パオと高床

あこがれの移動と定住

ジョン・ディクスン・カー『緑のカプセルの謎』三角和代訳(創元推理文庫)

2020-08-15 09:35:45 | 海外・小説

ほんとうに久しぶりにカーを読んだ。謎解きの探偵小説を味わう。
読むとやっぱり、面白い。
探偵を務めるフェル博士は、数多いる名探偵の中でも選りすぐりの名探偵の一人だ。

あらすじは、文庫の作品紹介を参考にすれば、
「小さな町の菓子店の商品に、毒入りチョコレート・ボンボンがまぜられ、死者が出るという惨事が発生した。」
ということが始まり。
ただ、小説はイタリア、ポンペイでの登場人物たちの暗示的な会話、行動をプロローグにしている。
村の実業家マーカスが、みずからの心理学テストの寸劇のさなかに殺される。
奇抜な着想は、その寸劇つまり殺人現場が、映画撮影機で記録されていたことだ。明白な現場の記録はある。
そこに居合わせた人物たちの目撃証言が重なっていく。ただ、それには心理学的フィルターがかかって、
記憶はそれぞれずれていく。
居合わせた誰が犯人か。そして、トリックは、動機は。
目撃証言の曖昧さをめぐる考えや毒殺への講義を織り交ぜて、小説そのものが犯罪と探偵小説そのものへの
考察にもなっていく。
いまや古典と言われる探偵小説が持つ風格と様式を漂わせる本格もの。この世界はいいな。

2016年に話題をさらったアンソニー・ホロヴィッツの『カササギ殺人事件』は、
古典、特にアガサ・クリスティーへのオマージュに満ちていた。古典的な推理小説を書く作家が主人公で、
彼の小説の中の謎解きと、その彼をめぐる現実の事件をめぐる謎解きという二重の構造が採られ、
入れ子構造の推理小説になっていた。抜群に面白い小説だった。
ただ、いまでは、かつての探偵小説は、こういう小説構造でしか書かれないのだろうと思った。
そうだよな、でも、古典は古典としてあるところが、作品の強みだ。
かつての本格ものに触れたくなれば、その本を手に取ればいいのだ。

訳が新訳になっていて、この文庫は2016年の発行だった。
以前、読んだカーの小説より、読みやすくなっているような気がした。
さまざまな新訳がでると、翻訳についての考え方や、
翻訳の仕方に違いがあるのだということがわかる。
結局、日本語の小説になる、そのなり方の違いなのかもしれない。
読んでいて、かなり余計な負荷がかかるのは、やはりつらい。
古典的な味わいを持ちながら読みやすさを備えている新訳が、最近は多いと思う。
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イ・ギホ『誰にでも親切な教会のお兄さんカン・ミノ』斎藤真理子訳(亜紀書房2020年2月4日)

2020-06-10 01:45:39 | 海外・小説

イ・ギホ、面白い。
タイトルに名前が入った7つの短編が収められている一冊。
それぞれの名前は、ほんとうにごく一般的な名前。あえて、そうしているようだ。

冒頭「チェ・ミジンはどこへ」は、自身の小説がネット古書店で販売された作家「イ・ギホ」の話。
自身の小説が、ネット古書店で、トンデモ本しかも格安、さらに五冊買ったときのおまけにされた「僕」は、その出品者に会いに行く。
そこでは語られない物語が想像される。自分が侮辱されたと思って出品者に会いに行く心に宿る敵意。だが、出品された本にはサイン会
のときに書いた「チェ・ミジンへ」というサインがある。「チェ・ミジン」とは、出品者のいなくなった彼女であって、そのサインの中身
のなさが、実は彼を傷つけていて。
そこには他者の物語があるのに、「僕」は僕の侮辱されたという思いだけで行動していた。
その思いとは、相手に仕返すという気持だけではないかと「僕」は考える。「僕」の屈辱は晴らされなければならない屈辱であり、
相手の事情は想像力の外にある。いま、現実を普通に生きる僕たちが普通に感じる、その普通。
それは何なのだろう。そして、自然のように感じあうことの持つ些細な怖さや違和に小説は触れる。
どこか、自分の思いとずれたときに感じる「ぼんやりとした輪郭」。そこに普通の日々の感覚の自然な怖さやお互いがもつ恥ずかしさ、
そして痛み、それがユーモアを湛えて描かれていく。

