パオと高床

あこがれの移動と定住

申京淑(シン・ギョンスク)他『いま、私たちの隣りに誰がいるのか』安宇植(アン・ウシク)訳(作品社)

2013-11-16 12:34:10 | 海外・小説
7篇の短編が収められている韓国現代小説アンソロジー。その中の2篇。

このアンソロジーの表題にもなっていて、日韓の地理的関係を考えるとなかなか意味深な題名の小説、「いま、私たちの隣りに誰がいるのか」。
発行所の「作品社」が紹介している「子をなくした夫婦の断絶と和解」という短文通りの小説である。短編にうねるようなストーリーはいらない。もしかしたら長編にだって不要な場合がある。この小説の面白さは、その予想通りの展開をどうしっとりと捉えるかだ。「なくした子」を幻視する。夫婦揃って、失った子に出会うことで再生を果たす二人を描きだす小説は、胸に迫る。ドラマでもそうだが、韓国の表現活動が示す抒情は、しなやかな強靱さを持っていて、持続性が強いように思う。その抒情性を滲ませながら、小説はすれ違い断絶している二人の気持ちが動いていく過程を描きだす。気配となって現れるなくした子ども。展開次第では、そのままスリラーかホラーになる設定だが、シン・ギョンスクはそれを困難を乗り越える契機にする。
解説で中沢けいが「予定調和」という言葉を遣っていたが、この小説には「予定調和」のもたらす沁みるような情感がある。どこぞの脚本家や小説家が書く「予定調和」という名の「ご都合主義」とは一線を画している。作者は1963年生まれで、『離れ部屋』(集英社)などの日本語訳もある、日本でも知られた韓国の小説家だ。

この小説の次に収録されている小説が、「嬉しや、救世主のおでましだ」。作者は河成蘭(ハ・ソンラン)、1967年生まれ。こちらは、読者を裏切る小説かもしれない。救世主は、どこにおでましするのだろうか? 祝福すべき誕生日の出来事が、その誕生日を破綻させ、クリスマスに破局が訪れる。乾いた抒情が、日常の中に潜む暴力の奇妙な軽さを伝えてくる。中沢けいも指摘しているが、シン・ギョンスクの小説の持つ「予定調和」にひっかき傷を入れる別のタイプの小説。その裂傷にしたたるものは何なのだろうか。現代が持っている欲望の暴力。その暴力に打ちのめされながらそれでも、生きていくということのなかに救済の可能性はあるのかもしれない。共犯性によって維持される仲間がいて、社会がある。小説はそんな共有された欲望社会を暴き出そうとしている。共犯社会では、共犯者同士がお互いの救世主になってしまうのかもしれない、常に被害者を生み出しながら。『6stories』という別の出版社から出ている「現代韓国女性作家短編」というアンソロジーがある。そこに、ハ・ソンランの別の小説が収録されている。その本の訳者は、あとがきでハ・ソンランの「現代的な暮らしの裏面に陰険にとぐろを巻いている下劣な欲望と身の毛のよだつ暴力の影」ということばを引きながら、彼女がそれを暴きたいとしていると書いている。このアンソロジーの訳者も同じアン・ウシクである。
面白いのは、この『6stories』に収録されているハ・ソンランの小説は「隣の家の女」という題名で、シン・キョンスクの小説の逆をいくように、隣りに女が住むことで破綻していく夫婦を描いている。その中で静かに壊れていく「わたし」が、「わたし」の独白で描かれているのだ。

シン・キョンスクとハ・ソンラン。展開と結末は当然真逆なぐらいに違っているが、どちらの小説も、一人称の立場に寄り添った語り口が、疎外を生みだしている。

ふー、久しぶりのブログだー。