小田実でも死んでしまうんだと、漠然と思った。何だか、この人はずっと生き続けるような印象があった。と、言っても、ボクはこの人の文章は知らないできた。名前と活動だけがあったのだ。
この文章を読んで、ボクらがいつのまにか考えるときのベースにしていたものが、実はこうして準備されていたのだということを知った。
「戦勝国ナショナリズム」「戦敗国ナショナリズム」「新興国ナショナリズム」というナショナリズムの腑分けが書かれている。ここには、今、あえて、ひとまとめにして、相手や国民に「愛国」のナショナリズムを強要しようとする態度への予見と批判がある。おそらく、「戦敗国」でありつづけることが嫌な人たちは、ナショナリズムを単一的で正当性のみに裏打ちされた強国みたいなものにしたがっているのだろう。
さらに、小田実は「戦敗国ナショナリズム」の柱の一つを「平和主義」だと書く。しかも、他の国が「武器を持つ平和主義」なのに対して、日本は「軍事的配慮」を持たない国という「非軍事の思想」という特異点を持つと指摘する。そして、世界のナショナリズムの流行は、この「戦敗国ナショナリズム」を「置き去り」にしていくだろうと見とおす。
「散華」と「難死」という言葉を使って死の意味づけの逆転を図る。これは最近読んだ『反西洋思想』の中の、テロリストの英雄行為的死と死の意味づけに対する民主主義的死のありきたりが持つ価値といった記述を思い出させた。
「散華」の美学的なありかたに、人の死のもつ「難死」としての現実性を対峙させ、「難死」の中にむしろ、市民の、人々の生活の刻印があることに価値を見いだし、民主主義の根幹を語る。「短編小説的方法」ではなく「長編小説の方法」をとって、日常的な長い時間の中におくことで「散華」を「難死」と衝突させ、「難死」の増大を生み出したいと語る姿は、その意味合いは違うのかも知れないが、中野重治の「歌のわかれ」と転向時の「いさぎよさ」を拒絶する態度を連想した。
「大状況・小状況」といった言葉をよく聞いたが、小田実は「公状況・私状況」という二項をおき、戦後民主主義を「私状況」優先への転回と説く。同時に、それが抱えた問題も指摘しながら、それでも、「公状況」の強制からの価値転換を積極的に評価している。しかも、やっと獲得できた「私状況」優先の原理が、冷戦構造のなかでふたたび「公状況」の力の回復にさらされていると分析し、その別因として、「私状況」優先での若者の堕落を叫ぶ旧世代の声や「公状況」の強制の怖さを知らない若い世代の「倦怠と危機感」があると指摘する。まるで、そのまま、今の状況に似ている。継続的に浸透している現状である。倫理感、道徳心のなさを叫び、教育の改変に結びつけ、戦後民主主義をまるで旧体制のように語り、より旧体制への回帰で超克を果たせると思っている、どこかで見た風景。「公」という言葉の横行。それに自らの生き甲斐や価値を結びつけることで、生存の飢餓感、欠乏感を埋め合わせようとする反射が対応すれば世論は一方にぶれるだろう。
小田実の文章は、それに続く意見の連鎖を生み出す性質を持っているのかも知れない。対立する言葉をおいて、その相互の問題点を指摘しながら、問題や分析の項目をたてていく。そして、どういった対処があったのかを例証しながら、現状と未来への展望を語る。自然、対立するものはぶれながら、動き続ける。ここに、活動と議論が生まれる。躍動する思想とは、火種の性格をもつものなのかもしれない。
この文章を読んで、ボクらがいつのまにか考えるときのベースにしていたものが、実はこうして準備されていたのだということを知った。
「戦勝国ナショナリズム」「戦敗国ナショナリズム」「新興国ナショナリズム」というナショナリズムの腑分けが書かれている。ここには、今、あえて、ひとまとめにして、相手や国民に「愛国」のナショナリズムを強要しようとする態度への予見と批判がある。おそらく、「戦敗国」でありつづけることが嫌な人たちは、ナショナリズムを単一的で正当性のみに裏打ちされた強国みたいなものにしたがっているのだろう。
さらに、小田実は「戦敗国ナショナリズム」の柱の一つを「平和主義」だと書く。しかも、他の国が「武器を持つ平和主義」なのに対して、日本は「軍事的配慮」を持たない国という「非軍事の思想」という特異点を持つと指摘する。そして、世界のナショナリズムの流行は、この「戦敗国ナショナリズム」を「置き去り」にしていくだろうと見とおす。
「散華」と「難死」という言葉を使って死の意味づけの逆転を図る。これは最近読んだ『反西洋思想』の中の、テロリストの英雄行為的死と死の意味づけに対する民主主義的死のありきたりが持つ価値といった記述を思い出させた。
「散華」の美学的なありかたに、人の死のもつ「難死」としての現実性を対峙させ、「難死」の中にむしろ、市民の、人々の生活の刻印があることに価値を見いだし、民主主義の根幹を語る。「短編小説的方法」ではなく「長編小説の方法」をとって、日常的な長い時間の中におくことで「散華」を「難死」と衝突させ、「難死」の増大を生み出したいと語る姿は、その意味合いは違うのかも知れないが、中野重治の「歌のわかれ」と転向時の「いさぎよさ」を拒絶する態度を連想した。
「大状況・小状況」といった言葉をよく聞いたが、小田実は「公状況・私状況」という二項をおき、戦後民主主義を「私状況」優先への転回と説く。同時に、それが抱えた問題も指摘しながら、それでも、「公状況」の強制からの価値転換を積極的に評価している。しかも、やっと獲得できた「私状況」優先の原理が、冷戦構造のなかでふたたび「公状況」の力の回復にさらされていると分析し、その別因として、「私状況」優先での若者の堕落を叫ぶ旧世代の声や「公状況」の強制の怖さを知らない若い世代の「倦怠と危機感」があると指摘する。まるで、そのまま、今の状況に似ている。継続的に浸透している現状である。倫理感、道徳心のなさを叫び、教育の改変に結びつけ、戦後民主主義をまるで旧体制のように語り、より旧体制への回帰で超克を果たせると思っている、どこかで見た風景。「公」という言葉の横行。それに自らの生き甲斐や価値を結びつけることで、生存の飢餓感、欠乏感を埋め合わせようとする反射が対応すれば世論は一方にぶれるだろう。
小田実の文章は、それに続く意見の連鎖を生み出す性質を持っているのかも知れない。対立する言葉をおいて、その相互の問題点を指摘しながら、問題や分析の項目をたてていく。そして、どういった対処があったのかを例証しながら、現状と未来への展望を語る。自然、対立するものはぶれながら、動き続ける。ここに、活動と議論が生まれる。躍動する思想とは、火種の性格をもつものなのかもしれない。