今日は出勤前にTOHO CINEMASで映画を観て来ました。スタジオジブリの、言わずと知れた宮崎駿監督と双璧を成す高畑勲監督の最新作《かぐや姫の物語》です。平日の午前中に入ったのですが、先週末に封切られたばかりということもあってか、平日にもかかわらずそこそこ座席は埋まっていました。
先ず、肝心なことから。この映画が面白かったかどうか…ということについてですが、個人的には面白かったです。
内容については、改めて細々説明する必要もありませんが、媼によって「今は昔、竹取の翁といふものありけり…」という、古典の授業で必ず音読するフレーズが語られて、やがて翁が光る竹(というより今作では筍)の中から小さなお姫様を授かるところからお話が始まります。写真のポスターは、翁が姫を抱き上げたところです。その後、《竹取物語》の原典では、文章で翁が竹の中から黄金や衣等を次々と授かる場面が書かれていますが、そこはさすがアニメーション、『その場面』も具体的に見せてくれます。
さて、この作品の何が原典と決定的に違うかと言えば『成長過程のかぐや姫』が描かれていることでしょう。
原典ではいつの間にか大きくなってしまっていて、いつの間にか都に居を構えている得体の知れない存在ですが、この映画では高畑監督なりの、彼女の闊達な幼少期から少女期にかけてが描かれています。近所の子供達と野山を駆け回ったり、わらべうたを歌ったり、畑の瓜を盗ってきてガキ大将の男の子と食べたり…そこは完全に高畑監督の創作ですが、観ていて「彼女にもこんな自由な時期があったらいいな」と思えるような場面でもありました(因みにこのガキ大将とは、後に都で衝撃的な再会を果たします)。
そんな奔放な日常にもやがて終止符が打たれ、翁一家は『姫を授かった天からの啓示』に従って都に移り住みます。そこで姫を『やんごとなき高貴な姫君』に仕立てるべく、宮中から相模という女房が家庭教師としてやってきますが、それからの二人のやり取りは世代的にどうしても、アルムの山からフランクフルトのクララの家に行ってからのハイジとロッテンマイヤーさんに見えてしまいます(汗)。
やがて、大枠としてはほぼ原典通りに話が進みますが、その中に、自分の思いとは関係なく渦巻く周囲の大人達の思惑の中で、抗いながらも翻弄される姫の一人の少女としての揺れ動く感情が細かく描かれているのが、この映画の特徴と言えるとでしょう。
時に育ての親である翁と真っ向から対立し、身勝手で不誠実な殿上人に怒り、他人の自分を見る目の変化に戸惑い、思いのままに生きられないことに涙する…そんな中で『あること』が起きて、そこで姫は自分の『能力』に目覚め、それを使って助けを求めます。そのことが、後に姫が月に帰らなければならなくなることと深く関わってくるのです…。そんな中、忍んで出かけた故郷の野山であのガキ大将とまたしても再会を果たし、そこで姫の心が一気に解き放たれて、ある『奇跡』が起こります。
そんな喜びも束の間、いよいよ8月の十五夜の夜を迎え、かぐや姫を迎えに来る月からの一行がやって来ますが、その一行の姿を観て私は思わず「えぇ~っ?!」と声に出してしまったくらいぶったまげてしまいました。もう何と言いますか…「その『お迎え』なのぉ?!」というような衝撃です(◎。◎;)。
やがて、嘆き悲しむ老夫婦を置いて、いよいよ天人としての羽衣を纏い、地上での記憶を全て忘れて月に帰ってしまうのか…というところで、かぐや姫の屋敷で姫のお世話をしていた女童(めのわらは)が、なかなかのGOOD JOB!!をやってくれます。それによってハッと我に帰ったかぐや姫は寸出のところで羽衣を纏うのを止めて、老夫婦としっかりと抱き合って別れを惜しみます。
しかし残酷にも、その背後から月の使者の手によってそっと羽衣が着せられると、かぐや姫の顔から感情がスッと消え失せ、泣き崩れる老夫婦を置いて輿に乗って月へ戻って行って…しまうのですが、最後の最後に『えっ?!』と思うようなシーンがあります。何故そのシーンがあるのか…実は作品中の様々なところに布石がありますので、全体をよく観て頂きたいと思います。
この映画は手描きの鉛筆画や毛筆画のような風合いを活かした感じの作画になっていて、全体に温かみのある印象を受けます。人物の肌や着物の質感も伝わってくるような独特の絵で観ていて和みますが、それだけに作画の工程はさぞかし大変だったろうな…と容易に察しがつきます。