周囲の善意が真実の問題点を隠してしまうから、周囲の善意を拒むクォン・スンチャン。
周囲は自分たちの善意が拒まれたことで、むしろ彼への糾弾に向かう。その勝手さをやわらかく問う「クォン・スンチャンと善良な人々」。
解説にもあるが、ここには「セウォル号事件」が、影を落としていて、作家の「僕」は筆を起こすことが出来ないでいる。
だが、お金をだまし取られ、だまし取った相手が住むマンションの前で座り込みをしているクォン・スンチャンを、その街の人々と募金で助け
ようとすることで「僕」は生活に活力を取り戻していく。
ところが、彼は街の人々の募金を受け取らない。
彼は奪い取った相手からお金を返してもらわなければならないのであって、他の人からの募金で事柄をなしにすることではないからだ。
だが、周囲は拒まれた善意によって、むしろ彼への糾弾に向かう。これも実は日常的にある光景であり、心的な状況を捉えている。
善意のおしつけという問題だけではない。そもそも善意とは何か。それがもたらす悪意や敵意との交換性は何なのか。
クォン・スンチャンに迫る意識は、どうして私たちの善意がわからないのという脅迫であり、自分たちの正当性への過信あるいは
無理やりの正当化であって、それが事態を覆い隠し、悪への補填になってしまう怖さである。

表題作では一番問題になる出来事は語られない。読者の想像に任されている。
ただ、「誰にでも親切な」カン・ミノが、本人も忘れてしまうような親切によって、実は相手を深く傷つけていることが描かれている。
イスラム教徒になる主人公の女性とその女性に身勝手な親切を行い、しかもそれを忘却している男の自己完結とのずれ。
そこには、暴力に変わってしまう親切が、親切という名の暴力が、ある。ただ、あったであろうエピソードは書かれていない。
むしろそれはあまりにも汎用性が高い、あらゆる日常的な物語なのかもしれない。

ユーモアの感覚を持ちながら、韓国の現在を問い、ずれやぼんやりとした輪郭の先にあるものを見つめようとする作家イ・ギホ。
物語つくさない物語は、語られない物語のある現在を想像させる。その想像の持つ共感性が私たちの今を描いている。
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チョン・ソヨン『となりのヨンヒさん』吉川凪訳(集英社 2019年12月20日刊)

2020-04-25 10:52:33 | 海外・小説

2部構成になっていて、1部11篇、2部連作4篇の短編、しかもかなり短い短編(?)が収録された小説集。
全体はSFもしくはSFファンタジーといったテイスト。ただ、今、小説はかなりボーダレスで、特に現代小説は、
SF的要素や推理小説的要素が充溢している。ましてや韓国小説界は、少し前の日本の小説界のように純文学とエン
タメの区別はないようで、立て続けに翻訳される小説は世界基準の文学ジャンル同様、ジャンル境界が溶解している
ように思う。

表紙裏や解説で手際よく各短編が紹介されている。
表紙裏の紹介の一部。
「もしも隣人が異星人だったら? もしも並行世界を行き来できたら?」など。

隣に異星人が住んでいるので、家賃が安くなって借りられたマンションに暮らすスジョンと隣人との交流を描く
表題作「となりのヨンヒさん」。
碁盤の中に宇宙を見ながら宇宙に行くことを夢みる主人公の挫折と夢の継続を描いた「宇宙流」。
朝鮮半島の分断や世界の様々な場所で起こっている内戦などを背景にしたと思われる「帰宅」。この小説では地球と
月の争乱で火星に避難し、生き別れ、母語を喪失した主人公が姉に再会するという状況が描かれている。
未知のウィルスを扱い、今、切々と痛みがくる「最初でないこと」。
「時空間不一致」の「非同時的同時性」を持つ、似ているのに違う世界に入り込んだ主人公の物語「雨上がり」。
この物語の主人公は、違和感の中で存在が希薄化していく。別の世界の中だから、学校の周りの生徒は彼女を記憶できず、
彼女自身の存在も薄れていく。そんな彼女を、同じ経験をした教師が、本来の時空に戻そうと、時空の隙間を探す。
この小説も、様々な同一性への違和や不和が、認知と親和性を求めている現在への寓話として読める。
相手が突然デザートになる「デザート」という小説もある。

それぞれの小説が奇想に貫かれている。
ただ、面白いのは、その奇想からではなく、それがまるで普通な状況として描かれていることであり、
その着想の奇抜さを衒ってないところだ。不思議なはずなのだが、普通に受け入れられるている設定の中で、
夢の大切さやお互いが理解し合うこと、生活をするということのささやかだけれど大切なことが描かれていく。
ほのぼのとしながら切なかったり、どうしようもなさが切実だけれど受容できたり、わからないし理解できないけれど
拒絶には結びつかなかったり。ああ、違和感は違和感としてそこここにありながら、共感は共感として存在していて、
共感や共鳴は同じであることによってのみ生まれるのではないということをふわりと描いてくれる。

小説が描く近未来は、どこかもう現代の枠組みの中に入っているのかもしれない。
結局、小説は今を描くもの、なのかもしれない。奇抜な設定はむしろ現実の異様さを静かに伝えてくれる。

