パオと高床

あこがれの移動と定住

ハン・ガン『すべての、白いものたちの』斎藤真理子訳(河出書房新社2018・12・30)

2019-03-03 19:08:41 | 海外・小説

ハン・ガンの小説は、あっ、エッセイも、どうして、こうも切迫しながらも、そこにある時間の緩やかなやわらぎを
伝えてくれるのだろう。
切実に、切々と、取り返せない過去が、今ここにある現在が、私を蔽えば蔽うほど、私はここから、明日へと、ゆっ
くりと、じわじわと、私を私へと導いていく。

  時々刻々と形を変える透明な断崖の突端で、私たちは前へと進む。生きてきた時間
 の突端で、おののきながら片足を踏み出し、意志の介入する余地を残さず、ためらわ
 ず、もう一方の足を虚空へと踏み出す。  

それが、どこに至るのかはわからないけれど、
それが、どこへ行くのかわからないからこそ、
私には、取り返せない過去があるのだと囁きかえるようだ。だからこそ、そこにあった時間を受け入れながら、まだ
訪れない時へと踏みだす。
囁きは、ことばを残しながら、ことばを大切にしながら、それでも、明日へとことばは消えていく。
だから、ハン・ガンの小説は、進んでいくほどに、ことばが散文脈から詩のようになっていく。削がれていきながら、
消えていきそうになりながら、ことばを慈しむように残していく。
そんな、ことばの流れに、連れ去られる。
この『すべての、白いものたちの』では、すべての、白いものが立ち現れる今、白いものたちの世界に連れて行かれる。

作者である「私」の姉は生まれて2時間で死んだ。母の「しなないでおねがい」の呼びかけもかなわず。「私」は、
姉が生後すぐに死んだから産まれてきたと思う。

  だから、もしもあなたが生きているなら、私が今この生を生きていることは、あっては
 ならない。
  今、私が生きているのなら、あなたが存在してはならないのだ。
  闇と光の間でだけ、あのほの青いすきまでだけ、私たちはやっと顔を合わせることがで
 きる。

と、「私」は綴る。
「私」はワルシャワに来て、しきりに過去がよみがえる。「白い街」ワルシャワ。ヒトラーにより破壊されつくした街。
その街の夥しい死。そして、それを抱えて生きてきた日々。ワルシャワは再生していく。その街に招かれていった「私」は
そこで、よみがえる記憶と共に、姉の気配を感じる。その姉の気配と向き合い、「私」の中に死者を呼び込んで生きていこ
うとする。生活の中に寄り添うように存在する「白いものたち」。街を、夜を、蔽う「白いものたち」。「私」はそれらを
丹念に感じとる、そして、その「白いものたち」と生きていく。

 産着が壽衣(死者の衣装)になった。おくるみがひつぎになった。

そんな時間を、そんな存在を感じながら。

この小説は、小説へとなっていこうとすることばたちで、できている。いかにもの小説的な意匠はない。
ここには、ことばが小説的なものから離れるように置かれている。感性と思索が、そのままここにある。その感性や思索が
まとうべきことばとひとつになってここにある。読者はそんなことばに、そのことばがつくりあげる小説に出会う。

『少年が来る』でも、ハン・ガンは光州事件の死者の声を聴きとろうとしていた。
この本のあとがき「作家の言葉」で、ハン・ガンは書く。

  私の生をあえて姉さん−赤ちゃん−彼女に貸してあげたいなら、何よりも生命につい
 て考えつづけなければならなかった。(中略)私たちの中の、割れることも汚されること
 もない、どうあっても損なわれることのない部分を信じなくてはならなかった−信じよ
 うと努めるしかなかった。

ハン・ガンのことばが響く。静謐で、しみわたるような音色が。

  スティールの弦を弓で曳いたら、甲高い音が響く−悲しい音色が、また不思議な音色が。
 それと同じように、これらの言葉たちで私の心臓をこすったら、何らかの文章は流れ出て
 くるだろう。

流れ出す言葉たちが「白いものたちの」音をたてる。微細であり、はかなげでも、長く響く強靱さを秘めた音が。

クォン・ヨソン『春の宵』から「春の宵」橋本智保訳(書肆侃侃房 2018年5月29日)

2018-07-03 17:47:01 | 海外・小説

原題は『あんにょん、酔っぱらい』という短編集で2016年出版ということである。
作者と切っても切り離せないのが「酒」であり、7編の短編はすべて「酒を飲むひと」が登場する。
と、これは「訳者あとがき」に書かれた作者の紹介である。「酒」を愛する作者と書かれた彼女は、
1965年生まれと略歴にあり、「386」世代にあたる作者。80年代の韓国民主化学生運動の世代である。

