声が聞こえてくる。何だか、最近、声にこだわっているわけではないのだが、この詩集に収められた詩篇には聞こえてくる声がある。それは、作者の静かな問いの声であり、それに応える生者、死者の声である。その声をどのように聞くか。それは、どのように流れているか。岡田哲也さんの詩集『茜ときどき自転車』の冒頭の詩が告げている。
「舟唄(バルカローレ)」として流れている。しかも、季節は秋。
くろぐろと 茜の干潟に満ちてくる
秋の波にも 舟を出そうよ
さざ波が 鳥肌みたいに立っている
ぽっきりと 帆柱みたいに父も逝き
舫いの結びも 解けました
沖の火は 不知火じゃろか鬼火じゃろか
ほっこりと 月が素顔で笑う夜は
蟋蟀(こおろぎ)の声が舟唄(バルカローレ)
虫は からがら鳴くのかな それとも有心で鳴くのかな
あっさりと 腹腸(はらわた)の腐った太刀魚と
はて腹腸の まるでない船頭(かこ)
舟は浮かんでゆくのかな それとも沈んでゆくのかな
(「秋の舟唄」全篇)
舟が揺れているのが見える。漕ぎ出した舟が見えるのだ。と、同時に舟に乗って見ている情景が見える。つまり、舟の外から舟を見ている自分と舟に乗っている自分の双方が、読者には見えるのである。書かれた状況だけなら読者は舟に乗る位置にいる。ところが、その乗った舟が「茜」の中で、波間に揺れているところも見えるのだ。この「茜」は境である。朝に向かうのか、夜に向かうのか。やはり夜に向かっているのか。満ちてくる波は、舟を沖へと連れだしていく。遠景がある。そして、距離を近くにする音がある。往く(逝く)と来るが、揺れるのだ。それは視覚と聴覚の往き来、遠くと近くの往来、浮かぶと沈むのはざまを描きだしていく。そして、音が、それは声になっていこうとする音が、舟を包み込む。時間は、舟唄なのかもしれない。であれば、時は時を越える。唐突に死者の時間が訪れるわけではない。それはゆるやかに往来するように「今」の中に流れこんでくる。
いとうせいこうは、小説『想像ラジオ』で、「永遠って実はこんな風なんじゃないか。広い一本道がスカッと果てしなく続いているんじゃなくて、地獄的に退屈な短距離の反復。」と書いていた。これは、その「地獄的に退屈な短距離の反復」を否定して書いていたわけではない。その「反復」の中に「永遠」があるんじゃないかといっていたのだ。聞くとは、その聞こえる刹那に時間が宿る、瞬間的な永遠の感覚なのかもしれない。音は、消えていく。また、耳がとらえる音は、実はまだ鳴っていない音であったりもする。鳴らない音をすでに予感してとらえている場合もあるのだ。なぜなら、音は聞き及んだそばから通り過ぎるから。だから、先に出かけていってとらえようともするのだ。それが、声であれば、ボクらはいまだ成っていない文脈を聞き分けようとする。徐々に成立していく声の文脈。そこには組み立てられた時間がある。
で、これで終われば、それはそれで、終わりなのだが、どうしてこうして、生きるってことは、そんなもんじゃありません、っていうのが、岡田哲也さんの詩の世界なのだ。「覆された宝石」とは西脇順三郎の有名な詩だが、「覆す」というのは、いつも常に詩の使命の一つであって。
作者が自身の痛みと共に、その覆しを表現していく詩篇は、詩語の強度のしなやかな強さに支えられている。
それにしても、「さざ波が 鳥肌みたいに」とか、「ほっこりと 月が素顔で笑う」とか、「からがら鳴く」とか、いいな。「かな」っていうのも、効いているな。
それに、「服腸」の腐った「太刀魚」と「服腸」の「まるでない船頭」という謎の言葉。これは生者と死者の別なのかなと考えたのだが、対句表現が生きている。
詩集一冊24篇の詩の中に、交感される声の所在がある。そして、滲むような痛みを重ねながらも、自らを見つめるまなざしが、どこにつながっていくのかをまなざそうとする客観性によって構築される、しなやかさ世界があった。
冒頭の詩について書いたが、他にも、「彼岸花のころ」「母星」「夕茜の唄」「鬼の日向ぼっこ」「春は自転車で」「二月九日」「漬物石」「返事」などなど印象に残った。
詩集構成は三部立て。Ⅰが「夏から秋へ」、Ⅱが「冬」、そしてⅢが「ときじくの春」となる。この構成にも詩集によって作者がめざした志向性があるのかもしれない。
「ときじくの春」。この「ときじく」、どちらの意味でとるのかな。「非時香果(ときじくのかくのこのみ)」で考えれば、「橘」で夏から早春へと香を運ぶ永遠性の象徴になる。辞書で「時じ」という言葉を引けば、ひとつが、この意味合いの「時を選ばない。時節にかまわない」だが、もうひとつ「その時節にはずれている。時期でない」という意味もある。三部構成の組み立てからいけば、「橘」の時の流れがあるように思うのだが、同時に時節にはずれているという自嘲やはじらいの感覚も含まれているように思う。「ときじくの春」、いい言葉だな。
