パオと高床

あこがれの移動と定住

ことばと音3

2004-11-28 22:53:16 | 雑感
ちょっとまとめてしまおう。気になっちゃって。

言葉とは形式を通した意味と音の結合である。それは全くその通りである。だが、問題は「言葉とは」と、言ったときの言葉の在りようである。

例えば、万葉仮名を思ったりする。もちろん何でも漢字を充てればいいと言うのではないが、漢字づらの意味作用は後退して、和音に漢字が充てられていく。確かに助詞には文脈での単語のつなぎからくる働き以外に意味性はないから音をあてれば表記できる。ただ、仮名文字以前に音言語が文字に移しかえられた時の姿は想像できるだろう。が、それでも、音が特定の集団の特定の場で共有できていた場合において、経験の共有からくる音の統一性は保持されたと考えられるのではないだろうか。しかし、それが多くの場所と時間を持ったとき音の経験は幅を持ちだしてしまう。すでに書かれた文字に幅が生まれると思うのだ。
 
漢字の面白さがある。漢字は文字づらの意味は共有できるのである。表意文字の伝達性は強い。だが、音に幅があるのだ。中国音でも呉音とかいろいろあり、朝鮮半島にいけばまた変わり、日本でも変化する。「島」が「タオ」だったり「ド」だったり「トウ」だったりというように。すると音は枠や境界になる。ただ、類推できる似方をしているものも多い。「島」の音も発音のずれであり、切り離されたものではない。

また他に、謡曲の本を思ったりする。そこに書かれているのは上がり、下がり、同音程の維持などの記号である。あとは、口伝される。つまり音程や強弱の幅は共同体に囲い込まれるのである。案外こういったものは多い。雅楽の本なども記号が表記されているようだが、楽器になると、その楽器の持つオクターブや音はある程度決まっているので、道具的制約が幅をかなり固定させるとは思う。
 
そして、世界は広がった。昔も今も世界は広いのだが、広さが狭く意識されるのが現在の世界である。つまり、未知の広がりが許されないのだ。そこで、書き言葉と聞き言葉(?)のずれが問題になるのかもしれない。というより、記述が宿命的に持ってしまったずれなのだろう。
 
では、そうやって記述が獲得したのは永遠性か。

ここまできて気づいたことがある。
音読み訓読みの問題があった。「島」についてのボクの勘違いがそこにある。島をタオやドやトウと呼んだのは「島」という文字の伝来時の環境での聞き取りの結果生まれた差異かもしれない。漢音経由か呉音経由かで違う音というのはかなりあるようだ。丸谷才一が『輝く日の宮』で芭蕉の『奥の細道』の漢字読みについて蘊蓄を語っていた。

一方、韓国や日本にはもともと「島」の概念を表す「ソム」や「しま」という言葉があった。そこに世界言語として「島」という中国語が入り込んできた。日本はそれを「トウ」という中国音として受け入れながら、同時にその字を「しま」とした。音と訓の共存。
韓国は「島」は「ド」にし、島概念を表す「ソム」は「ソム」として残した。外来語と在来語の関係である。

つまり世界帝国の中国の表意文字の強さと表記による言語系分別の結果である。

西洋言語学では言語の分別は表記によるものらしい。だから、例えばスペイン語とポルトガル語は音は似ているが表記が別だと言うことで方言の関係ではなく別言語とする。
中国語は北と南ではほとんど音は違う。だが、表記が共通であるため広東語と北京語は方言の関係になっている。語順でもモンゴル、韓国、日本は同じ語順であるが、中国語はむしろヨーロッパ語語順である。しかし、親縁性は東アジア言語圏になる。

朝日新聞で井上ひさしが音の統一は国の統一政策であるといい、音の多様性と方言の存続を求めていた。考えてみると、音とは個や小さな集団が島宇宙的に存在するための強固なアイデンティティなのかもしれない。権力や圧力に対抗するのは垂直に立つ発語の力なのだろう。