斜に構えるというが、夏目房之介は、その斜度がいい。きっと彼にとって、もっとも対象を見るのに適した斜度があるのだと思う。
夏目漱石へのひと味違った入門書であると同時に、夏目房之介への入門書でもあるのかもしれない。というのも、孫であった著者の、祖父漱石への思いと父への思いが、この本を大きく支えていると同時に、社会的に「漱石の孫」として位置づけられた著者自身の反発と内省そして容認に至る過程が綴られているからだ。
反発を感じていた著者が、年齢と共に漱石を認識、再認していく状態が、漱石のこの国における位置の確かさを証していくといった構造をとっている。まあ、自己本位で、ある種偏狭な漱石が、社会国家意識の中にあって個人の持つ価値と必要をどう思索していったか。個人という意識を持った近代知識人がどんな宿命的なものを抱え込まなければならなかったか。また、彼の小説が、そんな漱石の思索と実生活を彼の嗜好共々にどう表現しているかを、独特の小気味よさと知性と洒脱のバランスで読み解いていく。房之介の文体は、「書」をめぐるエッセイの時とも、マンガを語る語り口とも変わらない。夏目房之介節なのだ。で、随所にマンガが差し挟まれ、例えば、『三四郎』の美禰子に関しては、「僕が美禰子から連想したのは高橋留美子のマンガ『めぞん一刻』(1980~1986年)のヒロイン管理人さんである」といった、妙に納得のいく房之介ならではのマンガ引用があったりするのだ。
ほぼ10数ページで読解していく漱石の各作品については、その作品を読んでいなくても、じゅうぶん楽しめる。これは邪道だろうか。いや、面白い評論、エッセイというのは、その書かれている作品を読んでいなくても案外、結構楽しめるものなのだ。もちろん、読んでいてこそ、より楽しめなくてはいけないのだが。読んでたら返ってつまらないというのもありかも。
で、やはり、そんな中に顔を出すフレーズがよければ、さらに満足なのだ。
例えば、欧州大戦の渦中で、病苦と闘いながら身辺を書いた『硝子戸の中』をめぐる文章の「ただ、当たり前の倫理を論理的に証明するのは、簡単ではないし(というか、ほとんどできない)、逆にそれを疑うことはいくらでもできる。」とか。
または、この『硝子戸の中』についての文章の結びで、「欧州大戦や国家を論ずべき知識人でありながら、それに拮抗する「たたかい」の意味や価値を自分と身の回りに見出す。それが「文学者」としての身のちぢめかたになったのだろう。漱石の句〈菫程な小さき人に生れたし〉の「小ささ」には、世界と拮抗するだけの緊張感があったのだと、今となって僕は思うのである。」といった文章など。
そう、この文章は、漱石が常に対峙した自然主義文学との違いなどを考えると興味深いのかもしれない。
もうひとつ引用すれば、『こころ』について。
「さんざん謎めいたことをいい、そこに先生の謎の過去を感じさせ、たしかに読者もそれを知りたくなる。が、冷静に読んでしまうと〈先生〉なる人物に〈思わせぶりもええ加減にせーよ〉といいたい気にもなる。」と書いたりする。この洒脱。口調がどこか初期の漱石のユーモアのようにも思える。で、続きはこうなる。
「それはともかく〈邪悪にして神聖な恋〉という言葉は、いわば〈神〉や世間の許さざるものにして、しかしなお人間性の真実として神聖であるという意味にとれる。これを先の〈神などの大きな物語を失った知識人〉像にあてはめると。個しかよる根拠のない近代知識人の原罪意識〈神殺しの犯人〉と、人間としての存在証明の〈喩え〉としても読めるのである。」と、引き締まった解読に転換させるのだ。これはそのまま、夏目房之介が指摘するように漱石文学の「多義的な深淵」であり、開かれた作品の持つ力なのだと思う。その漱石の存在感を房之介は敬意を持って感じとり、洞察考察している。