「舟唄(バルカローレ)」として流れている。しかも、季節は秋。
くろぐろと 茜の干潟に満ちてくる
秋の波にも 舟を出そうよ
さざ波が 鳥肌みたいに立っている
ぽっきりと 帆柱みたいに父も逝き
舫いの結びも 解けました
沖の火は 不知火じゃろか鬼火じゃろか
ほっこりと 月が素顔で笑う夜は
蟋蟀(こおろぎ)の声が舟唄(バルカローレ)
虫は からがら鳴くのかな それとも有心で鳴くのかな
あっさりと 腹腸(はらわた)の腐った太刀魚と
はて腹腸の まるでない船頭(かこ)
舟は浮かんでゆくのかな それとも沈んでゆくのかな
(「秋の舟唄」全篇)
舟が揺れているのが見える。漕ぎ出した舟が見えるのだ。と、同時に舟に乗って見ている情景が見える。つまり、舟の外から舟を見ている自分と舟に乗っている自分の双方が、読者には見えるのである。書かれた状況だけなら読者は舟に乗る位置にいる。ところが、その乗った舟が「茜」の中で、波間に揺れているところも見えるのだ。この「茜」は境である。朝に向かうのか、夜に向かうのか。やはり夜に向かっているのか。満ちてくる波は、舟を沖へと連れだしていく。遠景がある。そして、距離を近くにする音がある。往く(逝く)と来るが、揺れるのだ。それは視覚と聴覚の往き来、遠くと近くの往来、浮かぶと沈むのはざまを描きだしていく。そして、音が、それは声になっていこうとする音が、舟を包み込む。時間は、舟唄なのかもしれない。であれば、時は時を越える。唐突に死者の時間が訪れるわけではない。それはゆるやかに往来するように「今」の中に流れこんでくる。
いとうせいこうは、小説『想像ラジオ』で、「永遠って実はこんな風なんじゃないか。広い一本道がスカッと果てしなく続いているんじゃなくて、地獄的に退屈な短距離の反復。」と書いていた。これは、その「地獄的に退屈な短距離の反復」を否定して書いていたわけではない。その「反復」の中に「永遠」があるんじゃないかといっていたのだ。聞くとは、その聞こえる刹那に時間が宿る、瞬間的な永遠の感覚なのかもしれない。音は、消えていく。また、耳がとらえる音は、実はまだ鳴っていない音であったりもする。鳴らない音をすでに予感してとらえている場合もあるのだ。なぜなら、音は聞き及んだそばから通り過ぎるから。だから、先に出かけていってとらえようともするのだ。それが、声であれば、ボクらはいまだ成っていない文脈を聞き分けようとする。徐々に成立していく声の文脈。そこには組み立てられた時間がある。
で、これで終われば、それはそれで、終わりなのだが、どうしてこうして、生きるってことは、そんなもんじゃありません、っていうのが、岡田哲也さんの詩の世界なのだ。「覆された宝石」とは西脇順三郎の有名な詩だが、「覆す」というのは、いつも常に詩の使命の一つであって。
作者が自身の痛みと共に、その覆しを表現していく詩篇は、詩語の強度のしなやかな強さに支えられている。
それにしても、「さざ波が 鳥肌みたいに」とか、「ほっこりと 月が素顔で笑う」とか、「からがら鳴く」とか、いいな。「かな」っていうのも、効いているな。
それに、「服腸」の腐った「太刀魚」と「服腸」の「まるでない船頭」という謎の言葉。これは生者と死者の別なのかなと考えたのだが、対句表現が生きている。
詩集一冊24篇の詩の中に、交感される声の所在がある。そして、滲むような痛みを重ねながらも、自らを見つめるまなざしが、どこにつながっていくのかをまなざそうとする客観性によって構築される、しなやかさ世界があった。
冒頭の詩について書いたが、他にも、「彼岸花のころ」「母星」「夕茜の唄」「鬼の日向ぼっこ」「春は自転車で」「二月九日」「漬物石」「返事」などなど印象に残った。
詩集構成は三部立て。Ⅰが「夏から秋へ」、Ⅱが「冬」、そしてⅢが「ときじくの春」となる。この構成にも詩集によって作者がめざした志向性があるのかもしれない。
「ときじくの春」。この「ときじく」、どちらの意味でとるのかな。「非時香果(ときじくのかくのこのみ)」で考えれば、「橘」で夏から早春へと香を運ぶ永遠性の象徴になる。辞書で「時じ」という言葉を引けば、ひとつが、この意味合いの「時を選ばない。時節にかまわない」だが、もうひとつ「その時節にはずれている。時期でない」という意味もある。三部構成の組み立てからいけば、「橘」の時の流れがあるように思うのだが、同時に時節にはずれているという自嘲やはじらいの感覚も含まれているように思う。「ときじくの春」、いい言葉だな。