パオと高床

あこがれの移動と定住

多和田葉子『容疑者の夜行列車』(青土社)

2008-03-21 17:02:31 | 国内・小説
書名と装幀に引かれて読んだ。以前読んだ多和田葉子の短い小説は言葉が乱反射するようにぶつかりあいながら、過激に挑発してきたような印象があったが、この小説は、実験性を確保しながら、言葉の鮮度が別の動き方をしているような気がした。激しくはないが、奇妙な空気を宿しながら、新鮮なのだ。
こんな表現がある。
「泣きっ面は蜜色の涙に濡れているから蜂が寄ってきて更に刺す。」言わずと知れた、「泣きっ面に蜂」ということわざの間接はずしである。こんな表現があちこちにある。そんな知的操作をしながら、一方で夢への入り方やミステリアスな雰囲気を醸す文体を確保しているのだ。

真新しくはないが、人称を二人称「あなた」にし、対象として常に見守られる「容疑者」の位置に置く。それ自体が小説を築き上げる対象になるという探求型の設定が活かされる。その「あなた」が夜行列車で出合う人々、出合う出来事は、時間を越えたものであったり、虚実のあわいにあったり、夢に滑り込んだりしているし、たどり着けない目的地という迷宮性を持っていたりもする。13章からなる地名が書かれた各章は、その場所の独自性が刻まれながら、どこか曖昧な匿名性も持っていて、ボクらの日常と拮抗する別の時空をかいま見せる。なにか「罠にはまってはいけない」という囁きが聞こえるような、微妙な陥穽が感じられるのだ。

12章「ボンベイへ」で人称と旅についての記述が入り、解けない謎に解けないままの辻褄が被せられるのだが、それは作家多和田葉子と作品との追いかけっこそのままの関係であり、ボクらが現実の中にあってその現実と想像力とのバランス感覚のブレであるのだと思う。

「わたし」から「あなた」に向かい、「あなた」がその対象に対して投げかける想像力は永遠の追いかけっこなのだ。迷宮性を宿しながら。常に主体の危機を孕みながら。だが、その結果生みだされた創造物は、ボクらをわくわくさせてくれるのだ。