  姉が私に、本当に地球語を一つも覚えていないのかと聞き、私は三日間繰り返し聞いた地球語で、
 ごめんなさいと言った。姉は涙を拭った。(「帰宅」)

  ヨンヒさんとスジョンの間に、宇宙のはるかかなたの炎と南極に揺らめくオーロラと冬に咲く紫がかった
 蓮の花のような熱気が、星くずみたいな光の粒子をばらまいて、一瞬のうちに通り過ぎた。(「となりのヨンヒさん」)
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陸秋槎(りくしゅうさ)『元年春之祭』稲村文吾訳(早川書房2018年9月)

2019-11-29 23:32:34 | 海外・小説

最近、中国の推理小説やSFが流行っている。その華文ミステリ。しかも、歴史もの。
舞台は、2000年以上前の前漢時代の中国、雲夢(うんぼう)澤という現在の湖北省周辺の山の中の村。
祭祀を司った名家、観一族に起こった連続殺人事件を、豪族の娘で巫女への道を歩むことになる於陵葵(おりょうき)が
解決しようとする。
全篇にあふれる古籍の数々。論語、楚辞、詩経、易経などなどが次々に引用され、屈原の謎や、
政治権力と宗教的権威の問題、巫女の宿命や巫女論、はてはいかなる天を祭るかという祭祀論争などを展開しながら、
4年前の事件とそこで起こっていく事件が繋がれていく。
葵と露申という二人の少女の交流と葛藤や謎の解き方、場面展開、歴史的な道具や服装などにアニメ的な要素を積極的に
折りこみながら、本格ミステリになっている。
ミステリは盛られた意匠が面白い。
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ハン・ガン『回復する人間』から「回復する人間」斎藤真理子訳(白水社)

2019-10-12 22:42:00 | 海外・小説

2019年6月発行のハン・ガンの短編集。
その中の表題作。正確には日本語版の表題が「回復する人間」で、原題は違う。
収められた短編は、ハン・ガンのエキスのようで、長編のある部分に特化された感じがする。ハン・ガンの長い小説も凝縮度は高いのだが、
短編はそこだけが描きだされたような印象があって、その凝縮度はさらに高い。ことばが短くなり詩句のようになっていく彼女の文体が、
短編でも心を惹きつける。

長編『少年が来る』では一つの小説の中で各章ごとに、人称が、語る主体が、使い分けられていた。この短編集では、各短編で人称が使い
分けられている。
冒頭の小説「明るくなる前に」は一人称の「私」がウニ姉さんについて書くという構成になっている。その「私」は小説家である。
大江健三郎などの小説になじんだ読者には入りやすい。私小説の構造が物語の構造を作りだしているのだ。

「回復する人間」は「あなた」という二人称で書かれている。
「あなた」を描写していくことが、距離を置きながらも「あなた」への呼びかけのように思える。それは「あなた」を描き、「あなた」に
語りかける作者がいるからだ。読者は、その「あなた」によって、語りかける者にもなり、語りかけられる者にもなる。
そして、その主人公の「あなた」は、和解できないまま一週間前に死んだ姉のことを思っている。姉との関係、姉への思いは心の傷である。
だが、この思いは同時に「忘れる」ということも、もたらす。忘れなければ自身が危ない。忘れるという現象が反射のように訪れる。
これは忘却の持つ治癒の力かもしれない。そんな心の傷を、主人公が負った踝の下の火傷という体の傷の治療と重ねて描いていく。
火傷の感染症は治癒していく。だが、主人公の「あなた」は忘却での治癒を望んでいるのだろうか。
この小説では、「回復する」は、「回復しない」ことを選択することでの延長で考えられている。忘れるのではない回復。傷を負った時間と
等しい時間が回復への時間として必要なのかもしれない。それを忘却するということは、回復の回避なのだろうかと問いかけているようだ。
韓国のドラマでは、別れるときや裏切ったときに「自分のことを許さなくていい、このことを忘れないで」というセリフがよく出てくるが、
この思想や価値観が背景にはあると思う。ただ、これは、普遍性を持つ心的な状況のような気がする。回復するには、回復するために必要な
回復しない時間が必要だと語ることに、痛みを共有化していく時間の重みがある。
それこそが、そのあとに訪れるはずの回復へのかすかな希望なのかもしれない。
ボクらが受けている傷は痛みの先にどのような治癒を見いだせるのだろうか。
痛みを感じようとする、痛みを共有しようとする、その痛みの渦中にとどまろうとする作者のことばの息づかいを感じる。
そして、表現は、それが表現されたときに希望への薄明かりをあらわすのだという作者のことばにかける切望が感じられる。
だから、ハン・ガンの小説は、やってくる。沁みてくる。
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