今日は上野の東京国立博物館に出かけました。本来なら皇居での新年一般参賀に参加したかったのですが、昨日の令和6年能登半島地震の発生を受けて天皇皇后両陛下が取り止めるご意向を示されたため中止になったのです。
正月早々発生した大地震では日本海沿岸ほぼ全域に大津波警報や津波警報も発令され、石川県輪島市では大規模火災も発生しました。一夜明けて特に石川県・富山県・新潟県近辺でかなり甚大な被害が確認されていますが、先ずはこれ以上被害が拡大しないことを願うばかりです。
曇りがちな空の下、
東京国立博物館まで来ました。会場の内外には
華やかな生け花が飾られ、新春の目出度くも華やかな雰囲気をかもし出しています。
今日からこちらでは
『博物館に初詣 ー年の初めの龍づくしー 』という企画展が始まっています。甲辰年を迎えて龍に因んだ文化財がいろいろと展示されていて、会場内撮影可ということでいろいろと撮影させていただきました。
会場に入って目を引いたのが
清朝第4代皇帝康煕帝(こうきてい、1654〜1722)直筆の『龍飛鳳舞』という堂々たる書です。これは康煕25(1686)年に書かれた書ですが、名君の誉れ高い康煕帝の威厳をも感じさせる逸品です。
その近くには
第107代後陽成天皇(ごようぜいてんのう、1571〜1617)宸筆(しんぴつ=天皇の直筆)の『龍虎二大字』の書が出品されています。書画に通じる能書帝としても知られた後陽成天皇ですが、堂々たる文字の中に昇り行く龍や猛々しい虎の尾を表した独特なタッチの一軸です。
工芸品としては
ポスターにもなっている京都・浄瑠璃寺伝来の、鎌倉時代・13世紀に製作された《十二神将立像、辰神》(じゅうにしんしょうりゅうぞう、しんしん)が目を引きました。十二神将は薬師如来が従える12人の武装した守護神、いわばガードマン集団ですが、この御像もその内の一体です。
はじめは純粋に武神として登場した十二神将ですがいつの頃からか十二支になぞらえられるようになり、頭上に十二支の姿を戴く姿で製作されるようになっていきました。こちらの御像でも
頭の上で龍がにらみをきかせています。
鎌倉時代の仏像製作の特徴のひとつに『玉眼』という技法が挙げられます。これはくり抜いた頭部の目の部分の内側から水晶を嵌め込む技法で、まるで生きた人間の濡れた眼球のように光り輝くため、かなりリアルな目つきになります。
こちらの御像も
まるで荒事の歌舞伎役者の見得切りのような鋭い目線を表現するために、玉眼が効果的に使われています。訪れた人たちは、皆いろいろな角度から盛んにシャッターを切っていました。
他には
中国・元時代に作製された《龍涛螺鈿稜花盆》(りゅうとうらでんりょうかぼん 14世紀・重要文化財)が展示されています。波涛逆巻く背景に浮かんだ火焔宝珠を見据える五本爪の龍が螺鈿で描かれています。
皇帝の権威を象徴する五本爪の龍には、鱗(うろこ)の部分に青い貝を、鰭(ひれ)の部分には赤い貝を嵌め込むという細かい工夫がされています。そのことで、見る角度を変えると
黒い漆の背景の中で龍が様々な表情に光り輝く、当時の中国における螺鈿工芸の水準の高さを如実に表す逸品となっています。
更に
舞楽《陵王(蘭陵王)》で使用される面と装束も展示されています。
古代中国・北斉(ほくせい:550~577年)の蘭陵王・高長恭(らんりょうおう・こうちょうきょう、541〜573)は優れた武才とともに眉目秀麗な美男子としても知られていました。そのあまりの美しさに、部下が長恭の顔に見とれて戦にならなくなってしまうほどだったと言われています。
困った長恭は、味方の兵士たちの士気を高めるために獰猛(どうもう)な龍を戴いた異形の仮面をつけて指揮をとりました。すると兵士たちは鼓舞されて次々と勝利をものにしていったと伝えられていて、それを祝して作られた曲が《陵王》だといわれています。
鎌倉時代に製作された舞楽面には
龍…というより西洋のドラゴンに近いような霊獣があしらわれています。江戸時代に製作された裲襠(りょうとう)と呼ばれる前当てのような唐織の衣装には
猛々しい龍の姿が金糸で表されています。
この他にも様々な展示がありました。
2階にある国宝室という部屋には
長谷川等伯(はせがわとうはく、1539〜1610)の名作《松林図屏風》(しょうりんずびょうぶ、国宝)が展示されています。等伯50代の作といわれているこの屏風は美術史上「日本の水墨画を中国の山水画から自立させた」と称されている、近世日本水墨画の代表作のひとつです。
一説には等伯の郷里である能登・七尾の情景を描いたともいわれていますが、はからずもその能登で昨日、大規模な地震が発生してしまいました。それを知ってこの屏風を観る人たちの目に、一様に複雑なものを感じました。
他に興味深いものとしては
名作《動植綵絵》(どうしょくさいえ)などで知られる江戸時代の画家伊藤若冲(いとうじゃくちゅう、1716〜1800)作の《松梅群鶏図屏風》(しょうばいぐんけいずびょうぶ、18世紀)か展示されています。若冲は『鶏の画家』ともいわれるくらい鶏の表現について定評がありますが、この屏風でも
比較的早い筆致ながら、いかにも伊藤若冲の面目躍如たる生き生きとした鶏たちの姿を観ることができます。
屏風の左隻には
梅の古木の下で群れ遊ぶ鶏たちが、右隻には
粗い筆致の松の木の下に、様々な表情の鶏たちが描かれています。右隻には
石灯籠が描かれているのですが、よく観ると石灯籠が花崗岩製であることを表情するために
なんと若冲は点描画で描いています。
こうした技法は、新印象派に分類される19世紀フランスの画家ジョルジュ・スーラ(1859〜1891)の作品に多く見られるものですが、若冲はその何年も前に点描画という技法を用いていたことになります。こうして観ると、伊藤若冲という画家の斬新な発想には改めて驚くばかりです。
様々な展示を観てから博物館を出て、そのまますぐ近くにある寛永寺に行くことにしました。
様々な展示を観てから博物館を出て、そのまますぐ近くにある寛永寺に行くことにしました。
天台宗東叡山寛永寺は徳川将軍家の菩提寺として建立され、かつては上野公園のほぼ全域に広がる大寺院でした。しかし、徳川幕府と明治新政府軍とが戦った戊辰戦争で殆どの堂宇が焼け落ちた上に明治新政府から所領を著しく減らされ、今では上野公園の片隅に僅かな諸堂を残すのみとなっています。
東京国立博物館から徒歩10分ほどで
東叡山寛永寺に到着します。こちらには、
根本中堂という看板が掲げられた御堂がありますが、正確にはこちらは寛永寺の中の円頓院瑠璃殿(えんとんいんるりでん)といい、本来の根本中堂は上野公園の大噴水の辺りにありました。
今日と明日の二日間は普段は立ち入れない根本中堂の中に入れるということで、私も拝観してきました。歴代徳川将軍の肖像画が飾られた根本中堂内で焼香をし、
『瑠璃殿』の御朱印と散華を頂いてきました。
今日はほぼ一日使って、かなりのびのびとすることができました。明日は、また別のところに出かけます。