昨日、オウム真理教のよる一連のサリン事件で、死刑を求刑された最後の被告の上告審が最高裁で開かれ、上告が棄却された上で刑が確定しました。これによって一連のオウムが引き起こした事件で逮捕され、死刑を求刑されていた全ての被告の審理が終了し、ここにオウム裁判は終了しました。1995年3月に発生した未曾有の大事件から16年もの年月を経て、やっと一つの区切りを迎えたわけです。
これで世間一般的にはオウム裁判は終わり、後は教祖・麻原彰晃(松本智津夫)を始めとする十数人に及ぶ死刑囚の死刑執行の時期が決められていくばかりとなったわけです。
あれだけの大事件だったからなのか、裁判にかかった16年という年月を長い短いで論ずることは余りに軽々しいことなのでしょうが、体験した人達、特に近しい方々を亡くされた方々…あの日、いつものように「いってきます」と玄関を出た人が、変わり果てた姿で帰ってこられた方々の中では、「もうこれで幕引きなのか」という、やるせない思いで一杯なのではないかと思います。
実は各言う私自身も、もし運命のボタンが掛け違っていたら、ここに生きていられたかわからない人間なのです。つまり、状況次第では十分に被害者になり得た存在なのです。
あの日私は、当時母が入院していた千葉県柏市にある国立がんセンター東病院へ、前の日から泊まりがけで看病していた妹と交代して彼女を職場へ出勤させるために向かっていました。代々木上原で、いつものように小田急線から千代田線に乗り換えて、霞ヶ関・大手町を通り過ぎ、北千住・綾瀬を越えて柏へ到着し、バスで病院に向かって、何事もなく妹と交代しました。
彼女を見送った後しばらくして母が、つけっぱなしになっていたテレビを見ながら私に話し掛けてきました。
母:ねえ、さっきから何だかテレビで変な臨時ニュースが流れてるんだけど…何?。
私:変な臨時ニュース?
母:何だか都内の地下鉄の駅で何かあったみたいだけど…お前今日ここまで、どうやって来たの?
私:へ?どうって千代田線直通の常磐線で来たけど…って言うか、何でテレビの音声切ってんのよ?(音量Up)
テレビの画面には、日比谷線の霞ヶ関駅の出口辺りの路上に緊急用のテントが張られ、その近辺で沢山の人が寝かされたり、ブランケットを羽織って座り込んでいたり…といった、一種異様な光景がヘリコプターから中継されていました。覚えておいでの方もあるかと思いますが、最初は『地下鉄で爆発事故』と報道されていました。しかしそれが、時間が経つにつれて『何らかの有毒ガスが発生した』という内容に変わっていきました。それがサリンと判明したのは、結構早かったように記憶しています。
その一部始終を呆然と見ながら、ふと母が…
母:ねえ、これってお前が乗ってた電車なんじゃないの?
私:ん…んなわけないでしょ?!現に今私は、ちゃんとケガもしないでここにいるんだから。
母:そうか…でも時間的には近い電車だったでしょ?
私:…そうかも…。
母:千代田線って霞ヶ関とか大手町とか通るの?
私:…思いっきり通るよ。
母:ってことは…さ…?
私:…。
そして調べてみたところ、実際にサリンが撒かれた千代田線の電車は、なんと私が前日に検索して朝乗って来た列車の、1本後ろの列車だったのです!ということは…裏を返せば、もし私が何らかの理由であの時自分が乗る予定だった電車に遅れて、1本後ろの千代田線の電車に乗っていたとしたら…私は間違いなく、あのテントやブランケットの群れの中にいたでしょう。
因みにそれからしばらくして、やっと妹から無事を知らせる電話がありました。あの当時は今のように激しく携帯電話が普及していませんでしたから、何かあった場合には、ひたすら駅の公衆電話の順番待ちをするしかなかったのです。
それからの顛末は御存知の通りです。あれだけの事件を引き起こしていたのが、いわゆるプロのテロリスト集団ではなく、一見どこの町にも存在するような宗教団体だったということに、日本中が震撼したものです。以前、衆議院選挙に立候補した麻原彰晃が、選挙カーの屋根の上で『♪しょ~こ~、しょ~こ~、しょこしょこしょ~こ~、あ~さ~は~ら~しょうこ~♪」と歌っていた時には「なんだコイツら…気持ち悪い」と思う程度でしたが、それが後になって、こんな大事件を引き起こすようになるとは…。
母が他界したのは、その日からそう何日も経たない頃でした。逝く間際「お前達が残される世界が、この先一体どんなものになってしまうのか不安でならない」というようなことを言って旅立ったのを覚えています。1995年と言えば、1月には阪神淡路大震災が起きた年でもあり、その傷も癒えぬ3月に起きた事件でしたから、どこかで自身の死期を感じていた母としては、心中如何ばかりだったか…と思われてなりません。
あれからオウム真理教は、破壊活動防止法の適応をまんまと免れ、残った信者達が立ち上げた《アレフ》と、囚監の後保釈された上祐史浩氏が中心となった《ひかりの輪》とに分裂こそしましたが、今なおこの日本社会の中にオウムは厳然と存在し続けています。彼等にとって麻原彰晃は今も偉大な教祖であり、活動拠点の施設内では今も麻原の説法が流されているのだそうです。もしかすると、これで順当に司法手続が為されて死刑が執行された場合、信者にとって麻原彰晃は、差し詰め十字架にかけられて死んだイエス・キリストのような存在に昇華されてしまうのではないでしょうか。
そして非常に憂慮すべきことに、近年これらの団体に入信する『リアルタイムでオウム事件を知らない若者達』が増えているらしいのです。
先の見えない不安感や人間関係の歪み、そして今年の大震災と、若者達を取り巻く社会情勢は、近年その混沌さを益々深めています。そんな彼等の心の隙間に巧みに付け入られてしまわないように、我々大人の為すべきことは決して小さくありません。
これで世間一般的にはオウム裁判は終わり、後は教祖・麻原彰晃(松本智津夫)を始めとする十数人に及ぶ死刑囚の死刑執行の時期が決められていくばかりとなったわけです。
あれだけの大事件だったからなのか、裁判にかかった16年という年月を長い短いで論ずることは余りに軽々しいことなのでしょうが、体験した人達、特に近しい方々を亡くされた方々…あの日、いつものように「いってきます」と玄関を出た人が、変わり果てた姿で帰ってこられた方々の中では、「もうこれで幕引きなのか」という、やるせない思いで一杯なのではないかと思います。
実は各言う私自身も、もし運命のボタンが掛け違っていたら、ここに生きていられたかわからない人間なのです。つまり、状況次第では十分に被害者になり得た存在なのです。
あの日私は、当時母が入院していた千葉県柏市にある国立がんセンター東病院へ、前の日から泊まりがけで看病していた妹と交代して彼女を職場へ出勤させるために向かっていました。代々木上原で、いつものように小田急線から千代田線に乗り換えて、霞ヶ関・大手町を通り過ぎ、北千住・綾瀬を越えて柏へ到着し、バスで病院に向かって、何事もなく妹と交代しました。
彼女を見送った後しばらくして母が、つけっぱなしになっていたテレビを見ながら私に話し掛けてきました。
母:ねえ、さっきから何だかテレビで変な臨時ニュースが流れてるんだけど…何?。
私:変な臨時ニュース?
