という文を引きながら、ベンヤミンの著作は「すべて第一級のエッセイにほかならず」といい、ただ、むろん、「その一文一文、その一語一語に、書き手の息遣いを、対象の小面を切り取るその手つきを、モンタージュ的引用の技法を、思いがけぬ比喩の喚起力を、その思考のリズムと中断と飛躍を、その思考を導いている理念やイメージの群れのたぐいまれなる状況布置を、われわれが感覚するならば」と書いている。
〈体系〉に対する異端であるエッセイの思想。だからこそ、その体系に亀裂やカウンターを刻み疑義とヴィジョンを投げかけるのかもしれない。

というか、なによりも、ベンヤミンの文章を読むと、心地良く疲れることができるのだ。



クロード・レヴィ=ストロース『みる きく よむ』竹内信夫訳(みすず書房)

2008-02-15 14:19:31 | 海外・エッセイ・評論
「みる きく よむ」そして、感じ、考える。「思考の快楽」は単に理解の快楽ではない。それを超えて、思考の快楽それ自体に触れる快楽があるのだ。だから、例えば馴染みのないラモーの音楽についてのレヴィ=ストロースの語りに、内容がわかり得ないままでも感心しながらひたれるということになる。言葉のレベルからなかなか、把握しにくかったのは、この本の多くのページが費やされている言葉と音楽の関係であったが、それ自体意味を持たない音がどう構成構造化されていくか。また、和声と旋律の関係についてどういった困難な思考が築かれてきたのかを作者とともに旅できるような心地よさがあった。そう、「旅」=フィールドワークなのかもしれない。場所的なだけではなく、時間の中の、文化の連続の旅なのかもしれない。

あとがきに書かれているように、「みる きく よむ」というのは「視覚と聴覚の前に現れる記号であり、その二つの感覚をつうじて現前する記号を読みとろうとする自身の脳髄に起こる反応を、ポリフォニックな引用をつうじて」作者は「読者に伝えようとする」のだが、様々な引用の中から多面的な見解と普遍性と伝播の分かれ目が滲みだしているように感じた。

芸術の価値やそれが与えた結節点への思考、また、多様な引用が語る人の営みの大きな枠組みなど、ここには当然、人類学的視点が随所にあるようだ。
以下、この本のラストを書くことになるが、実際、「事物への眼差し」という最終章では、とてつもないフィールドワークから引き出された事例の一部から、様々な民族の職能者の役割と地位に触れ、超自然と日常と、芸術と実人生の関係で、「芸術によってつくりだされるこの幻想は、人間的次元を超自然的次元に結びつける絆を証言することを目的としている」や、「その像は実人生と芸術の中間に位置している」など、民族によっての職能者の生み出すものの置かれる位置の違いや共通点を語り出していき、作品がちがった作品を生み出しながら引き継がれるということが「芸術作品が永遠に生き続けるための唯一の手段」だと語る。そして、「どこでもいい、人間の歴史から任意の千年、あるいは二千年を取り去っても、人間の本性に関する私たちの知識は減りもせず増えもしない。」と、学者的峻厳さを見せれば、「唯一失われるものがあるとすれば、それはこれら千年、二千年が生み出した芸術作品だけである。」と芸術を愛する知性の巨人が現れ、この両面が混然として存在する。そしてさらに、「なぜなら、彼らが生み出した作品によってのみ、人間というものは互いに異なっており、さらに存在さえしているのであるから。」と、失われるのが芸術作品であるだけだということの理由を語りながら、「作品だけが、時間の経過のなかで、人間たちのあいだに、何かがたしかに生起したことの証となってくれるのである」と結語する。このラストは、何か感動的であった。ちょっと大げさに言うと、大きな巨大な脳髄がこの星全体を包んでいるような感じがした。

十分に把握できないのが残念だ。しかし、図版があることで、プッサンの絵画への構造分析はスリリングだったし、プルーストや北斎などを置きながら、時間の問題、部分と全体の関係を語り、「このモンタージュ的、コラージュ的技法のゆえに、作品は二重の分節化が生み出したものとなる。二重分節というこの用語は言語学から借用したものだが、この借用は次の点で正当であると私には思われる。つまり、プルーストにおいては、第一次分節の単位自体がすでに文学作品であり、次いでそれらが適当に組み合わされ、配列されて、さらに高次の文学作品を生み出す、という点において。」という視点が、そのまま、プッサンの絵画の個別人物と全体の関係や、北斎のパーツと全体の関係に繋がっていく展開には満足した。「二重分節」という言葉の有効性を感じ取ることもできた。
また、音と色彩についての部分は、ランボーの詩についての考察などが楽しかった。

みる、きく、よむとは、こんなに楽しいのだということと、ものと向き合いながらする思考の冒険のすばらしさを改めて教えてくれた一冊である。それにしても、こんな知性が、うらやましいよ。

それから、カバーの河鍋狂斎の絵がいい。本文中の狂斎の逸話。ポーズをとらせる西洋の画家が理解できない。小鳥は動き回っている。私なら日がな一日小鳥を見ている。すると描きたいと思った姿が見え、描線でスケッチすれば、記憶から取りだせるようになり、小鳥を見なくても再現できるという逸話も面白い。
ひとつひとつのパーツが完成していながら、全体が完成するというプッサンの絵についての絡みで出てくるのだが。




エマニュエル・ボーヴ『あるかなしかの町』昼間賢訳(白水社)

