坂多さんの詩は、いつも、どこかに連れていってくれる。
連れていかれるのは、とんでもない時空の果てではないのだが、間違いなく、時空の裂け目のとんでもない場所だ。
記憶と今がごっちゃになって、それがそのまま自分と他者とを、かつてと今とに住みつかせる。
そこでは怖さが懐かしさと共にある。そして、怖さはユーモアと併走するし、ファンタジーは残酷さと同伴する。
坂口安吾の「文学のふるさと」が、彼の「ファルスについて」と表裏の硬貨だったように。突き放される孤独は、
いつか受け入れられる孤独の集積を探して、言葉がプリンとこぼれ落ちる。
そこでは、リアルがいつも反リアルで、「反」といっても、カウンターというよりは「汎」に近くて、それが狭隘な
リアルを穿つ。だから、怖愉(こわたの)しい。
どの詩にしようかと悩んでしまう。で、やはり冒頭の詩「魚の家」。
砂場で
砂を
掘っていたら 掘っていたら
砂は
海の匂いをさせて
海の底だった
もう、この冒頭で連れていかれる。どこへ、それはわからない。ただ、「掘っていたら」、「海の底に」連れていかれ
るのだ、しかも「匂い」で。だから砂場はもう、変貌する。砂場は砂場のまま、砂場なのに、海の底なのだ。で、
そこでは
父の
もう
とけてしまった骨の
すきまから
小さな魚が生まれている
うたうように
うめくように
それらは
ひとすじの道をつくっていく
ここで、「父の骨」と「魚」が出会う。時間なんていう観念ではない。堆く埋もれ積まれた地平が泳ぎだすようで、
短い行替えが、むしろ切れずに連続を生んで、「ひとすじの道」をつくる。どこへ。次でまた展開する。
遊んでいた子どもたちが
帰ったあと
あちこちに
砂の家がちらばっていた
くずれかけた階段の下で
尾ひれのない
一匹の魚が空をみている
ここに何を感じるか。何だか置いてけぼりの魚がいる。魚の孤独があるじゃないか。放たれた魚が空を見ている。
「尾ひれのない」魚。もう泳げない魚か。身のくねくねで進む魚もいるのだろうが。進む道筋を持たない迷子のような魚か。
それともヒトの喩としての魚かもしれない。そうして、いるはずの私はどうなるのだろう、どこにいるのだろうと思っていると、
次の連でさらに連れていってくれる。「あたし」は迷って帰りつくのだ。
あたしは
二度も道に迷って
家に帰った
台所では
母が
魚の頭を落としている
あたしは
子どものふりをして
「タダイマ」といった
卓袱台のある
へやに
父の写真が飾ってあり
頭のない魚が行儀よく並んでいた
(「魚の家」全篇)
クスッと笑いながら、ドキッとする。この感じにつかまれる。収束しているようで、むしろ開かれる、
この感じが心地よい。
もう一篇。表題詩「こんなもん」の書き始め。これも引き込まれる。
すると柩がおいてあった
蓋をもちあげてみるとくるんとまるめたような肉のかたまりが入っている
粘土みたいな
発酵状態がいいのか皮膚はとても丈夫そうでつやつやしている
しかしこんなものが家の中にあるのはまずい
まずいものは埋める
(「こんなもん」冒頭6行)
と書き始められる。続きを読みすすめたい、でも、ちょっと立ち止まりたい。そんな気分にさせてくれる。
装幀や文字などといった詩集全体まとめて、創られた世界が魅力的な一冊だった。