文字言語は音声言語の書き写された形式にすぎないとしたら、脚本はまさにそれが書かれた段階で記録化されたものであると言えるだろう。脚本は三次元のパッケージである。 もちろん、脚本によっては、その人間関係やストーリーを追うことが楽しい本もある。また、言葉だけを追って楽しいものもある。だが、その楽しさは舞台=立体化を想像させる楽しさが総合的な楽しさではないだろうか。ひとつの脚本から様々な演出が生まれる開かれ方もそこに起因する。
と、同時にすでにその脚本の舞台を見ていることは脚本を読むことをわかりやすくさせる。例えば、唐や野田の舞台を見ると、彼らのセリフの速度や体の移動や舞台のダイナミズムが脚本を読みながら想像できる。つまり、経験が本を固定させる。書かれたものがその舞台で一定の完成をみるのだ。ただ、脚本は、本の状態で無数の解釈を待っている未完成さを快感にしていると思う。
そして、書かれた言葉の、作品としての完成は、別の展開をみせるものだと言えるだろう。詩の朗読ははざまにあるのかもしれない。書かれた完成と三次元的完成の両方を求めて。
ポリフォニーやカーニバルの問題があるかも。
と、同時にすでにその脚本の舞台を見ていることは脚本を読むことをわかりやすくさせる。例えば、唐や野田の舞台を見ると、彼らのセリフの速度や体の移動や舞台のダイナミズムが脚本を読みながら想像できる。つまり、経験が本を固定させる。書かれたものがその舞台で一定の完成をみるのだ。ただ、脚本は、本の状態で無数の解釈を待っている未完成さを快感にしていると思う。
そして、書かれた言葉の、作品としての完成は、別の展開をみせるものだと言えるだろう。詩の朗読ははざまにあるのかもしれない。書かれた完成と三次元的完成の両方を求めて。
ポリフォニーやカーニバルの問題があるかも。