今日は凄まじいドカ雨で明けました。ちょうど出かけなければならないタイミングだったのですが、遅刻するわけにもいかないので意を決して家を出ました。
ところが、本厚木駅に到着すると何やら拡声器で話している音声が聞こえてきたので
『まさか…』
と思ったら、やっぱり人身事故でした。それでも、私が乗ろうとしていた方面行きは動いているということだったので、とりあえずホームで電車を待つことにしました。
ところが、それからいくらも経たないうちに
「只今、酒匂川に架かる鉄橋の雨量計の値が基準値を超えましたので、全線で運転を見合わせております…。」
という無情のアナウンスが…。ここにきて、まさかのダブルパンチを食らってしまったのです。
もうこうなったら、あとはどうにか運転を再開してくれるのを待つばかりで、為す術もありません。隣で無駄にイラついているヲッサンを横目に見ながら、しばらく電車が来るのを待っていました。
すると、思ったよりも早く電車がすべり込んできました。停車した電車内から凄まじい勢いで人々が出てくるのを見送った後、無事に電車に乗り込んで移動することができました。
はぁ、疲れた…(´-﹏-`;)。
ところで、今日7月26日はフランツ・クサヴァー・モーツァルトの誕生日です。
フランツ・クサーヴァー・ヴォルフガング・モーツァルト(1791〜1844)はオーストリアの作曲家、ピアニストで、名前から分かるように
ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルト(1756〜1791)の末子(四男)です。どうでしょう、父親の顔と似ていますでしょうか?
モーツァルトの子どもたちの中で唯一先に成人した兄のカールは音楽家の道に進まなかったことと、母コンスタンツェの強い意向もあって、フランツ・クサヴァーは『ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルト2世』として活動しました。しかし、生まれた4ヶ月後に父親が他界してしまっていたため父モーツァルトから直接音楽教育などを受けた事実はありませんが、それでもアントニオ・サリエリとヨハン・ネポムク・フンメルといった当時の一流の音楽家たちに師事しました。
フランツ・クサヴァーの作品には2曲のピアノ協奏曲の他にピアノ・ソナタやポロネーズ、ロンド、変奏曲などがあります。また、1820年代に刊行された《ディアベリの主題による50の変奏曲》には、フランツ・リストなどと共に名を連ねています。
フランツ・クサヴァーの作品は洗練された繊細なものではあるのですが、ヴェーバーやシューベルトといったロマン派の作曲家たちと同世代なのにもかかわらず、作風はまるで父親モーツァルトさながらの前時代的なウィーン古典派の域を出ていません。1820年頃からは作曲を殆どやめてしまって演奏活動に専念していましたが、1844年にカールスバートで胃癌のため亡くなり、同地に埋葬されました(享年53)。
生涯独身で、兄カールと同じく子供をもうけなかったために、残念ながらヴォルフガング・アマデウス・モーツァルトの血筋は途絶えてしまいました。また、フランツ・クサーヴァーの名は父ヴォルフガング・アマデウスの協力者であり、モーツァルトが完成できなかった絶筆の《レクイエム》を補筆完成させたフランツ・クサーヴァー・ジュースマイヤーの名を貰い受けていることから、後に
「彼は本当はジュースマイヤーとコンスタンツェの不義の為した子だったのではないか」
と憶測されたりもしました。
そんな彼の作品から、今日は《ピアノ協奏曲第2番変ホ長調》をご紹介します。
1818年に作曲された《ピアノ協奏曲第2番変ホ長調》は、1808年に発表された《ピアノ協奏曲第1番ハ長調》と共に父親譲りの音楽的才能が随所に見られ、ウィーン古典派の伝統に則って作曲された秀作となっています。特にピアノの軽やかな駆け巡り方や第2楽章を短調にするところ、オーケストラのクラリネットの使い方などは父親譲りの音楽センスを感じさせるものとなっています。
ハイドンからもその才能を称賛されながらも、母コンスタンツェからの過度な期待や『モーツァルト2世』というあまりにも大きな重圧が常に壁として立ちふさがり、その豊かな才能を如何なく発揮することの出来る活躍の場を見つけることなくこの世を去ってしまったフランツ・クサヴァー・モーツァルト。彼がもし違う家に生まれていたなら、後世にここまで名を残すことはなかったにせよ、もう少し伸び伸びと音楽活動に勤しむことができたのでしょうか。
そんなわけで、今日はフランツ・クサヴァー・モーツァルト作曲の《ピアノ協奏曲第2番変ホ長調》をお聴きいただきたいと思います。偉大な父の背中を追い続けた2世音楽家の悲哀も垣間見えるような、古き良きウィーン古典派らしい調べをお楽しみください。