パオと高床

あこがれの移動と定住

ことばと音3

2004-10-22 08:37:56 | Weblog
言葉とは形式を通した意味と音の結合である。それは全くその通りである。だが、問題は「言葉とは」と、言ったときの言葉の在りようである。
 例えば、万葉仮名を思ったりする。もちろん何でも漢字を充てればいいと言うのではないが、漢字づらの意味作用は後退して、和音に漢字が充てられていく。確かに助詞には文脈での単語のつなぎからくる働き以外に意味性はないから音をあてれば表記できる。ただ、仮名文字以前に音言語が文字に移しかえられた時の姿は想像できるだろう。が、それでも、音が特定の集団の特定の場で共有できていた場合において、経験の共有からくる音の統一性は保持されたと考えられるのではないだろうか。しかし、それが多くの場所と時間を持ったとき音の経験は幅を持ちだしてしまう。すでに書かれた文字に幅が生まれると思うのだ。
 漢字の面白さがある。漢字は文字づらの意味は共有できるのである。表意文字の伝達性は強い。だが、音に幅があるのだ。中国音でも呉音とかいろいろあり、朝鮮半島にいけばまた変わり、日本でも変化する。「島」が「タオ」だったり「ド」だったり「トウ」だったりというように。すると音は枠や境界になる。ただ、類推できる似方をしているものも多い。「島」の音も発音のずれであり、切り離されたものではない。
 また他に、謡曲の本を思ったりする。そこに書かれているのは上がり、下がり、同音程の維持などの記号である。あとは、口伝される。つまり音程や強弱の幅は共同体に囲い込まれるのである。案外こういったものは多い。雅楽の本なども記号が表記されているようだが、楽器になると、その楽器の持つオクターブや音はある程度決まっているので、道具的制約が幅をかなり固定させるとは思う。
 そして、世界は広がった。昔も今も世界は広いのだが、広さが狭く意識されるのが現在の世界である。つまり、未知の広がりが許されないのだ。そこで、書き言葉と聞き言葉(?)のずれが問題になるのかもしれない。というより、記述が宿命的に持ってしまったずれなのだろう。
 では、そうやって記述が獲得したのは永遠性か。

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ことばと音2

2004-10-13 13:56:05 | Weblog
文字言語は音声言語の書き写された形式にすぎないとしたら、脚本はまさにそれが書かれた段階で記録化されたものであると言えるだろう。脚本は三次元のパッケージである。 もちろん、脚本によっては、その人間関係やストーリーを追うことが楽しい本もある。また、言葉だけを追って楽しいものもある。だが、その楽しさは舞台=立体化を想像させる楽しさが総合的な楽しさではないだろうか。ひとつの脚本から様々な演出が生まれる開かれ方もそこに起因する。
 と、同時にすでにその脚本の舞台を見ていることは脚本を読むことをわかりやすくさせる。例えば、唐や野田の舞台を見ると、彼らのセリフの速度や体の移動や舞台のダイナミズムが脚本を読みながら想像できる。つまり、経験が本を固定させる。書かれたものがその舞台で一定の完成をみるのだ。ただ、脚本は、本の状態で無数の解釈を待っている未完成さを快感にしていると思う。
 
 そして、書かれた言葉の、作品としての完成は、別の展開をみせるものだと言えるだろう。詩の朗読ははざまにあるのかもしれない。書かれた完成と三次元的完成の両方を求めて。
 ポリフォニーやカーニバルの問題があるかも。

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ことばと音

2004-10-11 01:19:48 | Weblog
まったくの形と意味という文字では「くさび形文字」などがそうではないかと思います。
また、漢字では会意文字や象形文字は音を封じられている。形声文字は音素と意味を表す形体素からなるが、この文字も、すでにある象形文字や会意文字の音の借用で、厳密には音素はなく類推や帰納音というべきものだといった内容が、白川静の本に書かれていた。
想像すると、記録媒体化されるときに音の呪が封じられたとか思えば、結構、陰陽師の世界である。(余談ですm(_ _)m)
 で、この白川静の本では最初にことばは音声言語と文字言語に分かれるということが記述される。文字言語は音声言語の書き写された形式にすぎない。そして音声文字が研究される。その後、絵画や映像が言語として考えられる中で漢字も文字映像として考えられたと、彼の話は進むのだが、そう考えると、たとえばバルトがエクリチュールとして書くことや書かれたもの、文書にこだわり、それらを峻別して追求する態度も確かにラディカルだったのだ。(また余談です)
 で、その書き写された形式だとしても、そこに音の実質は存在しない。つまり約束だけが記述されたといえないだろうか。音の実質は背後に消える。そこで有田さんの言い表しが正当になる。
 先日、坂本龍一が「ニュース23」の企画で「War and Peace」という曲を作って演奏していた。全国から詩を募集し、その朗読映像と坂本の曲が流されるというものだ。彼は、朗読の音を意識しながら音楽の音を配置していくことの困難と楽しみを語り、そこに方言が入ったときの音の逆転が大変だが面白かったと語っていた。言葉は坂本の音楽によって再構成され、映像が音楽で再構成されること等質であった。ここでは、作者の音経験と坂本の音経験が出会っているのだ。つまりは、絶対的な音はむしろ相対性の彼方に現れるのではないだろうか。文字ー声ー音の作業が文字に音を付加していく。
この辺で、今、すすめられている「考え」の有効性が見えてくるような気がするのだ。

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