この短編集の中の短編が「春の宵」。日本語版の表題作になっている。
何だろう、確実に悲惨なのに、宵のような、春の宵のような雰囲気があり、何だかこの絶望にはそれを悲惨と
語りきってしまえない何か、「せめてもの」とか、「その先だから」といったほのあかりがある。
希望のあかりではない、ただ、絶望にもほのかな色彩があるのであり、そこにこわれ物としての人間の脆弱さと
それでも生を営んでいく日々のしなりが共存するようである。

帯からあらすじを抜くと、「生まれてまもない子どもを別れた夫の家族に奪われ、生きる希望を失った主人公ヨンギョン」。
その彼女はアルコールに依存していく。その彼女が出会ったのがスファン。二人は共に暮らすようになるが、
彼は健康保険に加入していないことなどから治療が遅れ、リウマチ性関節炎を悪化させ、療養所に入院。そしてヨンギョンも
依存症で同じ療養所に入院。「危うい同居」を始める。スファンは、その負い目のような意識から、飲酒に抜け出すヨンギョンを容認する。
そうして、ついにスファンは亡くなってしまうのだが、その時、ヨンギョンは外泊して飲酒し、スファンのことも忘れてしまう。

小説の中で、トルストイの『復活』から引いてきている「分数」の表現がある。
ひとがそれ自体で普通に完璧な存在が分母と分子が同じ状態、つまり1。これが十全の状態なのかもしれない。
で、ヨンギョンは語る。「分子にその人のいい点を置いて、分母に悪い点を置くと、その人の値打ちがわかるというわけよ。
いくら長所が多くても、短所のほうが多ければ、その人の値打ちは1より小さくて、もし逆なら1より大きいのよ」と。

韓国社会の中で、いや、現代社会の中で、ボクらは長所と短所の釣り合いきれない足し算をしているのだろうか。
それとも1からの限りない欠落を生きているのだろうか。
この小説の二人はお互いの欠点を語るお互いを受け入れ合う。欠点の大きさを語るお互いを、それは違うと認め合おうとする。
例え、周りからは救いのない絶望的な状況だと見えていても。
1でなければならない、その理想の状態から剝がされてしまったときに、それは本来の自分ではないとして蓄積された恨がある。
その解消を生の強いモチベーションと考える従来の価値ではない、
現代の、弱々しいが切なく、そこにあるための生きる処方のようなものが、この小説には漂っている。

訳者も書くように『あんにょん、酔っぱらい』という原題の「あんにょん」はこんにちはだろうか、さようならだろうか。
いつも楽しく、「こんにちは」であり、「さようなら」と、そう挨拶してお酒とはつきあいたいものだ。

それにしても韓国の小説は面白い。けれど、どこか強く傷ついたり、欠落したりする人が多い。
もちろん、それがあってこそ、小説だということもいえるのだろうが。

ハン・ガン『ギリシャ語の時間』斎藤真理子訳(晶文社 2017年10月15日)

2018-04-28 11:13:45 | 海外・小説


  あのときは、夢から覚めて目を開けたのではなく、
  夢から覚めると世界が目を閉じたのです。

目を閉じた世界の中で、ゆっくりと、たどたどしく、ふたたび目を開いていく。物理的な目ではなく、
心の目とでもいえばいいのだろうか、ありきたりのいい方になるけれど、心をひらいていく、その瞬間
への物語なのかもしれない。

ハン・ガンの小説を読むのは三作目になる。『菜食主義者』『少年が来る』。いつも驚かされる。そして、
心を持っていかれる。流れるような時間の中で、立ち止まって動けなくなる。だが、小説はそれを読みすす
めるのと同じ速度で、立ち止まったボクをゆっくりと動かしていく。
今回の小説もそうだ。壊れ、失われた状況から、静かに時間が流れ始める。
そこで、小説のことばは、ことばそのものに傷つきながら、それでもことばを慈しみながら、ボクらが
ことばに出会った時を思い出させるように、ことばと再会する、その瞬間を描きだそうとしていくのだ。

  ときどき、不思議に感じませんか。
  私たちの体にまぶたと唇があるということを。
  それが、ときには外から封じられたり
  中から固く閉ざされたりするということを。

だが、それでも語りはじめたことばは相手へと向かおうとする。語りはじめるまでの長い時間を経て。

  ……そこで、私の声が聞こえますか?