2008-01-19 00:19:32 | 海外・エッセイ・評論
ベコン=レ=ブリュイエールというパリ郊外の町を描いたエッセイである。
85ページの薄いこの本、ただ淡々と書かれているのだが、胸に沁みる。1927年出版だから、描写されているのは、八十年ほど前の町とそこに住む人々である。都市は郊外を持つ。現在、その郊外はむしろそこが様々な問題の温床であるのかもしれない。しかし、郊外は生活の場であるのだ。自分自身の居場所であると同時に、都市に向かう出発地でもある。生活の中での慣れと悲しみが、慰めと退屈が、喜びと辛さが混在している場所なのだ。そこを比喩をつかい、距離感を持ち、観察していく。そして人びとの心のひだまで見とおしていく。ボーヴ自身は住民ではないようだ。解説によると彼は愛人との生活のための別宅としてこの町に移り住んだらしい。その彼の持つ位置が、町との微妙な関係を刻む。町への観察者という場所に彼を立たせているのだ。それにしても、この本に漂う詩情は何だろう。町が今にも消えていきそうで、それでいてその生活の確かさのようなものは伝わってくる。町をきちんと描く文章に都市生活者の面目が滲む。路地の、町の、遊歩者は魅力的である。

7つの章からなる本だが、各章の書き出しから、この本の雰囲気は伝わると思う。
例えば、1章、「ベコン=レ=ブリュイエール行きの乗車券は、特に変わったものではない。」2章、「ベコン=レ=ブリュイエールの気風はパリより穏やかだ。」4章、「ベコン人はわが町を密かに愛している。真面目な父親がおどけ者の息子のことをあまり話したがらないように、ベコン人は多くを語らない。」など。そして、6章の「ベコン=レ=ブリュイエールには町はずれがない。」は、この町を強く印象づける。

ボクらは、町をどう見つめることができるのだろうか。ボクらは郊外の町をどう見つめるのだろうか。ボクらの不安定さにボーヴのこの本はなんだか温かい。
訳者が「あるかなしかの町」という題名にしたということだが、この題名お見事だと思う。もちろん文章も。ドアノーの写真も入れて、なんとも瀟洒な素敵な本になっている。

あとがきにあるブリュイエールの花言葉、花は「孤独」、葉は「屈従」という
のは意味深い。題名も「あるかなしみの町」とも読めそうなひらがな列記である。




陳真『北京暮らし今昔』(里文出版)

2007-07-15 01:32:18 | 海外・エッセイ・評論
中国に最初に行ったのは1988年だったか。その後93年から毎年一回は中国を訪れた。旅行者として。ただ広大な中国だ、行った場所をその国全体として語ることができるのだろうか。日本だって、日本としてくくっちゃって全てじゃないはずだ。日本はちょっと「?」もつくが・・・。

場所に生きた人の生がいきる文章がある。それは、その人が、自分自身の人生を引き受けた所にあるいさぎよさが、凛として響く文章だ。かつて、須賀敦子さんの文章にボクは絶句した。その衝撃とは違うかもしれない。しかし、陳真さんの「北京」は、彼女の生が慈しまれる場所で、彼女が慈しんだ場所を活写している。変化をただ喜ぶのではない。回顧を愛でるわけでもない。生活の場所が、いかに本人と人々の時間の積み上げの上に成立しているものか、だからこそ、今生きている自分たちの場所こそがそこにある場所であるのだという「今昔」の今が語られる。

自転車が減った中国。そう言えば最初に中国のケンタで食べた鶏の美味しさや吉野家のミックス丼を思い出した。マックの前で記念写真を撮っていた時代からそれが普通に日常化した現在。ゴミ箱の変遷。年収の金額の上昇変化。生活の豊かさと年金。「地書」「四合院」「水」「結婚式」と、話題は中国の今を伝えていく。その淡々とした文章に宿る情感は何だろう。時代は常に生活者のものであるべきだと、突然、ボクは思う。その一点を強く感じさせる。

NHKの「中国語講座テキスト」のコラムが元だという一冊。日本と中国の間には、国交のための友好のための、多くの人の人生がかかっているのだと思う。
作者陳真さんの人生も壮絶でありながら、しかし、穏やかさへと向かうものであったのかもしれない。

今、中国の持つ問題点がニュースで報道されている。中国が表す問題点は多い。そこに暮らす人々が、まず、場所を正すこと。
そして、ボクは、中国の豊穣さと貧しさを、浅薄さと分厚さを、普遍と特異を、見ていきたいと思うのだ。
外国人として、観光客として、中国の、北京の懐かしさが失われることが痛いのは、どうしようもないのかもしれない。


S・ベケット「ダンテ・・・ブルーノ・ヴィーコ・・ジョイス」川口喬一訳(白水社)

2007-05-26 12:22:15 | 海外・エッセイ・評論
ベケットの詩と評論集『ジョイス論/プルースト論』の中のひとつ。
立花隆の本でヴィーコについて興味がわいたのだが、そのヴィーコの歴史哲学を援用しながら、ダンテを絡ませ、ジョイスの文学の特質と意味を描き出す。その語りのなかには、例えば「あたかも重ね合わせたハムサンドを観照するような」とかいった楽しくなるような表現がある。訳のせいもあるのだろうが、独自の表現をはさみながら、割と婉曲したような言い回しでありながら、断定があるといった文章になっている。
ヴィーコの歴史哲学が面白そうだ。歴史を「個人」のみにも運命などの「超個人」のみにも見ず、その双方の働きで見る態度は現在の社会心理学とか社会行動学とかの先取りなのではないかと思ったりもした。
ダンテの「浄界」の円錐構造とジョイスの「最高地点」なき「球形」構造の比較や、何かを語るのではなく表現態そのものがなにかであるとする内容と形式の一致をめぐるジョイス作品への言及は、ベケット本人の価値観や志向を同時に語っている。
刺激的なところが、そして語り口が、心地いいエッセイだった。