今日は二十四節気のひとつである『白露』です。秋が深まって朝晩冷えるようになり朝露が降り始める時期という意味ですが、今日は気温こそ昨日より下がったものの湿度が高いので不快指数は高めの日となりました。
ところで、今日9月8日はドヴォルザークの誕生日です。
アントニン・レオポルト・ドヴォルザーク(1841〜1904)は後期ロマン派に位置するチェコの作曲家で、《モルダウ》をはじめとした連作交響詩《わが祖国》の作曲で知られるベドルジハ・スメタナ(1824〜1884)と共に『チェコ国民楽派』を代表する作曲家と呼ばれています。日本では『ドヴォルザーク』や『ドボルザーク』と表記されることが多いですが、チェコ語の発音だと『ドヴォルジャーク』や『ドヴォジャーク』に近くなります。
ドヴォルザークは北ボヘミアの肉屋と宿屋を営む一家の長男に生まれ、父親からは家の跡継ぎとして期待されていましたが、彼の才能を見ぬいた人の後押しを受けて音楽の道に進むことになりました。最初は貧しさと闘いながらの歩みでしたが、ブラームスをはじめとする多くの人々に支えられて次第に国外でも広く名前が知られるようになります。
ドヴォルザークは生涯にわたってドイツ音楽とチェコの民俗音楽を結びつけて新しい音楽をつくることに力を注ぎ、その功績は世界中で高く評価されました。40代には作曲家として充実した時期をむかえ、たびたび外国を演奏活動で訪問して各地で大歓迎を受けました。
更に51歳の時にはアメリカのニューヨーク・ナショナル音楽院の院長として招かれ、2年間をアメリカで過ごして教鞭を執る傍らネイティヴ・アメリカンの歌や黒人霊歌を取材して自作に採り入れていきました。ドヴォルザークはこのアメリカで、交響曲第9番ホ短調《新世界より》や弦楽四重奏曲第12番ヘ長調『アメリカ』、チェロ協奏曲ロ短調といった、彼の代表作と呼ばれる傑作を数多く作曲しました。
ドヴォルザークの代表作には、交響曲や協奏曲の他にも弦楽セレナードや管楽セレナード、ピアノ五重奏曲などがあり、現在でも世界中で演奏されています。そんな中から、今日は《スラヴ舞曲集》を取り上げてみようと思います。
ドヴォルザークは1875年にオーストリア帝国政府の奨学金の審査で提出作品が認められ、以後その支給を受けて乏しい収入を補っていました。その審査員の中にはプラハ生まれでウィーンで活躍していた音楽評論家のエドゥアルト・ハンスリック(1825〜1904)やブラームスがいましたが、特にブラームスはドヴォルザークの才能を高く評価して出版社のジムロックにドヴォルザークを紹介し、以後も生涯にわたってドヴォルザークを支援していくことになりました。
ジムロック社は、先に出版されていたブラームスの《ハンガリー舞曲集》の成功を受けて、ドヴォルザークにもこうした民族的舞曲集の作曲を要望しました。ドヴォルザークはそれに応えて作曲にとりかかり、
1878年の3月から5月にかけて《スラヴ舞曲集第1集 作品46》が、その後1886年の6月に《スラヴ舞曲第2集 作品72》がジムロック社から出版されました(上の写真は第1集初版の表紙)。
《スラヴ舞曲集》は、はじめはブラームスの《ハンガリー舞曲集》と同様にピアノ連弾曲集として出版され、発売直後から人気を博しました。この成功を受けてドヴォルザークは1878年の8月に第1集の、1887年の1月に第2集の管弦楽編曲を完成させましたが、こちらも好評を博してたちまち世界中のオーケストラのレパートリーとなりました。
第1集も第2集も、連弾版の初演については明らかになっていません。一方で管弦楽版は、第1集の第1、3、4番が1878年5月16日にアドルフ・チェフの指揮によって、第2集の第1、2、7番が1887年1月6日にドヴォルザーク自身の指揮によって、いずれもプラハで行われています。
《スラヴ舞曲第1集》ではボヘミアの代表的な舞曲であるフリアント、ソウセツカー、スコチナーなどが取り上げられていますが、ドヴォルザークは民族舞曲のリズムや特徴を生かしつつも、舞曲集の旋律は自身で独自に作曲しています。一方で《スラヴ舞曲第2集》ではチェコの舞曲は少数に止めて、スロヴァキアやポーランド、ブルガリアといった広くスラヴ各地域の音楽の特徴が取り上げられています。
そんなわけで、ドヴォルザークの誕生日である今日は《スラヴ舞曲第1集》から、一番有名な第2番ホ短調ではなく、早くに管弦楽編曲された第1番ハ長調をお聴きいただきたいと思います。チェコの代表的舞曲であるフリアントのリズムに基づく躍動感あふれる作品を、サイモン・ラトル指揮によるベルリン・フィルハーモニーの演奏でお楽しみください。