袖に書かれた紹介文で、ストーリーの概要を書くと、「ある日突然言葉を話せなくなった女」と「すこし
ずつ視力を失っていく男」の関わりを軸にして小説はすすむ。さまざまな問題が絡み合った中で、女は突
然言葉を失う。発語することが出来なくなる。彼女は、その言葉を取り戻そうと、難解であり、失われた
言語ともいえる古典ギリシャ語を習い始める。そのギリシャ語の講師は、徐々に視力をなくしていく運命
を担っている。彼は自身の視力が薄れていくことを受け入れていきながら、「沈黙」し続ける受講生の彼
女に「関心をよせていく」。そのふたりの「対話」が小説のラスト4分の1ぐらいを占める。
小説のことばはその終盤では一行あけで訳され、短いフレーズがことばを大切にするかのように紡がれていく。
散文でありながら、詩のようでもあり、そして語りかける口調と独り言のような口調がまざりあい、
シナリオのような描写も共存する。
そんな表現が、薄暗がりの中でのふたりの対話を沁みるように表している。
と同時に、この箇所は、20世紀の小説が、ヌーヴォーロマンやアンチロマンの歴史を経て、
獲得してきた表現技法を駆使しているような印象も与える。

小説は、痛みを受けながら、その痛みを突き放さずに抱え込んで生きていかざるを得ない現代人を静謐に描きだす。
その痛みの感覚と静けさが、読者であるボクを包む。不条理で暴力性を帯びた時代を生きる、か細い生。その生が持つ、
脆弱かもしれないけれど確かな感触を感じさせてくれる。

最近の韓国の小説には不条理さへの処方箋を描く小説が多いような気がする。あるいは、そんな小説が好んで訳さ
れているのかもしれない。あっ、それより、ボクが選んでいるのがそんな小説なのかもしれない。

小説のもつ情感や内容に引かれる一方で、この小説には小説や思想の歴史への敬意が散りばめられている。
今を培っていた歴史との対話のように。
たとえば冒頭で引用されるボルヘス。「あとがき」でも指摘されているが、「男」の失明とボルヘス自身の失明が重なる。
また、これも「あとがき」に書かれているが、小説の最後が最初に重なってくる円環構造を匂わせていることでもボルヘス
と重なる。さらに古典ギリシャ語はプラトンの「イデア」と関わり、小説の中で「暗闇にはイデアがない」といった魅力的
なフレーズが出てくる。などなど。

また、表現にも、先ほど書いた以外に、文学の歴史の中で獲得されてきた表現がある。
『少年が来る』でいくつかの一人称を描きわけたように、この小説では、人称を「彼」「彼女」「僕」「私」「君」「男」「女」
と使いわけていく。これが多少の難解さを生みだしているかもしれない。
だが、これは、相手との関わりの中でお互いにとって相手が誰なのか、この相手にとって自分が誰なのかを表す大切な使いわけである。
世界のただ中にあって、人が関わり合いの中で共存していくことを探っているこの小説の思考を示す大切な描きわけなのだ。
この表現にも、小説が獲得した表現への作者の果敢な挑戦と、その表現を選び取った必然があると思う。しかも、読みすすめるうちに、
どこかで、この人称わけを正確に理解しなくてもいいような気もしてくる。むしろ、これが誰なのかを考えるよりも、そこにあることば
の持つ佇まいに魅了されていくのだ。
翻訳は結構たいへんだったのではと思うけれど、いい訳に違いないと思う。

「訳者あとがき」でも書かれているので、その引用のようにもなるが、「和解できない」世界の中で、和解できなさに留まるのではなく、
また、力による「和解」をはかるのではなく、「和解できない」ままの共存を図る。こんな、困難でありながら、解決できないものであ
りながらも、存在を認め合う状態。それを文学は模索する。むしろ、日常的にボクらはそうやって生活していくのではないだろうか。
それが亀裂を起こしたり、崩れたりするからこそ、そこにまた立ち至る。小説は、それに気づかせてくれる。
そして、また、失ったものを取り戻すのではなく、失ったあとを生きることで始められる生。
その困難と、だが、そうやっていく痛みを抱える生を小説は描きだしているように思う。

古典ギリシャ語の「中動態」って面白いな。それ自体が能動でありながら受動である表現とでも言ったらいいのだろうか。
うーん、例えば、「自然」にボクらは働きかける。そのこと自体がすでに「自然」によってボクらが働きかけられている状態まで表す。
ふーむ。僕たちは自然を破壊する(能動態)=自然は僕たちによって破壊される(受動態)
=僕たちは自然を破壊する。自然は破壊される。破壊した自然が僕たちを破壊する(中動態はここまで含めるのか)。ふーむ。

ファン・ジョンウン『誰でもない』斎藤真理子訳(晶文社)

