韓国人の母、フランス人の父を持つ今年31歳になるスイス在住作家のデビュー作。
舞台は韓国の北朝鮮との国境の町ソクチョ。
ソクチョというと「冬のソナタ」を撮ったユン・ソクホ監督の四季シリーズ「秋の童話」を思い浮かべる。
あのドラマ、子供時代の風景が美しかった。
ただ、小説は冬。寒さが厳しい。
主人公は作者と同じように韓国人の母とフランス人の父を持つ。ソウルの大学に通っていたのだが、
今は、この町の小さな旅館で働いている。そこに、フランス人のバンド・デシネ作家がやって来る。
バンド・デシネはフランスの漫画と解説されている。
その作家ヤン・ケランは、最終巻になる第10巻の着想を得るためにソクチョに滞在する。
主人公は彼に興味を持ちながら、彼のスケッチブックを覗き見し、やがて彼と交流していく。
ソクチョの冬の閉ざされた風景とその場所にいる主人公の心の動きを、余韻を含む会話や切なさや鬱屈、
さらにさらりと宿るあやうさなどを織り交ぜながら描き出していく。漂う詩情が心地いい。
自らの作品の中の女性をイメージ付け、描き出そうとするケラン。
自らを物語の中で生かしたいと思いながら、物語のない日々がひたひたと迫ってくるヒロインの心の振幅。
足場とする強固な土壌を持ち得ないのに、そこにいる、その場所が足場になっている中での、
ここではない何処かへの思いとその思いの前でたたずむ姿。それが、読者にやさしく差しだされる。
小説の中で名前を与えられていない主人公は、冬から春へと歩きだすのだろうか。
物語は与え、与えられる関係のの中にある。ケランに着想を与える主人公の「わたし」は、
ケランの作品によって物語を与えられるのだろうか。物語は与えられるものではなく、
そこでもやはり歩み出すことから始まるものなのだろうか。
「自分が本当に言いたいことは、いつまでたっても伝えられないんじゃないかって気になるよ」
とケランは言う。主人公はそれに対して、
「たぶんそれでいいんじゃないかしら」と言い、さらに
「だって、さもなきゃ、あなたは絵を描くことをやめてしまうでしょう?」と続ける。
要約されたり語り終えられたりしないから、小説は続いていくのかもしれない。
そう、「決して終わらない物語さ。何もかもが語られる物語。あらゆるものを含んだ。寓話だね。究極の寓話だ」
へと向けて。