望月苑巳さんの「寄り道式部」は楽しい詩だ。こんな感じで時間を跳べたら楽しいだろうと思える詩だった。当たり前の話だが、深刻な詩や痛い詩があるように、楽しい詩だってあるわけで、まずは、第一連。
御堂関白・道長は男子禁制の部屋に忍び込み
シェイクスピアを読んでいた式部を
後ろから抱きしめて驚かした。
空には水玉模様の月。
月の光にたぶらかされて匂いだした梅。
だましたりだまされたりは男と女の定め。
この一連に、この詩の楽しさは凝縮している。語りは不思議なことを不思議なことに納得させる。道長と式部の時代にシェイクスピアが入り込み、そこに「水玉模様の月」という見たこともないモダンが舞台装置のように配置される。おまけに月光に梅の香り。で、語りの行「だましたりだまされたりは」という口上がくる。
じわりと平安の匂い。
確かに『紫式部日記』には道長がいた。あの日記の空気が、詩に流れているのだ。別に、そんな言葉が記述されているわけではない。だが、現在という時間から見たときに「道長」と「シェイクスピア」と「式部」が、時間の持つ空気を織りなしているのだ。
ここでは、時系列は逆さ遠近法の中に置かれている。つまり、中心に向かって空間が刻まれる遠近法ではなく、今の「私」を視点の中心にして、過去にいくほど立体化され広がる遠近法。僕たちが劇場にいるときに見る舞台かもしれない。だが、そこで視点は像を刻む。「だましたりだまされたりは男と女の定め」はちょうど「だましたりだまされたりは作者と読者の定め」になる。そこで、主導権なんて問うのは無粋だよ。
そうだ、『紫式部日記』には、式部が道長の訪問を拒否した一度が書かれている。ただ、二度目は分かんないし、拒否した一度目が実は、受け入れた何度目かの後だったとしてもおかしくないわけである。で、道長の「忍び込み」は納得できる。というか、あっただろうと思う。すると、この「シェイクスピア」が「式部」の時代を穿っているのだ。つまり、「シェイクスピア」は「村上春樹」でも「井原西鶴」でもよくて、でも、何だか「ドストエフスキー」じゃないなとは思えて…。そうなると「道長」も誰かの喩えであり、「式部」も誰かの喩えであるということも告げているように考えられ、もしかしたら、「村上春樹」を読んでいる「式部」でもよくて、『源氏物語』を読んでいる、高校生の『君』または君でもよくなって、「道長」は「光源氏」でもいいように、恋敵のお前でもよくて、ただ、そんな「喩え」の流れでの置き換えを、「月の光」と「匂いだした梅」が、式部の時代の中に連れ戻している。
こんな一連のあとをどう展開するのか。方法は二つ。時代性の中に行くか、現在性の中に行くか。淡い隙間を狙って言葉は旅に出る。
殿方というものは、なんで手練手管ばかり競い合うのかしら
頬を染めながら、式部はそんな出来事をノートにしるす。
式部の心の声を書きながら、それを「出来事」を「しるす」という語りの口調にしていることで、物語にしている。作者がいる三人称小説の構造を採っている。そして、しるすのは「ノート」になのだ。この「ノート」が過去の歴史の時間を現代に引き寄せる。式部が今の時代の人物になるのだ。詩は現在の時間を選びとる。
少女のころはわざとノートを忘れたものだったわ
だって、英語と算数の授業が嫌いで
頼道さまと、よく教室からエスケープしたもの。
手をつないで百貨店の屋上に上がると
アドバルーンが鯉のぼりに負けまいと泳いでいるので
淋しいくらい青い空が明るくなって
「頼道さま」は、「寄り道」と掛けて、わざと「頼通」ではなく「頼道」にしているのだろうか。もしかして単なる誤植か、それはわからない。『紫式部日記』には頼通について書かれたところもあり、頼通とのエスケープも繋がるのだが、もちろん、道長が父で頼通がその息子なのだから、少女時代にエスケープしたとすると、この当時の三人の年齢が気になるところで、でも、そこに深入りしすぎると詩から逸れていってしまう。それもまた楽しいのだが、終わらなくなってしまう。
で、ここの部分、女口調に擬態した文。独り言口調を書き記し文にしている。それがおかしみを醸し出している。そして、時間は紫式部が少女時代を回想しているのだが、回想している状況は「今」である。「今」の僕たちが少年少女時代を回想している状況であって、「百貨店」や「アドバルーン」という言葉が「昭和」の時代を表している。つまり、少女時代を思いだしている平安の式部が、思いだしているのは昭和の時代であるのだ。もちろん、式部が喩えであれば、別に不思議ではないのだが、「喩え」にしてしまっていないところが、時間の行き来を自在にしていて、楽しい。また、「忘れたものだったわ」の「もの」や「エスケープしたもの」の「もの」が、時の移ろいを滲ませているようにも思える。だから、次の一行一連が差し挟まれる。
それも今は懐かしい少女時代の寄り道式部。
そういえば、よく寄り道していたよなと思いだす。
そんな記憶がたっぷりしみついた
ノートを悲しみのかたちに抱きしめてみる。
夜更けの部屋に
雪の降る音がにじみだしてくる
母さまの匂いがする
大人になってよかったことは何?