母:何だか都内の地下鉄の駅で何かあったみたいだけど…お前今日ここまで、どうやって来たの?
私:へ?どうって千代田線直通の常磐線で来たけど…って言うか、何でテレビの音声切ってんのよ?(音量Up)
テレビの画面には、日比谷線の霞ヶ関駅の出口辺りの路上に緊急用のテントが張られ、その近辺で沢山の人が寝かされたり、ブランケットを羽織って座り込んでいたり…といった、一種異様な光景がヘリコプターから中継されていました。覚えておいでの方もあるかと思いますが、最初は『地下鉄で爆発事故』と報道されていました。しかしそれが、時間が経つにつれて『何らかの有毒ガスが発生した』という内容に変わっていきました。それがサリンと判明したのは、結構早かったように記憶しています。
その一部始終を呆然と見ながら、ふと母が…
母:ねえ、これってお前が乗ってた電車なんじゃないの?
私:ん…んなわけないでしょ?!現に今私は、ちゃんとケガもしないでここにいるんだから。
母:そうか…でも時間的には近い電車だったでしょ?
私:…そうかも…。
母:千代田線って霞ヶ関とか大手町とか通るの?
私:…思いっきり通るよ。
母:ってことは…さ…?
私:…。
そして調べてみたところ、実際にサリンが撒かれた千代田線の電車は、なんと私が前日に検索して朝乗って来た列車の、1本後ろの列車だったのです!ということは…裏を返せば、もし私が何らかの理由であの時自分が乗る予定だった電車に遅れて、1本後ろの千代田線の電車に乗っていたとしたら…私は間違いなく、あのテントやブランケットの群れの中にいたでしょう。
因みにそれからしばらくして、やっと妹から無事を知らせる電話がありました。あの当時は今のように激しく携帯電話が普及していませんでしたから、何かあった場合には、ひたすら駅の公衆電話の順番待ちをするしかなかったのです。
それからの顛末は御存知の通りです。あれだけの事件を引き起こしていたのが、いわゆるプロのテロリスト集団ではなく、一見どこの町にも存在するような宗教団体だったということに、日本中が震撼したものです。以前、衆議院選挙に立候補した麻原彰晃が、選挙カーの屋根の上で『♪しょ~こ~、しょ~こ~、しょこしょこしょ~こ~、あ~さ~は~ら~しょうこ~♪」と歌っていた時には「なんだコイツら…気持ち悪い」と思う程度でしたが、それが後になって、こんな大事件を引き起こすようになるとは…。
母が他界したのは、その日からそう何日も経たない頃でした。逝く間際「お前達が残される世界が、この先一体どんなものになってしまうのか不安でならない」というようなことを言って旅立ったのを覚えています。1995年と言えば、1月には阪神淡路大震災が起きた年でもあり、その傷も癒えぬ3月に起きた事件でしたから、どこかで自身の死期を感じていた母としては、心中如何ばかりだったか…と思われてなりません。
あれからオウム真理教は、破壊活動防止法の適応をまんまと免れ、残った信者達が立ち上げた《アレフ》と、囚監の後保釈された上祐史浩氏が中心となった《ひかりの輪》とに分裂こそしましたが、今なおこの日本社会の中にオウムは厳然と存在し続けています。彼等にとって麻原彰晃は今も偉大な教祖であり、活動拠点の施設内では今も麻原の説法が流されているのだそうです。もしかすると、これで順当に司法手続が為されて死刑が執行された場合、信者にとって麻原彰晃は、差し詰め十字架にかけられて死んだイエス・キリストのような存在に昇華されてしまうのではないでしょうか。
そして非常に憂慮すべきことに、近年これらの団体に入信する『リアルタイムでオウム事件を知らない若者達』が増えているらしいのです。
先の見えない不安感や人間関係の歪み、そして今年の大震災と、若者達を取り巻く社会情勢は、近年その混沌さを益々深めています。そんな彼等の心の隙間に巧みに付け入られてしまわないように、我々大人の為すべきことは決して小さくありません。