パオと高床

あこがれの移動と定住

金両基監修『韓国の歴史』(河出書房新社)

2007-05-12 10:21:46 | 海外・エッセイ・評論
この「ふくろうの本」シリーズはとても役に立つ。写真、図版が豊富で、その国の歴史が手際よく整理されている。それでいて、監修者、編者の意向というか主張のようなものが、ところどころににじみ出していて、面白さもある。頭が整理できながら、その国の歴史をたのしむ(?)ことが出来るのである。表紙裏のスペースの使い方も年譜や地図で有効に生かされている。
今回は韓国ドラマ『朱蒙』が始まって、古朝鮮から高句麗建国あたりの流れがわからないので、この本を読んでみた。檀君神話から古朝鮮、高句麗建国、三韓時代、三国時代の概観が整理できた。その後の新羅と唐による半島統一、その新羅と唐の戦いなど、北から半島へと降りてくる朝鮮半島の歴史が、中国との緊張関係で展開されていることが感じられた。
韓国では歴史ドラマがブームらしい。日本でも『大長今』『ホジュン』『商道』といったドラマが放送され、それぞれ面白い。これらに『李舜臣』なども加えた朝鮮王朝時代のものから最近は、高句麗、百済の古代ものが盛んになっていると聞いた。好太王のドラマ化、白村江の戦いの頃の唐と半島を描いたドラマとかもある。
世界的にグローバリゼーションの一方で国家の根っこ探しが始まっているような気もなんとなくする。それが、間違った方向に進まないといいのだけれど。どうも、僕らの国は危ういかな。


I・ブルマ、A・マルガリート『反西洋思想』堀田江理訳(新潮新書)

2007-02-04 15:19:48 | 海外・エッセイ・評論
この本の原題は「Occidentalism : the West in the eyes of its enemies」というらしい。「オクシデンタリズム:敵対者の眼差しの中の西洋」とか、あるいは「敵対者の目に映る西洋」とでもいうのだろうか。『反西洋思想』という訳題が付けられている。原題の方がイメージ通りかも。

筆者は序章の中でオクシデンタリズムを「「敵」によって描かれる非人間的な西洋像のこと」を呼ぶと書いている。現在ある恐怖の抗争、紛争の中に反西洋、西洋憎悪の根底があるとして、それを歴史的にも考察していく一冊だ。では、その西洋とは何なのかが読後まで曖昧に残ってしまう。ところが、それは一方では、いわゆる地理的西洋に止まらないという筆者の思考と一致しているのだ。つまり、西洋憎悪としながらも、射程は西洋のみではなく、憎悪が核に置かれる思想が権力と結びつくことでの悲劇的な状況に及んでいるのだ。
しかし、当然西洋の定義はある。「西洋すなわち世界の自由民主主義国家」と筆者は書く。そして、「我々の問題は、いかにして西洋すなわち自由民主主義国家という思想を、その敵から守るかである」と続けている。この「西洋」はアジアの未だ脆弱な民主主義国家も入る。さらに地理的西洋でありながらも、その国家が内部に抱えこむオクシデンタリズムも批判される。「西洋」だから「自由民主主義国家」だというわけではないのだ。むしろ「西洋」の思想の中に、それを受容することで生み出される「西洋嫌悪」=オクシデンタリズムがあると分析される。それが、様々な地域で様々な様相で対立構造を生み出していく。
ナチズム、毛沢東思想、クメール・ルージュ、イスラム原理主義。そこでは、悪や堕落の中にいるものと規定されたものへの「清浄」という攻撃が仕掛けられる。自由と平等を求めるものへの自由と平等の名の下の粛正とも言える大量破壊が実行される。行為者は歴史の中での自らの意味を見いだし、英雄的な死を受け入れる。微温的で非英雄的な日常は、まるで唾棄されるように脅かされる。
人が、人々が、社会がそれぞれの価値を共存させる状況にたいして、思想の衝突を敵対関係にしていく衝動、そして衝動を破壊行為に進める権力の危機をこの本は問うていく。

西洋をそのまま西洋と読むと、どうしても違和を感じてしまう。だが、筆者の批判の中心と分析の方向は西洋礼賛ではないのだ。西洋や東洋という対立軸の存在。その主体の置き場所によって、同じ言葉が対象を異ならせていき、価値の絶対化が他所の存在理由を剥奪しようとする。これは、どこにでもある、どこにでもおこる現象なのである。自らが、その行為によって何を脅かしているのかを自覚しない限りは。
「敵意が向けられる矛先」として考えられる対象を「都市」「西洋的考え」「ブルジョア階級」「不信心者たち」として章構成をしている。「ブルジョア階級」を扱った第2章「英雄と商人」が面白かった。
西洋中心主義的と批判を受ける一冊かもしれないが、西洋のもたらした近代と現在のグローバルという言葉のくくりの問題点もすかし見えるような気がした。



エラスムス『平和の訴え』箕輪三郎訳(岩波文庫)

2006-12-11 02:16:06 | 海外・エッセイ・評論
宗教改革の時期になるのか。キリスト教が争っていく。内部的にも、教会の問題やキリスト教自体の宗派の問題、そしてヨーロッパの国家成立をめぐる争い。その中で、ひたすら、戦争の不毛性と罪悪を説く。
この訳文からも感じられる筆致の速さとひたむきな熱意は、活字が弁舌の場所に立っていることを証明する。1517年頃の著作だが、何故、平和を説いた神の教えを守るべきキリスト教徒が戦争を行うのかと指弾していく。まさに某超大国の某大統領などに聞かせたい言葉である。
シンプルである。戦争は悪なのだという一点がぶれない。キリスト教中心主義の問題は確かに顔を出す。それは世界規模の問題なのかもしれない。大航海時代直後の時代背景はあると思う。しかし、どこの世界宗教に殺戮を容認する神がいるというのだろう。人間の想像力はあらゆる方便を準備するのかもしれない。だが、そのときにそれを躓かせる単純な真理というのがあってもいいのではないだろうか。平和のための戦争なんてあるはずがないのだ。
「いたるところ諸国民によって締め出され棄てしりぞけられた平和の神の嘆きの訴え」という形を借りて綴られた文章は、異邦人への文脈を除けば、あるべき姿を呈示している。
エラスムスは1466年か69年(67年という記述も見た)オランダ生まれ。パリに留学、ロンドン、ルーヴァン、ヴェネツィア、ローマ、バーゼルと遍歴。その間、トーマス・モアと親交を結び、宗教改革の寵児ルターと確執論争があったりしているらしい。1536年没。