ソ連邦崩壊という衝撃的な出来事からすでに17年が経つ。崩壊の瞬間から、瞬く間に社会主義の限界や無効性が語られ、その一方で逆に再評価する動きが、<主義>から切り離して、マルクスやレーニンその人の思想を検証する立場から起こっているようだ。思想を過去のものにしてしまうのは、案外一瞬のことである。しかし、そこからむしろ、再考の裡にきわだったものが新たに立ち現れるものかもしれない。それが、その人の思想の強さなのかもしれない。もちろん、そのためにはそれを書く現在の著者の力業が必要なのだ。白井聡はその力業で、執拗な読みを展開する。
フロイトとレーニンの親近性に着目した著者は、フロイトによってレーニンの著書『何をなすべきか?』を読み直す。これが、著者の独創なのだと思う。内部において閉ざされてしまった状態では起こりえない革命を、外部の思考によって現実化するというレーニンの発想をフロイトによって検証するといったらいいのだろうか。
しかし、正直、ボクは、ここを読み解くことはできなかった。むしろ、ボクがこの本を読む速度を保ちえたのは、わからないながらも、『国家と革命』の読解の章だった。革命を起こす力をどこに見出していくか。そもそも革命の現実性は、いかなる力によって可能なのか。国家の本来性から、その死滅を引き出す地点を探っていく思考の動向が、しぶとく言及されていく。最終的に「祝祭の時間」ということまで動員して、平行的時間としてではなく一元論的力の流れと置いたレーニンの<力>の思想を、「未来の現在への侵入」として中断・解体の革命の時間へつなげるきわどさが、緊張感を持った著者の論理の綱渡りになっているような気がした。
それにしても、例えば、「ロシア革命の勃発の要因を、第一次世界大戦下という歴史状況を抜きにして語ることはできないことは自明であるが」といったような文章は結構、読みづらい。また、引用箇所の読解が、その箇所だけでは納得しづらい点もあった。もちろんこれは読者の側の問題でもあるのだが。
今、世界は、巨大な資本主義の袋の中にある。その時に、それまでの革命とは違った性質を持ったロシア革命の歩き出しの意味を問うことは重要なのかもしれない。レーニンを「思想史上の事件」と記している裏表紙の言葉が妙に魅力的だ。
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フロイトとレーニンの親近性に着目した著者は、フロイトによってレーニンの著書『何をなすべきか?』を読み直す。これが、著者の独創なのだと思う。内部において閉ざされてしまった状態では起こりえない革命を、外部の思考によって現実化するというレーニンの発想をフロイトによって検証するといったらいいのだろうか。
しかし、正直、ボクは、ここを読み解くことはできなかった。むしろ、ボクがこの本を読む速度を保ちえたのは、わからないながらも、『国家と革命』の読解の章だった。革命を起こす力をどこに見出していくか。そもそも革命の現実性は、いかなる力によって可能なのか。国家の本来性から、その死滅を引き出す地点を探っていく思考の動向が、しぶとく言及されていく。最終的に「祝祭の時間」ということまで動員して、平行的時間としてではなく一元論的力の流れと置いたレーニンの<力>の思想を、「未来の現在への侵入」として中断・解体の革命の時間へつなげるきわどさが、緊張感を持った著者の論理の綱渡りになっているような気がした。
それにしても、例えば、「ロシア革命の勃発の要因を、第一次世界大戦下という歴史状況を抜きにして語ることはできないことは自明であるが」といったような文章は結構、読みづらい。また、引用箇所の読解が、その箇所だけでは納得しづらい点もあった。もちろんこれは読者の側の問題でもあるのだが。
今、世界は、巨大な資本主義の袋の中にある。その時に、それまでの革命とは違った性質を持ったロシア革命の歩き出しの意味を問うことは重要なのかもしれない。レーニンを「思想史上の事件」と記している裏表紙の言葉が妙に魅力的だ。
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