池澤夏樹の個人編集による河出書房新社の『世界文学全集』の内容案内を見ていたら、サガンの『悲しみよ こんにちは』が収録されていた。かなり以前、ベストセラーになったときは、なんか妙に反発して、そのまま読まずにいたのだが、突然読んでみた。
1954年の作品で、作者自身、サルトルが好きと言っていたとあとがきにもあるように、ある時代の精神の有り様が見てとれる。秩序や完璧さへの反発。虚無的な感じと享楽的なものの混在。理知的な分析と湿り気のない情緒。実感や実体に出会うまでの距離。これらが南仏の太陽のきらめきと海岸の風景の中に描き出される。何か、時代的なものへの葛藤も感じられた。と同時に、時代性ではなく、普遍的な若さの持つ残酷さと痛々しさと繊細さなのかもしれない。
ラストの方の、「観念的実在物」ではなく「生きた、感じやすい人間」として他者に出会ってしまう場面は、他人の顔をどうやって想像できるかの実感の問題を孕んでいる。それは、とりもなおさず、自己の残酷さの結果、責務と罪を背負ってしまう瞬間でもあるのだ。
題名にもなり、冒頭に引用されているエリュアールの詩「直接の生命」、この詩のフレーズいいな。
原作の文章を生かそうとしたのだろうが、訳が、ちょっと、つらいかな。
1954年の作品で、作者自身、サルトルが好きと言っていたとあとがきにもあるように、ある時代の精神の有り様が見てとれる。秩序や完璧さへの反発。虚無的な感じと享楽的なものの混在。理知的な分析と湿り気のない情緒。実感や実体に出会うまでの距離。これらが南仏の太陽のきらめきと海岸の風景の中に描き出される。何か、時代的なものへの葛藤も感じられた。と同時に、時代性ではなく、普遍的な若さの持つ残酷さと痛々しさと繊細さなのかもしれない。
ラストの方の、「観念的実在物」ではなく「生きた、感じやすい人間」として他者に出会ってしまう場面は、他人の顔をどうやって想像できるかの実感の問題を孕んでいる。それは、とりもなおさず、自己の残酷さの結果、責務と罪を背負ってしまう瞬間でもあるのだ。
題名にもなり、冒頭に引用されているエリュアールの詩「直接の生命」、この詩のフレーズいいな。
原作の文章を生かそうとしたのだろうが、訳が、ちょっと、つらいかな。