声優についてはジブリの悪い癖で、主要人物の声をプロの声優さんではなく俳優や女優にやらせるため、映画を観ている間にも高畑淳子や上川隆也の顔がチラチラするのが若干イラつきました。ただ、幸いにも主人公たるかぐや姫役が新人さんだったので、その辺りについては安心して観ていられました。あと、ガキ大将役の高良健吾はなかなかの好演でしたし、翁の地井武男と媼の宮本信子の老夫婦も素敵でした(地井さんはこの収録後に他界されてしまったので、これが遺作の一つとなってしまいました)。
物語全体のキーワードのように流れるわらべうたは高畑勲監督自らの作詞作曲ということでした。また、一部宮中の場面では雅楽が使われていましたが、それ以外の音楽はいつものように久石穣氏です。今回もオーケストラサウンドやピアノを駆使した、叙情的な音楽が使われています。
ただ、劇中でかぐや姫が和琴のような琴を爪弾く場面が何回も出て来るのですが、何となく音色に違和感があるのです。何だろうと思っていたら、クレジットを見ていて理由が分かりました。奏者のところに『古筝』と出て来たのです。古筝は中国の伝統楽器で、一時期持て囃された女子十二楽房にも使われていたものです。弦や爪の素材が日本の琴や箏とは違うので、日本のものより硬い音がするのが特徴なのですが、それが平安調の寝殿造の屋敷の中から響いてくることに、終始違和感を拭い去れませんでした。
それと、サブタイトルにもなった《姫の犯した罪と罰》というものですが、これについてはよく分かりませんでした。実は原作の《竹取物語》でも、かぐや姫は月世界で何らかの罪を犯して地球に島流し(星流し?)になったという設定になっていますが、一体何をやらかして罪に問われたのかについてはハッキリとはしていません。そういった意味では描きようがなかったのかも知れませんが、出来れば何か具体的な罪状か何かが示されていてもよかったのではないか…と思いました。
いずれにせよ原作があまりにも世に知られた名作だけに、それを映画化するにあたっての高畑勲監督の御苦労は察して余りあるものがあります。しかしながら、上記のような細かいことを気にさえしなければ、それはそれなりに楽しめる作品だと思います。年末の世話しない空気の中のひと時、ひと味違った『血の通ったかぐや姫像』を堪能してみては如何でしょうか。
先ず、肝心なことから。この映画が面白かったかどうか…ということについてですが、個人的には面白かったです。
内容については、改めて細々説明する必要もありませんが、媼によって「今は昔、竹取の翁といふものありけり…」という、古典の授業で必ず音読するフレーズが語られて、やがて翁が光る竹(というより今作では筍)の中から小さなお姫様を授かるところからお話が始まります。写真のポスターは、翁が姫を抱き上げたところです。その後、《竹取物語》の原典では、文章で翁が竹の中から黄金や衣等を次々と授かる場面が書かれていますが、そこはさすがアニメーション、『その場面』も具体的に見せてくれます。
さて、この作品の何が原典と決定的に違うかと言えば『成長過程のかぐや姫』が描かれていることでしょう。
原典ではいつの間にか大きくなってしまっていて、いつの間にか都に居を構えている得体の知れない存在ですが、この映画では高畑監督なりの、彼女の闊達な幼少期から少女期にかけてが描かれています。近所の子供達と野山を駆け回ったり、わらべうたを歌ったり、畑の瓜を盗ってきてガキ大将の男の子と食べたり…そこは完全に高畑監督の創作ですが、観ていて「彼女にもこんな自由な時期があったらいいな」と思えるような場面でもありました(因みにこのガキ大将とは、後に都で衝撃的な再会を果たします)。
そんな奔放な日常にもやがて終止符が打たれ、翁一家は『姫を授かった天からの啓示』に従って都に移り住みます。そこで姫を『やんごとなき高貴な姫君』に仕立てるべく、宮中から相模という女房が家庭教師としてやってきますが、それからの二人のやり取りは世代的にどうしても、アルムの山からフランクフルトのクララの家に行ってからのハイジとロッテンマイヤーさんに見えてしまいます(汗)。
やがて、大枠としてはほぼ原典通りに話が進みますが、その中に、自分の思いとは関係なく渦巻く周囲の大人達の思惑の中で、抗いながらも翻弄される姫の一人の少女としての揺れ動く感情が細かく描かれているのが、この映画の特徴と言えるとでしょう。