母さまと同じかなしみのかたちを
袖に焚き込まなければ
この部屋から出てはいけないの?
冬明かりの机上
権力争いに明け暮れる男の業を筆先に含ませた。
この連は、地の文と心理部分がどちらも書き込まれている。少女時代を思いだしていた式部は、平安の「今」に戻る。
「悲しみのかたちに抱きしめてみる」という句が雰囲気を伝える。それが、「母さまと同じかなしみのかたち」という詩句とつながる。焚きこむ「香」の匂いが部屋から出る条件である。それは出家か、それとも殿方を受け入れて匂い袋を携えることか。「かなしみのかたち」が漂う。雪の降る冬明かりの中、「筆先」が時代と屹立することがさらりと告げられる。
部屋をいくつも寄り道して
ノートの表紙にやんわり「源氏物語」と
したためて閉じる霜月の朝。
ここには詩の物語がある。詩が語る物語がある。閉じられた「源氏物語」にあっただろう式部の物語。それは、「寄り道」をする全ての人の物語に向かって開かれようとしていて、もちろん、物語自体は語られない。何故って、これは詩だから。物語は、ほら、読者である、それぞれのあなたの頭のなかにあるものであって。最終連へ向かっていく。
いつの時代か、誰かがこれを読んで
寄り道は女の勲章だったと判ってくれるはず
そう思うと物語は急転直下、完結した。
兄さまのような風が御簾を叩いている。
-また新しい殿方がいらしたようだわ。
(「寄り道式部」全篇)
一般化と個別化、過去と現在、固有名と匿名性を詩は行き来して終わる。どこか、それぞれの物語と時間を慈しむように。
月、梅、雪、袖、冬明かり、霜月、風、そして、御簾。光と匂いが風に揺れている。「兄さまのような風が御簾を叩いている」音が聞こえる。
御堂関白・道長は男子禁制の部屋に忍び込み
シェイクスピアを読んでいた式部を
後ろから抱きしめて驚かした。
空には水玉模様の月。
月の光にたぶらかされて匂いだした梅。
だましたりだまされたりは男と女の定め。
この一連に、この詩の楽しさは凝縮している。語りは不思議なことを不思議なことに納得させる。道長と式部の時代にシェイクスピアが入り込み、そこに「水玉模様の月」という見たこともないモダンが舞台装置のように配置される。おまけに月光に梅の香り。で、語りの行「だましたりだまされたりは」という口上がくる。
じわりと平安の匂い。
確かに『紫式部日記』には道長がいた。あの日記の空気が、詩に流れているのだ。別に、そんな言葉が記述されているわけではない。だが、現在という時間から見たときに「道長」と「シェイクスピア」と「式部」が、時間の持つ空気を織りなしているのだ。
ここでは、時系列は逆さ遠近法の中に置かれている。つまり、中心に向かって空間が刻まれる遠近法ではなく、今の「私」を視点の中心にして、過去にいくほど立体化され広がる遠近法。僕たちが劇場にいるときに見る舞台かもしれない。だが、そこで視点は像を刻む。「だましたりだまされたりは男と女の定め」はちょうど「だましたりだまされたりは作者と読者の定め」になる。そこで、主導権なんて問うのは無粋だよ。
そうだ、『紫式部日記』には、式部が道長の訪問を拒否した一度が書かれている。ただ、二度目は分かんないし、拒否した一度目が実は、受け入れた何度目かの後だったとしてもおかしくないわけである。で、道長の「忍び込み」は納得できる。というか、あっただろうと思う。すると、この「シェイクスピア」が「式部」の時代を穿っているのだ。つまり、「シェイクスピア」は「村上春樹」でも「井原西鶴」でもよくて、でも、何だか「ドストエフスキー」じゃないなとは思えて…。そうなると「道長」も誰かの喩えであり、「式部」も誰かの喩えであるということも告げているように考えられ、もしかしたら、「村上春樹」を読んでいる「式部」でもよくて、『源氏物語』を読んでいる、高校生の『君』または君でもよくなって、「道長」は「光源氏」でもいいように、恋敵のお前でもよくて、ただ、そんな「喩え」の流れでの置き換えを、「月の光」と「匂いだした梅」が、式部の時代の中に連れ戻している。
こんな一連のあとをどう展開するのか。方法は二つ。時代性の中に行くか、現在性の中に行くか。淡い隙間を狙って言葉は旅に出る。
