今日は昼間にちょっと時間があったので、以前から気になっていた場所へ行ってみることにしました。
本厚木駅南口から平塚駅行きのバスに乗って、戸田地区にある『中戸田』というバス停で下車。そこから民家の間の道を西方向に向かい、進行方向右側に日曜日に登った大山、その左手にうっすらと富士山を臨む広大な水田の間の細い道を歩くこと20分ほどのところに、今日の目的地《御霊神社》があります。そうです、覚えておいでの方もあるかと思いますが、9月に行くはずだったお祭りが、関東地方を直撃した台風の影響で中止になってしまった平塚市横内の《御霊神社》と同じ名前の神社が、なんと厚木市内にもあったのです。
実は参詣するにあたって由緒等を調べてみたのですが、何を調べても面白いくらいに詳細が分からない御社なのです。かろうじて分かったのが、御祭神が『崇道天皇』であるということだけでした。
崇道天皇とは、794年に都を平安京に遷都した桓武天皇の皇太弟だった早良親王(さわらしんのう)の諡号(しごう…死後の送り名)です。あらぬ謀反の罪を着せられた親王は、身の潔白を示すために絶食の果てに薨去されました。その後、立て続けに様々な厄難が国中を襲ったため、その御霊を鎮めるために謀反の罪を取下げ、本来桓武天皇の次に即位するはずだった方として天皇の諡号を送ってお祀り申し上げた神社が現在の京都市左京区にある御霊神社です。そこから関西方面を中心として様々な方面に分祠されているのですが、何故またこんなに都から遠く離れた東国にまで御社が存在するのかは謎です。
伺ってみたら、こじんまりした社殿の横に《御霊神社再建記念碑》という石碑が建てられていました。その記念碑の裏に、極々最近に起きた出来事についての由書があったので、それでちょっとだけ分かったことがありました。
この御社の創建はよく分かりませんが、崇道天皇が御祭神ですから、早くても平安時代後期以降かと思われます。その後、元和元年に社殿が再建されてから百二十余年もの時間の流れの中で老朽化していくのを『何とかしなければならない』と氏子衆が計画していた時に、悲劇が起きました。
昭和61年3月23日、時ならぬ大風雪害が関東を襲い、近くにあった送電線の鉄塔が雪の重みで倒壊してしまったのです。その時、社殿の一部や周辺の家屋が鉄塔の下敷きとなってしまい、甚大な被害を出してしまいました。
その後、鉄塔の管理者である東京電力から賠償金が支払われたため、そのお金と、氏子衆で結成した奉賛会の集めた浄財とをもって、翌年10月に建てられたのが現在の社殿なのだそうです。
結局これ以外の詳しいことについては分かりませんでしたが、富士山と大山という二つの霊場を彼方に臨む田畑の真ん中にポツンと建っている小さな御社にも、紐解けば様々なドラマがあったのだということを垣間見ることが出来ただけでも、十分に有意義な参詣でした。
本厚木駅南口から平塚駅行きのバスに乗って、戸田地区にある『中戸田』というバス停で下車。そこから民家の間の道を西方向に向かい、進行方向右側に日曜日に登った大山、その左手にうっすらと富士山を臨む広大な水田の間の細い道を歩くこと20分ほどのところに、今日の目的地《御霊神社》があります。そうです、覚えておいでの方もあるかと思いますが、9月に行くはずだったお祭りが、関東地方を直撃した台風の影響で中止になってしまった平塚市横内の《御霊神社》と同じ名前の神社が、なんと厚木市内にもあったのです。
実は参詣するにあたって由緒等を調べてみたのですが、何を調べても面白いくらいに詳細が分からない御社なのです。かろうじて分かったのが、御祭神が『崇道天皇』であるということだけでした。
崇道天皇とは、794年に都を平安京に遷都した桓武天皇の皇太弟だった早良親王(さわらしんのう)の諡号(しごう…死後の送り名)です。あらぬ謀反の罪を着せられた親王は、身の潔白を示すために絶食の果てに薨去されました。その後、立て続けに様々な厄難が国中を襲ったため、その御霊を鎮めるために謀反の罪を取下げ、本来桓武天皇の次に即位するはずだった方として天皇の諡号を送ってお祀り申し上げた神社が現在の京都市左京区にある御霊神社です。そこから関西方面を中心として様々な方面に分祠されているのですが、何故またこんなに都から遠く離れた東国にまで御社が存在するのかは謎です。
伺ってみたら、こじんまりした社殿の横に《御霊神社再建記念碑》という石碑が建てられていました。その記念碑の裏に、極々最近に起きた出来事についての由書があったので、それでちょっとだけ分かったことがありました。
この御社の創建はよく分かりませんが、崇道天皇が御祭神ですから、早くても平安時代後期以降かと思われます。その後、元和元年に社殿が再建されてから百二十余年もの時間の流れの中で老朽化していくのを『何とかしなければならない』と氏子衆が計画していた時に、悲劇が起きました。
昭和61年3月23日、時ならぬ大風雪害が関東を襲い、近くにあった送電線の鉄塔が雪の重みで倒壊してしまったのです。その時、社殿の一部や周辺の家屋が鉄塔の下敷きとなってしまい、甚大な被害を出してしまいました。
その後、鉄塔の管理者である東京電力から賠償金が支払われたため、そのお金と、氏子衆で結成した奉賛会の集めた浄財とをもって、翌年10月に建てられたのが現在の社殿なのだそうです。
結局これ以外の詳しいことについては分かりませんでしたが、富士山と大山という二つの霊場を彼方に臨む田畑の真ん中にポツンと建っている小さな御社にも、紐解けば様々なドラマがあったのだということを垣間見ることが出来ただけでも、十分に有意義な参詣でした。