ともかく柔よく剛を制すような、あるいは硬軟使い分けの呼吸の絶妙さを持った本だった。
夏目漱石へのひと味違った入門書であると同時に、夏目房之介への入門書でもあるのかもしれない。というのも、孫であった著者の、祖父漱石への思いと父への思いが、この本を大きく支えていると同時に、社会的に「漱石の孫」として位置づけられた著者自身の反発と内省そして容認に至る過程が綴られているからだ。
反発を感じていた著者が、年齢と共に漱石を認識、再認していく状態が、漱石のこの国における位置の確かさを証していくといった構造をとっている。まあ、自己本位で、ある種偏狭な漱石が、社会国家意識の中にあって個人の持つ価値と必要をどう思索していったか。個人という意識を持った近代知識人がどんな宿命的なものを抱え込まなければならなかったか。また、彼の小説が、そんな漱石の思索と実生活を彼の嗜好共々にどう表現しているかを、独特の小気味よさと知性と洒脱のバランスで読み解いていく。房之介の文体は、「書」をめぐるエッセイの時とも、マンガを語る語り口とも変わらない。夏目房之介節なのだ。で、随所にマンガが差し挟まれ、例えば、『三四郎』の美禰子に関しては、「僕が美禰子から連想したのは高橋留美子のマンガ『めぞん一刻』(1980~1986年)のヒロイン管理人さんである」といった、妙に納得のいく房之介ならではのマンガ引用があったりするのだ。
ほぼ10数ページで読解していく漱石の各作品については、その作品を読んでいなくても、じゅうぶん楽しめる。これは邪道だろうか。いや、面白い評論、エッセイというのは、その書かれている作品を読んでいなくても案外、結構楽しめるものなのだ。もちろん、読んでいてこそ、より楽しめなくてはいけないのだが。読んでたら返ってつまらないというのもありかも。
で、やはり、そんな中に顔を出すフレーズがよければ、さらに満足なのだ。
例えば、欧州大戦の渦中で、病苦と闘いながら身辺を書いた『硝子戸の中』をめぐる文章の「ただ、当たり前の倫理を論理的に証明するのは、簡単ではないし(というか、ほとんどできない)、逆にそれを疑うことはいくらでもできる。」とか。
または、この『硝子戸の中』についての文章の結びで、「欧州大戦や国家を論ずべき知識人でありながら、それに拮抗する「たたかい」の意味や価値を自分と身の回りに見出す。それが「文学者」としての身のちぢめかたになったのだろう。漱石の句〈菫程な小さき人に生れたし〉の「小ささ」には、世界と拮抗するだけの緊張感があったのだと、今となって僕は思うのである。」といった文章など。
そう、この文章は、漱石が常に対峙した自然主義文学との違いなどを考えると興味深いのかもしれない。
もうひとつ引用すれば、『こころ』について。
「さんざん謎めいたことをいい、そこに先生の謎の過去を感じさせ、たしかに読者もそれを知りたくなる。が、冷静に読んでしまうと〈先生〉なる人物に〈思わせぶりもええ加減にせーよ〉といいたい気にもなる。」と書いたりする。この洒脱。口調がどこか初期の漱石のユーモアのようにも思える。で、続きはこうなる。
「それはともかく〈邪悪にして神聖な恋〉という言葉は、いわば〈神〉や世間の許さざるものにして、しかしなお人間性の真実として神聖であるという意味にとれる。これを先の〈神などの大きな物語を失った知識人〉像にあてはめると。個しかよる根拠のない近代知識人の原罪意識〈神殺しの犯人〉と、人間としての存在証明の〈喩え〉としても読めるのである。」と、引き締まった解読に転換させるのだ。これはそのまま、夏目房之介が指摘するように漱石文学の「多義的な深淵」であり、開かれた作品の持つ力なのだと思う。その漱石の存在感を房之介は敬意を持って感じとり、洞察考察している。
ともかく柔よく剛を制すような、あるいは硬軟使い分けの呼吸の絶妙さを持った本だった。