時に育ての親である翁と真っ向から対立し、身勝手で不誠実な殿上人に怒り、他人の自分を見る目の変化に戸惑い、思いのままに生きられないことに涙する…そんな中で『あること』が起きて、そこで姫は自分の『能力』に目覚め、それを使って助けを求めます。そのことが、後に姫が月に帰らなければならなくなることと深く関わってくるのです…。そんな中、忍んで出かけた故郷の野山であのガキ大将とまたしても再会を果たし、そこで姫の心が一気に解き放たれて、ある『奇跡』が起こります。
そんな喜びも束の間、いよいよ8月の十五夜の夜を迎え、かぐや姫を迎えに来る月からの一行がやって来ますが、その一行の姿を観て私は思わず「えぇ~っ?!」と声に出してしまったくらいぶったまげてしまいました。もう何と言いますか…「その『お迎え』なのぉ?!」というような衝撃です(◎。◎;)。
やがて、嘆き悲しむ老夫婦を置いて、いよいよ天人としての羽衣を纏い、地上での記憶を全て忘れて月に帰ってしまうのか…というところで、かぐや姫の屋敷で姫のお世話をしていた女童(めのわらは)が、なかなかのGOOD JOB!!をやってくれます。それによってハッと我に帰ったかぐや姫は寸出のところで羽衣を纏うのを止めて、老夫婦としっかりと抱き合って別れを惜しみます。
しかし残酷にも、その背後から月の使者の手によってそっと羽衣が着せられると、かぐや姫の顔から感情がスッと消え失せ、泣き崩れる老夫婦を置いて輿に乗って月へ戻って行って…しまうのですが、最後の最後に『えっ?!』と思うようなシーンがあります。何故そのシーンがあるのか…実は作品中の様々なところに布石がありますので、全体をよく観て頂きたいと思います。
この映画は手描きの鉛筆画や毛筆画のような風合いを活かした感じの作画になっていて、全体に温かみのある印象を受けます。人物の肌や着物の質感も伝わってくるような独特の絵で観ていて和みますが、それだけに作画の工程はさぞかし大変だったろうな…と容易に察しがつきます。
声優についてはジブリの悪い癖で、主要人物の声をプロの声優さんではなく俳優や女優にやらせるため、映画を観ている間にも高畑淳子や上川隆也の顔がチラチラするのが若干イラつきました。ただ、幸いにも主人公たるかぐや姫役が新人さんだったので、その辺りについては安心して観ていられました。あと、ガキ大将役の高良健吾はなかなかの好演でしたし、翁の地井武男と媼の宮本信子の老夫婦も素敵でした(地井さんはこの収録後に他界されてしまったので、これが遺作の一つとなってしまいました)。
物語全体のキーワードのように流れるわらべうたは高畑勲監督自らの作詞作曲ということでした。また、一部宮中の場面では雅楽が使われていましたが、それ以外の音楽はいつものように久石穣氏です。今回もオーケストラサウンドやピアノを駆使した、叙情的な音楽が使われています。
ただ、劇中でかぐや姫が和琴のような琴を爪弾く場面が何回も出て来るのですが、何となく音色に違和感があるのです。何だろうと思っていたら、クレジットを見ていて理由が分かりました。奏者のところに『古筝』と出て来たのです。古筝は中国の伝統楽器で、一時期持て囃された女子十二楽房にも使われていたものです。弦や爪の素材が日本の琴や箏とは違うので、日本のものより硬い音がするのが特徴なのですが、それが平安調の寝殿造の屋敷の中から響いてくることに、終始違和感を拭い去れませんでした。
それと、サブタイトルにもなった《姫の犯した罪と罰》というものですが、これについてはよく分かりませんでした。実は原作の《竹取物語》でも、かぐや姫は月世界で何らかの罪を犯して地球に島流し(星流し?)になったという設定になっていますが、一体何をやらかして罪に問われたのかについてはハッキリとはしていません。そういった意味では描きようがなかったのかも知れませんが、出来れば何か具体的な罪状か何かが示されていてもよかったのではないか…と思いました。
いずれにせよ原作があまりにも世に知られた名作だけに、それを映画化するにあたっての高畑勲監督の御苦労は察して余りあるものがあります。しかしながら、上記のような細かいことを気にさえしなければ、それはそれなりに楽しめる作品だと思います。年末の世話しない空気の中のひと時、ひと味違った『血の通ったかぐや姫像』を堪能してみては如何でしょうか。