殿方というものは、なんで手練手管ばかり競い合うのかしら
頬を染めながら、式部はそんな出来事をノートにしるす。
式部の心の声を書きながら、それを「出来事」を「しるす」という語りの口調にしていることで、物語にしている。作者がいる三人称小説の構造を採っている。そして、しるすのは「ノート」になのだ。この「ノート」が過去の歴史の時間を現代に引き寄せる。式部が今の時代の人物になるのだ。詩は現在の時間を選びとる。
少女のころはわざとノートを忘れたものだったわ
だって、英語と算数の授業が嫌いで
頼道さまと、よく教室からエスケープしたもの。
手をつないで百貨店の屋上に上がると
アドバルーンが鯉のぼりに負けまいと泳いでいるので
淋しいくらい青い空が明るくなって
「頼道さま」は、「寄り道」と掛けて、わざと「頼通」ではなく「頼道」にしているのだろうか。もしかして単なる誤植か、それはわからない。『紫式部日記』には頼通について書かれたところもあり、頼通とのエスケープも繋がるのだが、もちろん、道長が父で頼通がその息子なのだから、少女時代にエスケープしたとすると、この当時の三人の年齢が気になるところで、でも、そこに深入りしすぎると詩から逸れていってしまう。それもまた楽しいのだが、終わらなくなってしまう。
で、ここの部分、女口調に擬態した文。独り言口調を書き記し文にしている。それがおかしみを醸し出している。そして、時間は紫式部が少女時代を回想しているのだが、回想している状況は「今」である。「今」の僕たちが少年少女時代を回想している状況であって、「百貨店」や「アドバルーン」という言葉が「昭和」の時代を表している。つまり、少女時代を思いだしている平安の式部が、思いだしているのは昭和の時代であるのだ。もちろん、式部が喩えであれば、別に不思議ではないのだが、「喩え」にしてしまっていないところが、時間の行き来を自在にしていて、楽しい。また、「忘れたものだったわ」の「もの」や「エスケープしたもの」の「もの」が、時の移ろいを滲ませているようにも思える。だから、次の一行一連が差し挟まれる。
それも今は懐かしい少女時代の寄り道式部。
そういえば、よく寄り道していたよなと思いだす。
そんな記憶がたっぷりしみついた
ノートを悲しみのかたちに抱きしめてみる。
夜更けの部屋に
雪の降る音がにじみだしてくる
母さまの匂いがする
大人になってよかったことは何?
母さまと同じかなしみのかたちを
袖に焚き込まなければ
この部屋から出てはいけないの?
冬明かりの机上
権力争いに明け暮れる男の業を筆先に含ませた。
この連は、地の文と心理部分がどちらも書き込まれている。少女時代を思いだしていた式部は、平安の「今」に戻る。
「悲しみのかたちに抱きしめてみる」という句が雰囲気を伝える。それが、「母さまと同じかなしみのかたち」という詩句とつながる。焚きこむ「香」の匂いが部屋から出る条件である。それは出家か、それとも殿方を受け入れて匂い袋を携えることか。「かなしみのかたち」が漂う。雪の降る冬明かりの中、「筆先」が時代と屹立することがさらりと告げられる。
部屋をいくつも寄り道して
ノートの表紙にやんわり「源氏物語」と
したためて閉じる霜月の朝。
ここには詩の物語がある。詩が語る物語がある。閉じられた「源氏物語」にあっただろう式部の物語。それは、「寄り道」をする全ての人の物語に向かって開かれようとしていて、もちろん、物語自体は語られない。何故って、これは詩だから。物語は、ほら、読者である、それぞれのあなたの頭のなかにあるものであって。最終連へ向かっていく。
いつの時代か、誰かがこれを読んで
寄り道は女の勲章だったと判ってくれるはず
そう思うと物語は急転直下、完結した。
兄さまのような風が御簾を叩いている。
-また新しい殿方がいらしたようだわ。
(「寄り道式部」全篇)
一般化と個別化、過去と現在、固有名と匿名性を詩は行き来して終わる。どこか、それぞれの物語と時間を慈しむように。
月、梅、雪、袖、冬明かり、霜月、風、そして、御簾。光と匂いが風に揺れている。「兄さまのような風が御簾を叩いている」音が聞こえる。