2018-03-17 02:33:32 | 海外・小説

ボクらの今に漂っている不安が小説から滲みでてくる。
だが、それは湿気を帯びたものではない。最近の韓国の小説でよく感じられるように、過剰な重さは取り払われているのだが、
それがむしろ現在のボクらの存在の重量と呼応するようで不安と危機を醸し出す。
クンデラの『存在の耐えられない軽さ』ではないのだが。そう、あの小説の時代よりもさらに実存は軽くなっているのかも知れない。
かけがえのなさと無名性が背中合わせであるような。かけがえがないと語りながら一方では、それを語らずにはいられないほどの
交換可能性のなかに存在が置き離されている。その現在を小説は捉え、魅力的な小説世界を描きだしている。

「誰でもない」というフレーズが韓国語では「何でもない」とよく間違われると作者は日本の読者へのあとがきで書いている。
それは同時に「何でもない人」として扱われる瞬間の連続であると彼女は言い、この短編集の扉にも「人はしばしば〈誰でもない〉を
〈何でもない〉と読み違える」と書かれている。ここから、小説は、私のようなあなた、あなたのような私を描きだしていく。
だが、その「ような」の中に、どんなに近似的であっても代えられるものではないという願いがあるのかも知れない。だからこそ、
小説は同時代の空気の中にいるボクらの気分の、ボクらの状況の普遍性を獲得している。

マンションの近隣の騒音に悩まされ、弱い立場にある者が、現実の中でこころの バランスを崩しながら、いつのまにか騒音の主体に
なっていく姿を密度のある描写とチェーホフ的な「喜劇」性で描く「誰が」。

韓国の97年の通貨危機を、ヨーロッパを旅行している夫婦の危機と絡めて描き、危機の瞬間のラストへと見事に持っていく
「誰も行ったことがない」。

「唐辛子畑に唐辛子を摘みに行こうと言われ、行くと答えた」と書き始められる冒頭の小説「上京」。
この小説は、田舎に唐辛子摘みに行く私とオジェとオジェの母と、田舎の老婦人たちの関わりを、人手のない農村と都会のよるべなさとを
絡めて描いている。エピソードもふくめ独特のテイストがある小説だ。

ファン・ジョンウン。1976年ソウル生まれの作家で、「現在、最も期待される作家」と紹介されているが、
作者の名前を覚えておこうと思わせる小説だった。

カルロス・バルマセーダ『ブエノスアイレス食堂』柳原孝敦訳(白水社)

2018-03-14 11:53:21 | 海外・小説

怖ろしい小説だった。
いきなり、冒頭1章でやられる。書き出しだから書けば、
「セサル・ロンブローソが人間の肉をはじめて口にしたのは、生後七ヶ月のころのことだった」と始まる。
この1章で読みやめるかどうか。読みすすめていけば、読書の快楽が待っている。
そして、悪夢はその後数章のあいだは訪れず、小説終盤三分の一ぐらいからやってくる。ノワールはノワールぶりを発揮する。
といっても、この小説、「ブエノスアイレス食堂」の開店からの変遷をアルゼンチンの歴史と絡めて描いていく小説なのだ。
移民の双子の兄弟が1911年に開店した食堂は第一次世界大戦やアルゼンチンの軍事政権の中で栄枯盛衰を繰り返す。その中で
それぞれの料理人が食堂を引き継いでいく。そして、最後にセサルが現れるのだ。
この食堂には双子の兄弟が執筆した『南海の料理指南書』が受け継がれている。その料理の記述のおいしそうなこと。
これはどんな味なのだろうと、ワクワクさせる。だが、この食堂の料理人たちは運命に翻弄されていく。
そして、極めつけの恐ろしさへと突きすすんでいくことになるのだ。

面白いのは、小説が時系列に沿って描かれていない点で、各章ごとに時間が入り乱れている。
様々な食堂の歴史と食堂に関わった人々のいきさつが、幾層にも重なって、厚みや神話性のようなものを感じさせる。
各章は長くても10ページほど短ければ2ページほどで出来上がっている。描写は淡々として客観性があり、それが読む快さと
読みすすめる速度を促し、また、何ともいえない不安感のようなものを醸し出している。訳もいいのだろうな、きっと。

宮沢賢治の「注文の多い料理店」が、スケールの大きな時間軸を持ち、南米的な運命の因果関係でつながれていけば、
こういった小説になるのかも知れない。それに、人間の複雑な深層心理と食すために在りつづける飢えの根源への思考が入りこみ、
殺意の暗がりを抱え込めば、こうなるのかな。こうなってしまえば、もちろん、全く別ものなのだが。

知人から、ちょっといわくありげに、躊躇いがちにすすめられて、読んだ小説。小説を読む醍醐味を味わった。
ただ、個性を持った小説だからこその、読者を選ぶ小説なのかも知れない。